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2021/01/01 12:00:00

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投稿作品一覧

またたく

数多の信号

等しく甘い闇に
内からひかる星は 幾つ

瞬きに呼応して
ひかりを賜る星は 幾つ

存在を放ち
かたちを分かつ
互いを求め 反発し
惹かれあい
離れあう

たとえ
遺るものは 傷のみとしても
ひからざるを得ぬ者たちよ

届かなくてもいい
そう想える強さが 
あったなら

きみは
 きっと
  どの星よりも

 0

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 9

晴れの日と雨の日

なにが幸せ?

なにが不幸?

大きな快楽が喜びで

大きな不安を恐怖とするなら…

わたしは

小さな幸せと

小さな不幸がいい

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 1

最後の散文詩 言葉の花束

 

 自分の過去に押しつぶされそうになったとき、ただひとり、布団かぶって寝よう。後悔するのであれば「ごめんなさい」といって、ちょっとチャーミングでいた方がいいだろう。そもそも息を吸う、吐くということができるというのが奇跡だと思う。わたしが憎む相手にとって、あの態度をとらせる理由があるはずだと考える。戦いの場にわざわざ出向くことは単純こころを傷つけにいっているだけだと思う。そもそもこう、知識があるということが相手より、上に立つ材料にしてしまっている。努力はすべきだがこの努力は叶える目標のための努力なのだろうか。あの人は悪いひとだと決めて自分の世界を狭くするのか広くするのか考える。まずこれをやりとげたいという覚悟がなければ体の方が動かないんだけれど。でも「がんばっても失敗する」その固定観念が栄光をそもそも邪魔している可能性がある。いろいろ遠回りしてきたけれど結局答えは自分の中にありました。しかしひとに遠回りをしない方がいいとも言えません。自分自身恵まれている点に気づいているのに、なぜ感謝のこころが起こらないのだろうか。それも良い悪いで判断するのでなくそもそも十人十色なような気がする。信じるとはなにか。これがそもそも人によって違うんだ。私が信じるものと相手が信じるものが違うのに、なぜ私は私の信じるものを妥協してきたのでしょうか。信じつづける、ということがそもそもむずかしいというのならば、なぜわたしはその日々のタスクを信じ、こなしているのか。そしてたとえそれがひとに見られていなくとも悪いことをすれば自分のこころが傷つく。罰則がないからといって自分を傷つける悪いことはしない方がいいだろうな。禁煙薬があるからという理由で煙草を喫うことを正当化するのをやめたほうがいいけれど、欲ばり、あれもこれもやってみたいと思うことは素敵なことだ。人はそもそも不完全だと思うけれど、しかしそれを自由に生きるさまたげにしてはいけない。怒ったり、傷ついたり、そんなことが人生におこらないわけがなくそれはそもそもわたしの責任ではありません。そして、足りないものを足しあうことで実現することがあります。自分の足らないところを伝えようとして詩を書く。ただたんに言葉の花束を捧げているのではありません。ここにこころをこめます。どんな言葉でさえなにか明暗があるとしてその明るい色だけを信じた方がいいだろう。わたしはこの、こめひとつぶの味に感心しないでどうしてミシュラングルメの味がわかるのだろう。そしてあのスティーブ・ジョブズの最初の成功がいたずら電話だったことを今思い出します。


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 4

 9

季節詩

夏じみた風が、
窓から侵入して、
部屋をぬるめる。
近所の高校の陸上部が、
死んだ春の棺を担いで、
家の前の坂を駆け上がっている。
隣の家の犬が鳴く。
ぎゃん、と夏が来る。

 150

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 7

 7

ランドン

ランドンは三〇年前に植物の精神を両肺に移植し、
それ以降は羊たちと目を合わせることがない。


「どうして、ランドンは、サンドイッチに魚を入れないの?」


不可解なのは、
ランドンが便座を
すぐに殴って破壊することだ。

鏡に零れ落ちる砂粒
のクラリネット演奏に実ったイチジク
から伸びる影のめくれあがった
粘液の季節
それは油絵具
による修正のような斜線、
直線が細かく入るのだが
ランドンの恋愛遍歴
もそれに似て掻き消された細長い直線
が、ややカーブした突き当たり、
そこには一匹の虎猫
など寝ていれば良いのだがというような
吐息
その消えつつも残りつつある温度
にも似たような
存在であったようだ。

油絵具のカタマリが、
ボソボソと話した。

ランドンが落下する。
それはキンモクセイが満開になった夜のことだった。

夜の木は素早い煙のようにして、
廃墟に唇で吸い付く。

急がないで。讃歌は、いくつもの恋物語と、
トカゲと調律師を、
乾いた脳を横断する臨時的なこのモダニズムに、
接続してきた。

五年から三〇〇〇年の間だったような。

「どうして、ランドンは、ソーセージに、
ハチミツをたくさん塗らないの?」

鳴り響くサイレンに合わせて
ビャッ!
ビャッ!
と喚きながら
契約したと主張する恋人たちは、
この波間、
あるいはこの武器庫の火になり得る誕生日も、
いつかはランドンのようになるのだと、
ニセの声を用いながら
話した。

石灰の激怒、
お気に入りの空、
エーデルワイスのような
カボチャ頭の痩せ細った他者たち、
どうして
本質的な恐怖以前の議論を、
支配者の小径が
求めるのか。

村の人はランドンの靴しか見たことがない。
雨の皮膚を剥いで作った、特別な靴だった。

不可解。

「どうして、ランドンは生まれる前の体毛、
美しい少年の昼間の類型的な真実を、
骨をしゃぶりながら、
凝視し続けるの?」

ランドンは一〇〇年前に死んだ。
遠い雷を聞いて、
その瞬間、一匹の黒焦げの犬になっていた。

ランドンは、ヨーゼフ・ハイドンの交響曲を部屋で聴く。彼の目、
彼の引き攣る習慣。

一〇〇〇年前のランドンは、いまよりも少しだけ
饒舌だった。

「どうして、ランドンはミニトマトと対談しないの?」

以上が、ランドンの人生の物語である。
ぼくは、鉛筆にオイスターソースをかける。

 700

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 10

 (ム 一)

 ほうぼうから
 学者らがあつまって
 無とは なにか
 ぎろんした

 何千年と
 フォーラムは続き
 皺のよった胡桃を
 並べても
 結論は出ず
 
 ある学者が
 オリィブの木に
 鳩を飛ばしてみたが
 ついぞ
 無を観測することは
 できなかった


 (む 二)

 かみさまは
 はじめに
 分類をつくった

 でないと、
 なにがあって
 なにがないのか
 わかりゃしないもの


 (、 三)

 いっさいがっさいが
 お役目を終え

 ようやっと

 無の出番がきた

 壇上に上がった無は
 観客のいない会場で
 立ちつくしていた
 わけだけど

 全身のわななきの
 正体を教える人なんて
 もう 誰もいないものだから


 それは それは
 いたく かわいそう だったよ。

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デカルコマネチア

デカルコマネチ
などと今日び どのお笑いの芸人も
叫ばなくなった

日本的な楽器を停車した
ある喧騒なる鳥の廊下にいて
眠りのありとある方向に
鏡面体の季節を見た

それが
デカルコマネチ
であったのだろうか
今日び どのお笑いの芸人も
そのことを
考えなくなった

ブリキ屋に行けよ 記憶を売れよ

日本的なトマトはまだ青く
売るような記憶には
なっていない

そは青の胎児のごとく 天の青のごとくして
古代の詩の泡のごとし

がっかりして
卸の業者は帰っていく
ゼンマイの刺さった羊や山羊
キリンの類は置き去りにされた

夢幻ぽろろん
夢幻ぽろりん
鳴らすと雨が降ると言われ
不図 殴られるときもあったのだ

頭をかかえ奇声をだして
サティのノクチュルヌ第一番を聴いて寝た

目覚めると憎しみが湧いていた……

手首に唇の生えた男
脚の付け根から夥しいトカゲの群れを放つ男
彼が
ステンドグラスに見事な
極彩色の
デカルコマネチの鳥
を描いていた

一〇〇年近く前の
話である

鏡面体というのは
電気を恐怖しないものか
否 とげとげしい絵の具の半身
そは塗るほどに
仏像のような生活を語り
今日び どのお笑いの芸人も備えているものだ

デカルコマネチ
などと今日び どのお笑いの芸人も
叫ばなくなった

ブリキの蝉が
ダイヤモンドの骨で鳴いている

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 1

ばけるもの


ちかくを
たべて
とおくに
ゆけるのだね




うなずけばうなずくほど 正解が 
あなたに 
たべられてしまいそうだ  


 


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 5

 3

ビリジアン

朝目覚めると窓の外は緑だった
あわてて起きた
甘いりんごジュースを飲んだ

サンダルに履き替えた
散々車を走らせた
目的地が途中で消えた
知らない山道に
崩れた廃屋がいっぱいあった
白樺以外は全部緑色だった

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 5

 6

アンチポップ

爪の間にはさまっている性の匂いは
肝心な対価が とぎれている

朝ごはんを食べたかどうかを
気にするほどには
わたしはやさしくはないのですね

督促状の文字は、歪んでいる

(本当は、文字かどうかすら判別する事が出来ないほどに、曖昧な線だった。
それが、「関係性」そのものだと
主張するような、
情欲に滾る、はみだした線。)

直線はつきささるから、きらい
矩形は、うそをとじこめているだけだから
いい子ぶって、るだけだ、きらい
アルコールに浸した文字の羅列は
みたことのないオバケが
わたしの最終遺影にうつる、
きらい

それらをくみあわせたら
すごくあまい
そんなもの
おもちゃ として
もろい。

85点。をもらう。
その85点。だと思っているものをもらう
どの距離までの人たちが85点だと
思っているかわからないなにか
こわれやすいものさしだけだ
なにかをはかれるもの
「にぎりつぶすなよ。」と知らない言葉を吐きだすのは、たぶん、知らない年上の人

もうすぐ、
寝屋は朽ちる
形骸という言葉も
ごまかし の一種に過ぎなかったのだが
よう やっ と
形骸そのものになるのだろう
身体と身体がひとつになるという事が
可視化された初めての神話になる
言葉がなくなってやっと体温と律動が
においたつ

わたしは新しい神話だった、と
その頃、
だれしもがそんな事を呟きながら
最後、と
ペンキで塗ってあるドアを開けている


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 6

 4

絶滅電話帳




魂を封じた石の底で
死は安定して積もり
世は移ろい 後代へ渡る

最終版として殘された
絶滅電話帳は

なお 逝くことを拒み
微かな威厳を燈し

その頁の暗がりで
永遠の名を
脈打たせている


── 碧井雫


#碧井雫 #詩 #現代詩 #言葉

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チョコミント よりも……?

たまに見かけるな
くらいだった
チョコミントが
あちこちに売ってる気がする
理由は分かってる
あなたが好きだなんて言うから
目がいっちゃうんだよ

歯磨き粉味なんて言われてるから
食べず嫌いだったけど
あなたが好きだなんて言うから
買っちゃったじゃない

そんなチョコミントを
一つ摘んで 口にほおる

好きではないけど
嫌いでもないかな

なんて言い訳してるうちに
食べ終わっちゃった

美味しいのか?
美味しいな。
ついうっかり
嵌まっちゃったじゃん馬鹿

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 8

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みかづき

ゆうがたになると あらわれる
ちいさいあんよの まるいゆびさき
すこしくねって かおはひだりにかたむく
わたしのいえのまどに あらわれたしあわせ

きみがいることで なぜかしあわせなきもちになる

よるになると いえのあかりをわけあう
やわらかそうな かわいいやもり
しっぽがくるり みかづきのようなからだ
わたしといっしょにいてくれるしあわせ

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 2

 3

ひねもす

ひつじが鳴いていた
ひまわりが咲いていた
人がいた 好きだった
目を閉じる
陽だまりのなか
明日なら
死んでも良かった

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 3

 8

地球内生命体

生活が脅かされがちなこの国と
命が脅かされがちなあの国と

 思考

命が重荷でしかたないこの国
命が貴重でしかないあの国
どちらも
不幸だ
人間として生きるということは
どうにも
不幸だ

命を持つことになったことが
不幸だ

生まれてこないことへの
幸福


噛み締めろ

短命であったことの
幸運


認めろ

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 2

 2

二重らせん状の恐怖

無邪気から湧き出す残虐が
遊びの中で命を奪う

無邪気から芽生える慈悲が
奪った命を元に戻せと駄々をこねる

大人になり切れない心が
無邪気な狂気を手放そうとしない

狂気を手放した大人は満面の笑顔で
無邪気な子供を育ててゆく
 
らせん状に絡み合い重なってゆく恐怖は
無邪気に私を嘲笑う

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 1

 2

この翼のない身体

もしもお前がなかったら
心はこれほどまでに傷つくことはなく
傷ついたかれの傷ついた認識で
傷つける言葉をもたず生きていけたか
殖えすぎた私を生きるには
やや窮屈な155cm 50kgに少し足りない
たった一つの身体よ
誘惑と拒絶の反復横跳びを
逆立ちした人間らしさと
呼んでもらいたくて息をするのか
私はお前が疎ましいけれども
そうおいおいと泣くなよ
女体は弱っているときほど
欲望の矢に射られてしまうんだ
お前の太ももには十九歳のとき
死のうとして深く刺した傷あとがある
お前はいつも死にたいを帯びていた
青すぎる夜のここは八階
そろそろ楽にしてあげるよ
早くくたびれた靴を脱ぐといい
さいわい私たちは天使ではないからね

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 6

 5

アンジュールは饒舌である



 ただ一頭の犬をめぐる物語
 人の気まぐれによりさまよう

 白い紙に鉛筆で描かれた
 アンジュールは饒舌だという

 シュールな一冊の本とともに
 私もめぐりつづけている


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 2

 1

暴力ばかりで喧嘩っぱやくて乱暴でみんなから問題児として厄介者扱いされていた6年3組尾形狂一くんへ







   きみが投げた白球を
   はじめて受け止めたとき
   空がふるえた









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 4

 4

主張強め日記 6月21日 B-REVIEWのデータベースの委譲を求める

B-REVIEWという現代詩の投稿サイトが、期間限定でアーカイブ化された。
一ヶ月の公開を経て、おそらくサーバー契約は打ち切られ、10年近い投稿とコメントの集積は失われる。まともなアナウンスがないため推測を含むが、現状の運営姿勢から見て、その可能性は高いと判断している。


私はこのデータベースを、私とかばん餅を中心とするCWSチームに委譲することを求めたい。本稿では、なぜその求めが正当だと考えるのか、サイトの成り立ちと慣行に即して整理する。


B-REVIEWは、私が骨格を設計し、かばん餅がシステム開発に携わったサイトである。CWSの初期メンバー、アドバイザーらも元運営、常連投稿者として貢献したサイトである。


B-REVIEWの運営原理は明快だった。サイトのコンセプトに同意する者であれば、誰でも運営になれる。ただしコンセプトと三原則、運用ルールは厳格に定められており、それらに沿う限りにおいて、運営は世代を越えて引き継がれていく。所有者が固定されず、しかし理念によって連続性が担保される——「誰のものでもあり、誰のものでもない」という設計だった。


この仕組みは一定、機能した。問題が皆無だったとは言わないが、誰もが自分ごととして関われる構造のもとでサイトは活況を呈し、10年近く、七期にわたって引き継がれながら継続した。理念への同意が運営資格の根拠であり、継続性の維持が運営者の責務である。この二点が、B-REVIEWという仕組みの土台だった。


八期運営を名乗る人たちは、この土台から二重に逸脱している。


第一に、資格要件の問題である。彼らは運営に就いた後、サイトのコンセプトとルールに同意していないと表明した。正確には、ガイドラインを守ると言いながら、同時に守らないとも宣言する——卑劣な二枚舌を使い分けた。そして過去に複数回アクセスを禁じられていた人物を運営に招き入れ、サイトのあり方そのものを変更した。理念への同意が運営資格の唯一の根拠であるこのサイトにおいて、その同意を欠く者が運営の権能を握る。これはもはや継承ではなく、乗っ取りと呼ぶほかない。


結果は記録の通りである。大きな反発が起き、協力者は離れ、サイトは荒廃した。変更を主導した中心人物は、事態が手に負えなくなると姿を消し、音信不通となった。残されたのは荒れ果てたサイトと、責任の所在の不在だけだった。


第二に、より決定的なのが継続性の放棄である。B-REVIEWの慣行では、運営を退く際は次の運営を見出し、引き継ぐ。これは任意の美徳ではなく、世代交代によって連続性を担保するという設計上、運営者に課された責務だった。


彼らはこれを履行しなかった。ここには看過できない経緯がある。そもそも八期運営が発足したとき、「こんな運営をするくらいなら自分が運営をやる」と声を上げた人たちがいた。私やかばん餅もそこに含まれているが、そこに止まらない。ところがいざ閉鎖の段になっても、彼らはその人たちに頭を下げて引き継ぎを請おうとはしなかった。


代わりに彼らがしたのは、自分達が選考する体を崩さず、形ばかりの引き継ぎ公募を出すことだった。結果は予想の通りである。まともな書き手は誰も手を挙げず、応じたのはサイトのコンセプトに同意しているとは到底思えない、本来なら即刻出禁となって当然の、過去に問題を起こしてきた迷惑投稿者ばかりだった。


引き継ぐ意思のある適格な人間が現に存在したにもかかわらず、その人たちには頭を下げず、誰も引き受けないとわかりきった公募で体裁だけを整える。理念に同意せず、継続を担う意思も能力もなく、それでいて引き継ぎの主導権だけは手放さない。継続性の維持こそ運営者の根拠であるならば、それを放棄した時点で、彼らは運営を名乗る資格をすでに失っている。


そして今、彼らは10年近い記録を闇に葬ろうとしている。七期にわたって受け継がれてきたサイトの財産を、二度と復活できない形にする。理念を捨て、継続を放棄した者の最後の仕事が、「救済措置」とサイトそのものの抹消だというのは、悪い冗談のようですらある。


以上を踏まえて、委譲を求める根拠を示したい。


正当性は、二つの水準で主張できる。
出自において、私と「かばん餅」のチームはサイトのコンセプトを定め、システム開発を主導した。理念への同意を資格の根拠とするB-REVIEWの原理において、その理念の設計者であることは、最も強い適格性のひとつである。能力において、私たちにはB-REVIEW、そしてCWSというサイトを実際に構築・運営してきた実績がある。すでに出来上がった仕組みを乗っ取り、ただ継続するだけの運営ではない。一から作り、育ててきた者である。データベースを引き受け、適切に保全しうる現実的な裏付けがある。


理念に同意せず、継続を放棄した者が記録を葬る権能を持ち、理念を設計し継続を担いうる者がそこから排除される。この構図は、B-REVIEWの設計思想を真っ向から裏返すものだ。


10年近くにわたる投稿作品とコメントの集積は、特定個人の私物ではない。「誰のものでもあり、誰のものでもない」というこのサイトの性質に照らせば、それを保全し次代へ渡しうる者に託されるべきものである。残党の手で葬られてよいものではない。


私はこれから、関係各位に対して正式にデータベースの委譲を求めていく。本稿はその根拠の表明である。

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批評・論考

紫陽花

雨に色などあるはずもないのに
青く、蒼く、さめざめと泣いている

涙に色などあるはずもないのに
青く、蒼く、ひたひたと湛えている

夜更けと夜明けのあわいに浮かび上がる
あの瑠璃色の紫陽花へと
落ちる

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へんしん

しなくては
だめなのに
できないでいます

へんしんふようと
いってくれたら
うれしいけれど

それならば
つながれなくって

へんしん
じょうずじゃなくて
ごめんなさい

できればこれを
よんだのなら
ありのままで
っていってほしい
※返信不要です※

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 2

孤独の深淵


濃藍の空

凪いだ海は鏡のように

青く煌めく星を鮮やかに浮かべた

今日も孤独の深淵へじんわりと沈んでいく

僕の心奥に手が届くのは

いつだって声を持たない君たちだけだ

ゆっくりと瞼を閉じて白砂に身を委ねる

ふと気付くと

赤い光の訪れとともに

濃藍の空は綺麗な紫へと姿を変えていた

街が目覚める前に家に帰ろう

僕は温かい寂しさを胸に帰路に就く

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 2

あさ

めがさめてないている

なにかに
おいかけられていた

めがさめて
つめたいくうきのなか

まだ
ゆめのなか

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 12

家族の証明

枕の下の布団の下のベットのすのこの上に置かれた焼酎の容器。

それがいつしか枕の下に置かれるようになっていた。

もう、隠す気もないのだろう。
楽しみを奪わないでくれと言う
大きな胃袋は満タンになって溢れだした。放り出された人間性。
それでも、心だけはずっと空腹のままだった。

話があるのと声をかけることは回数を追うごとに、ぼんやりしてくる。
話は当たり前のように決裂する。
真剣に話そうとすれば、うろうろと歩きパンを食べ始める。
説教をされて落ち着かない子どものようで、
しかしこちらの調子を崩していることは、
かつて大人だったあなたは分かっている。
話がとんでもない所に着地しそうになるところを修正しても、
なおも同じようにとんでもない所に着地する。
わたしはぼんやりしている。

物は置かれ、空を漂うことはない。
上がったものは落ちてくる。
それを分かってほしい。

すべてをあきらめてしまったらどうなるのだろう。
薄暗い話はよく聞こえてくる。
それでも、稀に真摯に人生を生きた先輩の姿が、
私の中の何かを、わずかに揺らす。

悪の醜聞は久しく、ほぼ野垂れ死に。
その垣根のすきまにある光。
それを正義と呼びたい。
正義を一緒に証明しようではないか。

愛はかくも脆いことを証明してはならぬ。
愛はかくも脆いことを証明させては、ならぬ。

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『山岳部の活動ばかりでかまってくれない先輩はお仕置きです! 〜~~ 1/1000に縮小された俺の女体山完全制覇への道 〜~~』

『山岳部の活動ばかりでかまってくれない先輩はお仕置きです! 〜~~ 1/1000に縮小された俺の女体山完全制覇への道 〜~~』

笛地静恵

【ノート】R18です。暴力や性的表現があります。成人したら読みに来てください。ライトノベル風巨大娘小説の第四弾です。ただし「登山家」というのは、「職業」というよりは、「趣味」の領域でしょう。「職業尽くし」の一編とするつもりはありません。原点は過去の作品である「女体山登頂記」です。続編の「女子大生登頂記」とお考えください。同時期の構想でした。AIさんとの共作です。登山用語の部分に関しては、知識の受け売りとなります。そのつもりでお読みください。笛地静恵 2026年6月21日(日)

第一章 小さな挑戦者

橿原芳恵は大学一年生のかわいい女の子だ。大人びた格好を好む、モデルのようなポーズをとる。少し背伸びをしたい年頃である。きわどい衣装を着ては、俺をどきどきさせる。どちらかといえば、おとなしい性格である。口数も少ない方だ。

だが、最近の芳恵の瞳には、子供っぽい憧れ以上の、どこか危うい光が宿っていた。高校時代は、同世代の男子との幼稚な恋愛に飽き足らなかったという。もっと大人の恋がしてみたい。それが、口癖だ。濃密で、少し危険な世界を体験してみたい。大きな黒い瞳の奥に燻らせている。そんな年頃だった。

そして俺は、橿原芳恵の二つ年上の先輩となる。加納泰造。歴史と伝統のある青猫山学院大学山岳部の副部長である。数々の険しい山を制覇してきた自負がある。マニアと呼ばれる山男だった。

芳恵と俺は、キスとぺッティングまでは体験している。しかし、そこまでだった。たがいの部屋に遊びに行く間柄なのに、本番までは行っていなかった。橿原芳恵は加納泰造のあまりの優柔不断さに業を煮やしていたのだろう。

なにしろ彼女の相手さえろくにしてやっていなかった。夏山合宿に向けた過酷な自主トレや、就職活動の準備などに追われて忙しかった。芳恵が挑発的な視線で誘ってきても、「今、忙しいから」と冷たい言葉で拒絶してしまっていた。

だが、それは本心ではなかった。本当は、少し背伸びをする彼女が眩しすぎた。手を伸ばせば、自分の欲望が彼女の青春を壊してしまうのではないか。怖かった。それに、山男には遭難という危険が、避けられなく存在する。十九歳の芳恵を、孤独な未来に巻き込んでいいか。あるいは、橿原芳恵の存在が、山への挑戦の意欲の障害となるかもしれない。あとになって反省すれば、男特有の煮え切らない独占欲の裏返しの感情でもあったろう。だが、そんな独りよがりの優しさが、芳恵を傷つけていたことに、当時の俺は気づきもしなかったのだ。

大人の階段を登りたがっている橿原芳恵にとって、加納泰造の素気なさは、かえって独占欲と性的な好奇心に、火をつける結果となったのかもしれない。かわいそうなことをしていた。そして、あの奇矯な行動に出たのだ。

青猫山学院大学が夏季休暇に入った午後のことだ。芳恵は自分の部屋の机の引き出しの奥から、不思議な鈍色の光を放つ古い玉を取り出した。曲がっている。勾玉だろう。亡くなった祖母から願いが叶う道具として貰ったという。

俺は彼女のアパートの部屋のソファで、一本の丸太になって昼寝を楽しんでいた。朝から筋肉トレーニングをしてきた。全身の疲労が心地よかった。

芳恵は俺の顔に勾玉を向けた。妖艶な微笑みを浮かべている。たった一つだけ願い事を叶えてくれる。でも、自分の身も心も捧げねばならない。芳恵の話を寝物語としてきいていた。

「泰造先輩が、そんなに山が好きなら、芳恵のからだの山に登らせてください。千分の一の大きさにしてください。そして、私の身体のすべてを体験させてください、私のすべてを見てもらえますように……」

勾玉から鈍色の光がきらめいた。俺の体はみるみるうちに縮んでいった。あっという間に消しゴムのカスほどのサイズになってしまった。

立ち上がろうとした。長い長い一本の黒い縄がうねっていた。……いや、違う。シーツに落ちた芳恵の頭髪だ。髪を長く伸ばしている。空気中を白い怪物がゆっくりと浮遊している。俺の頭ほどもある。巨大なハウスダストの塊。

俺は橿原芳恵の顔を見上げた。口の前で両手を丸くした。大声で叫んだ。だが、俺の声は蚊の鳴くようなか細い音でしかなかったのだ。

「芳恵、これはどういうことだ! 俺の体を元に戻せ!」

俺は小さな両手を振り上げた。しかし芳恵は悠然と俺を見下ろしていた。獲物を罠に嵌めた悦びに表情が輝いていた。

芳恵はベッドの脇で、シャツと短パンを脱ぎ捨てた。驚天動地の大騒ぎだった。なにしろ、芳恵は千分の一といった。それならば、彼女は俺には千倍の巨人だ。一メートル七十五センチの彼女は、一千七百五十メートルになっている。生きた山が動いているようなものだ。俺のいるシーツの荒野は、大地震に見舞われていた。立っていられなかった。跳ね飛ばされる。

赤い上質の絹のシースルーのブラジャーとパンティを誇示するポーズを取った。くびれた腰をひねった。あらかじめ身につけていたのだ。

そして、ベッドの上に仰向けに横たわった。極薄の赤い絹地からは、彼女の瑞々しい白い肌が艶めかしく透けている。

「どう先輩、女の体は」

大胆に横たわってはみた。だが、その実、彼女の肩の線が震えている。俺は見逃さなかった。肌がみるみる赤く染まっていく。

「少しは感じてくれた」

言葉は煽情的だ。腰をくねらせるのも、鏡の前で何度も練習した、大人の女のポーズなのだろう。しかし、いざ大好きな俺の視線を(それがどれほど小さな瞳であっても)受け止める段となって、猛烈な羞恥心が、白い肌を内側から襲ったのだ。極薄の赤い絹地から透ける肌は、恥じらいによって桜色に上気している。挑発の熱だけではない。

ベッドのシーツをきゅっと握りしめた。芳恵は自分の胸元を隠してしまいたい衝動と必死に戦っているのだ。息を吸っている。ブラジャーのストラップが、緊張を物語って揺れている。映画館の巨大なスクリーンに投影される以上に巨大だ。すべてが見透かせる。俺の視線からは何も隠せていなかった。

もう引き返せないというためらいと、私をちゃんと女として見てほしいという切実な願いが、彼女の潤んだ瞳の奥でせめぎ合っていた。

芳恵は小さくなった俺を、壊れやすいガラス細工を扱う手つきで、そっとつまみ上げた。
そして、足のつま先の前にそっと降ろした。

「先輩、最近、山岳部の活動が忙しくて、全然、かまってくれないから、お仕置きです」

空の彼方から雷鳴の芳恵の声が鳴り響く。口まではなお相当の距離がある。それでも、彼女の吐息は突風となり、俺の衣服を激しくなびかせる。

「先輩には、芳恵山を探検してもらいます」

芳恵が小さく鼻で息を吸い込んだ。それだけで、俺の周囲の空気が一気に前方へと引きずり込まれる。強力な気圧の変化(ダイソン現象)が生じた。体ごと持って行かれそうになる。続く吐息は、ただの風ではなかった。大気を震わせる音波の衝撃。鼓膜を強打した。ただ一度、無意識に喉を鳴らす。世界が地鳴りを上げて震える。俺は文字通り世界創成の女神と対峙している。圧倒的な実力差を、肌感覚で思い知らされていた。

「ルールは簡単です。私の右足のつま先から出発して、太もも、股間、お腹、胸、首を越えて、ゴールは私の唇にキスをすることです」

俺は風に吹き飛ばされないよう、シーツの繊維の網を、両手で握りしめた。

「勾玉の力を使って、必ず元の姿に戻してあげます。そして、私の初めてを全部あげます。でも、成功するまで、先輩の体は元には戻れません」

芳恵の女神の神託のような大音声に両手を耳に当てていた。大脳が脳震盪する。頭を抱えた。けれども、「初めてをあげる」という大胆な告白が、奇妙な質量を伴って、俺の脳髄に残った。

山岳部の俺にとって、ベッドの上に横たわる芳恵の体は、眼前にそびえ立つ未知の巨大な山脈そのものだった。しかもその山脈の中腹と未知の処女峰は、真っ赤なシースルーの絹という未知の障害物で覆われている。

「そんな無茶な登山計画があるか! この足で、お前の唇にたどり着くまでに、どれぐらいの時間がかかるか、分からないぞ!」

「先輩は、山岳部の猛者なんだから、登山の技術は、人一倍、すごいはずです。頑張ればすぐに登れます。それとも、赤い絹に包まれた大人の女の身体が、怖くなっちゃいましたか?」

芳恵は挑発的な笑みを浮かべている。本気である。俺にはわかる。いつもは大人しいのに、いざというときには、意思を変えなかった。性格に固い核心がある。俺の好きなところだ。

俺は唇を固く結んだ。胸の中の半分は怒りだ。激しく煮え立つ沸騰したお湯だった。しかし後の半分は、山岳部の血が、どうしようもなく騒ぎ始めていた。前人未到の巨峰への挑戦の意欲に躍り上がっていた。この機会を逃す手はない。しかし、どうすれば。

脚下照顧。俺は足元を見つめた。シーツの生地からして、すでに足を取る繊維の網の目だ。目の前にそびえ立つ芳恵の右足の親指を見上げる。皮膚の表面は、無数の細かい溝が走る乾いた大地の割れ目——つまり、無数のホールド(手がかり)が存在する岩肌だ。できるかもしれない。だが、何の装備もない。ハーケンもピッケルもロープもない。ヘルメットもない。素手で登るしかない。けれども、人間の山に登る。こんな体験をした登山家は誰もいない。俺が初めてだ。アムンゼンらの名前に並ぶことにいる。

「分かった。お前の挑戦を受けて立つ。俺も青猫山学院大学山岳部副部長として、いくつものルートを切り開いてきた男だ。登山の技術を使って芳恵山を踏破してみせる!」

俺はクライミング前のウォーミングアップをていねいにじっくりと行った。心臓は、規則正しい鼓動を刻む。恐怖を消えていく。深呼吸をした。

芳恵の右足の親指の付け根に向かって、一歩を踏み出した。

第二章 角質の荒野

橿原芳恵の足の親指に一歩近づいた瞬間、むわあっとした強烈な熱風(上昇気流)が俺の面体を打った。巨大な生物の体温が、ミクロの空気をごうごうと暖めている。肌の表面から陽炎となって立ち上っている。同時に、足臭が強烈な揮発性のガスの霧となって鼻腔を刺激していた。噎せていた。桁違いのスケールの持つ破壊力。活火山の硫黄の噴出する噴火口の前か。錯覚に陥った。一瞬だけ、足がすくんだ。だが、断じて橿原芳恵のせいではない。俺の嗅覚のセンサーが敏感に過ぎるからだ。

皮膚の溝という崖の岩肌の突起をしっかりと掴んだ。山岳部で鍛え上げた手と指の力がある。三点支持を常に意識する。芳恵の親指の側面へ力強く登り始めた。

皮膚の溝は、俺の小さな指先にとっては、険しい崖に刻まれた細いレッジ(足場)だ。手足のホールドを確実に確認していく。一段ずつ確実に体を引き上げていく。額から大粒の汗が流れ落ちた。




ようやく親指の頂上。第一峰に達した。激しく息を切らせていた。慣れない環境に適応しなければならない。緊張していた。まだ手慣らし足慣らしの段階である。ここからが、本当の試練の始まりだ。足の甲の荒野が広がっている。白いアプローチ(登山口までの道のり)は、乾燥した角質が剥がれ落ちる不気味なガレ場(小石が崩れる斜面)だ。

芳恵はベッドの上で身じろぎもせずに、静かな呼吸をしている。だが、息をするたびに、俺が立っている足の甲は、ゆっくりと大きく上下に揺れ動く。両手を広げてバランスを取る。

足の甲の荒野を走り始めた。しばらく進む。斜面が徐々に急になってきた。足首の関節にあたる急坂だ。四つん這いの態勢をとる。両手も地面につける。慎重に斜面を這い登り始めた。

足首の坂を越える。天に向かって真っ直ぐにそびえ立つ巨大な円柱が現れた。芳恵のすねだ。すねの骨の上の皮膚はピンと張っている。逆らうことの許されない滑らかさを持つ。磨き上げられた大理石の垂直壁(スラブ)だ。

俺は皮膚の凹凸(カチ)に指先を引っかける。山岳部のプライドにかけて、登る手を止めなかった。すねの中間地点まで登った。突然、芳恵が右足をわずかに傾けた。世界が九十度回転する。天変地異(アバランチ)だ。

さっきまで垂直の壁だったすねの皮膚が、一瞬にして俺の頭上にのしかかる。大ハング(傾斜180度以上の天井)へと変貌する。指先が剥がされ、そのまま数十メートル下のシーツへと滑落(強制グリスサード)する。死の恐怖が脳裏をよぎる。
体が宙に浮きそうになる。俺は、手の近くにあった一本の産毛に飛びついた。しがみついた。この山は生きている。芳恵は遊んでいる。それなのに、こっちは命懸けだ。あとで、とっちめてやらないと気が済まない。そのためには、ゴールに到達し、この状況から脱出しなければならない。行くしかない。

力を振り絞った。すねの柱を登り進める。ついに俺の手が、少しザラザラとした丸いドーム状の岩肌に触れた。芳恵の膝小僧だ。膝の皮膚は無数の細かいシワが網の目となって重なり合っている。細かな皮膚のめくれが、鋭利なガラスの破片となって乱立している。

恐るべき角質の荒野だ。剥がれかけの皮膚は、強風に晒された雪山が描く凶悪なシュカブラ(風紋)のように尖り、足元をすくおうとする。ストックもない。無数のシワが刻む深いシュルント(裂け目)を越える。狂気の沙汰だった。

俺はシワの階段を一段ずつ手探りで這上がった。膝小僧の頂上にある、少し平らなテラス(岩棚)にたどり着いた。休憩が可能だ。息がつけた。

膝小僧の頂点に大の字になって倒れ込んだ。熱い息を漏らした。

遥かな先を見上げる。白い世界とは一変していた。太ももの上部から股間、そして下腹部にかけて、燃え盛るマグマ色の赤いパンティの巨大防壁が立ちはだかっている。俺の侵入を拒んでいる。

膝小僧の先には、芳恵の太ももという名前の、さらに巨大な円柱が横たわっていた。

これほど巨大なのに、太ももの皮膚には、なおつきたてのお餅のような柔らかさがあった。足を踏み出す。体重を吸収される。深く沈み込む。冬山の豪雪地帯で終わりなきラッセル(新雪を押し分けて進む過酷な歩行)を強いられているようだ。

だが、このあたりから俺の胸の内に、引き返せない揺らぎが生じ始めていた。一歩を進める。肌の柔らかさが、足首を包み込んでくる。弾力が押し返してくる。俺が征服してきたどんな冷たい山々とも、根本的に違っている。俺を芯から融かしていく。甘美な罠がある。

いやいや。罠と考えるべきじゃない。芳恵の肉体が発する、寂しさの熱量だ。俺が山に入っていた間、どれほどの冷たい孤独に耐えていたのだろう。俺を包み込んでくる柔らかな弾力は、突き放しても求めようとする、不器用な愛の重さそのものではないか。冷酷な氷河を歩いているのではない。俺を狂おしいほどに必要としている、一人の少女の愛の真ん中を歩いている。身体の芯から理解させられていた。

さらに登る。ついに赤い絹のパンティの裾のゴム部分(ウェストバンド)に突き当たった。直径が数センチメートルもある。真っ赤で頑丈な超巨大なナイロンのロープが横たわっている。

「先輩、そこから先は、有料のエリアですよ? 大人の階段を登る、代金を支払う覚悟はできてますか……?」

芳恵は、上空から直径百メートルの手鏡に映して、俺を観察している。吐息の混じりの声が降ってくる。

挑発的な言葉とは裏腹に、手鏡に映る芳恵の瞳は、どこか縋る(すがる)ように震えている。異常な状況に怯えていないわけではなかったのだ。それでも、こうして自分のすべてを曝け出さなければ、俺の視界に入らないのではないかという、引き返せない覚悟が震えから伝わってきた。

そして、芳恵の皮膚から蒸発する水分が、甘く狂おしい香りの霧(ミスト)となって俺の全身を包んできた。行かなければならない。

俺は巨大な赤いゴムロープに両手をかけた。ゴムが最も低く凹んでいるコル(鞍部)を狙う。山岳部で鍛え上げた泥臭いマントリング(ホールドのない崖の上へ腕の力だけで身体を押し上げる技術)の要領で、一気に体をよじ登らせた。

上質な絹糸が縦横無尽に編み込まれた、真っ赤な網状のメッシュの平原。

千分の一の俺の視点からは、一本一本の絹糸が太い赤いロープである。真っ赤なメッシュの隙間に手足をかけた。壁一面に垂らされたアブミ(縄ばしご)の連続を、ユマール(昇降器)もなしに、腕力だけで、ひたすら登高していく。狂気のクライミングを敢行した。隙間には、芳恵の皮膚が、妖しく波打っている。

俺は赤い絹のロープを掴んだ。堅固な足場とする。左右の太ももが合流する最も深い谷の底——股間へ向かった。
左右から迫る白い肉の壁。それを覆う真っ赤な絹のカーテン。世界の果てにある秘密の大峡谷(グランド・キャニオン)だ。登山用語でいう、もっとも険しく、もっとも暗い「ゴルジュ(岩の詰まった深い谷)」だ。

濃密にこもるジャングルの熱気と濃厚な雌の気配に、俺の大脳は酸素を拒絶される。標高八千メートルの高峰を超えている重度の高山病(高度障害による判断力低下)に陥りかけている。そして、高山のはずなのに、濃密にこもる熱帯の夜のジャングルの熱気。赤い絹地を通して伝わる、あまりにも濃厚な雌の気配。危ない年頃の芳恵が、俺を誘うために用意した大人への愛の入り口。

秘められたむわあっとする熱気に理性が焼き切れそうになる。サークルの二歳後輩でしかなかった芳恵の肉体。身にまとう大人の衣装。今は俺の全宇宙を占領している。絶対的な性愛の美が迫ってくる。俺は知らず知らずのうちに、熱い絹の網目から指を差し入れて、芳恵の皮膚を愛撫していた。芳恵の香りを深く吸い込んでいた。

第三章 双耳峰の命令

少しの間、荒い呼吸を整えた。上を見上げた。パンティのウエストゴムの防壁を越える。芳恵の腹部の白い平原が広がっている。彼女が呼吸をする。お腹の皮膚は大きく上へ下へとゆるやかな波を打っている。

お腹の世界は、白く滑らかな巨大な雪原だ。俺は再び四つん這いとなる。芳恵の素肌に両手と両足をぴったりと密着させる。摩擦力を活かして進む。しばらく登っていく。突如として巨大なアリ地獄の大穴が出現した。芳恵のお臍である。

直径数メートルにも感じられる。お臍という名前の暗黒のチムニー(煙突状の縦穴)である。体内の奥深くから渦巻く、めまいがするほどに濃密な皮膚の熱と、石鹸の残香が混ざり合った未知のガスが、ごうごうと噴き出している。

縁から覗き込めば、衣服の繊維が固まった不気味なチョックストーン(岩の隙間に挟まった巨石)が、うねる皮膚の壁の奥底に見える。どこまでも深く暗闇へと落ち込んでいる。底は見えない。芳恵が息を吸い込む。大穴に向かって、周囲の空気が吸い込まれる。俺のからだを引っ張る。一歩を間違えれば、生きたまま世界の裂け目へ、滑落してしまいそうだ。

君子危うきに近寄らず。本来ならば、安全第一主義である。お臍の穴から十分に距離を置いた。大きく迂回する。難所を無事に通過した。



上半身の世界に入った。橿原芳恵の心臓の鼓動が、地下で鳴り響く巨大な地響きとなって足の裏から、さらに強く全身に伝わってくる。心音の太鼓に励まされて進む。

やがて、視界の前方に、ふたたび真っ赤な絶壁が姿を現した。芳恵の豊かな胸を包み込む赤い絹のシースルーのブラジャーだ。圧倒的な存在感を放つ赤き双耳峰(二つの頂を持つ山)として立ちはだかった。二つの峰の間に真っ直ぐに突き上げる、肉厚で狭隘なルンゼ(岩溝)、つまり胸の谷間をルートに選んだ。湿地帯だ。芳恵の汗が溜まっている。粘着質の液体を、足でびちゃびちゃと踏んでいく。水分は欲しい。喉がからからだ。飲みたい。しかし、飲んではならない。塩分を含む。喉がさらに焼けてしまう。

ブラジャーのセンターを繋ぐ赤い絹の帯が、赤い吊り橋のように頭上に架かっている。左右から押し寄せる体温と、シースルーの絹が放つ独特の甘い香りに包まれて、突き進んでいく。

胸の谷間の最も狭い場所を這い進んでいるとき、手鏡の芳恵の巨大な女神の瞳が、上空から覗き込んできた。瞳は潤れた光を湛えている。

「先輩、そんなに狭い谷間を、コソコソと通るなんて、山岳部の猛者なのに、全然かっこよくないですよ。ルールを変更します。赤い絹のブラジャーをよじ登って、右胸の山頂にある、ピンク色の突起を、征服してください。……ねえ、先輩、早く私の一番敏感な場所を、その体で感じて……」

逆らうことはできない。甘くて淫らな女神様の命令だ。その声に、どこか歪んだ喜びすら感じ始めていた。もっと翻弄されたい、もっと肉体の神秘の奥深くへ、踏み込みたい。男性自身の欲望が、登山家のプライドを徐々に塗り替えていく。



俺は右手の乳房山へとルートを切り替えた。ブラジャーのシースルー生地は、最高級の絹で編まれた頑丈なネット(網壁)だ。指先がしっかりと引っかかる。極上のクライミング・ネットだ。赤い絹糸のホールドをガシッと掴んだ。一歩ずつ、確実に垂直に近い傾斜を登っていく。

芳恵の胸が揺れた。声に出さずに笑ったのだろう。しがみついている赤い網壁は、上下左右へ、グワングワンと大波を打って揺れ動いた。暴れる巨獣の背中にしがみつく。全身の筋肉で必死にへばりつく。顔が、赤い絹糸の網のから、乳房の素肌に深く押し付けられている。脳の芯が痺れる。快感が全身を駆け抜ける。柔らかさに歓喜の声を上げそうになった。



激しい揺れが収まるのを待つ。ブラジャーの網目越しに、柔らかな肌から伝わるトク、トク、という規則正しい鼓動を聴いていた。冬山の吹雪のビバークの寝袋で聴いた自分の心音よりもずっと温かい。生きている喜びが満ちている。ああ、俺は、芳恵の命のど真ん中にいる。山岳部の魂に不思議な慰謝が宿る。

激しい鼓動は、俺を翻弄する女神様のそれではない。大好きな男を前にして、張り裂けそうなほど緊張している一人の女の子の、健気な命の証だ。俺を試している芳恵自身もまた試されているのだろう。危険な登山に震えている。俺は願いを叶えねばならない。山岳部のプライドだけではない。俺を愛する芳恵を抱きしめるために。

乳房山の揺れが穏やかな波へ戻った。登頂を再開した。絹のネットを力強く登り詰める。ついに目の前に、赤い極薄の絹地に包まれた、ピンク色をした円錐形の巨大な岩塔(ピナクル)が現れた。芳恵の乳首だ。

シースルーの絹糸が、突起の形をさらにくっきりと浮き上がらせている。俺は赤い布に包まれた最も熱く尖った頂点を踏みしめた。処女峰への命がけの初登頂(ファースト・アセント)に成功したのだ。芳恵の鏡の中の笑顔が俺を祝福していた。

第四章 決死のデスゾーン

次の目的地である顔へ向かう。俺はブラジャーの上部のライン(カップの縁)を乗り越えた。鎖骨という名の頑丈な白い堤防がある。足をかけた瞬間、足裏から全身を突き抜ける凄まじい大地の脈動があった。俺はひざまずいた。ドクン。ドクン。皮膚のすぐ下を通る頸動脈のマグマの流れが、大地の骨をリズミカルに跳ね上げている。活火山の地鳴りの上で、クライミングをしている。芳恵の命のエネルギーが、物理的な衝撃波となって俺の小さな五感を激しく揺さぶる。

首の付け根にたどり着いた。顔へ向かうには、天に向かって真っ直ぐにそびえ立つ巨大な円柱の塔である芳恵の首を登らなければならない。顎が前方へ大きくせり出している。巨大なハング(オーバーハングの岩壁)となっている。登攀は不可能だ。道具がない。

素早く周囲を見渡した。首の右側に長い黒髪の滝が目に入った。ベッドのシーツの上まで豊かに流れ落ちている。

「芳恵の黒髪を命綱にすれば、耳の裏側を通って、顔の上に出られるはずだ!」

俺は首の側面を横に移動した。髪の毛の束へと近づいた。何本もの太い髪の毛を束ねて一掴みにする。体にしっかりと引き寄せる。愛用しているリンゴのシャンプーのあの甘い匂いが、濃密な霧となって立ち上る。俺は髪の毛のロープを頼りにして体を引っ張り上げた。

耳たぶを回り込む。頬の境界線へ近づいていった。ついに、芳恵の巨大な顔の側面へ到達したのだ。頬にびっしりと生え揃う繊細な産毛のホールドを交互に掴み換えながら、滑りやすい頬の斜面を横方向へとトラバース(横断)していった。

頬の端にたどり着いた。世界のすべてを吹き飛ばさんとする絶望的な暴風が俺を襲った。

天を仰ぐ二つの暗黒の巨大洞窟。芳恵の鼻孔だ。数秒おきに周期的な世界の呼吸が牙を剥いていた。

息を吐き出す。洞窟からは、極限まで温められた猛烈な熱風が噴き出してくる。エベレスト山頂付近で吹き荒れるジェットストリーム(突風)だ。まともに喰らえば、一瞬で顎の下まで吹き飛ばされる。滑落死する。俺は頬の太い産毛の根元に指を食い込ませ、衣服の襟を閉じた。顔を伏せる。過酷なデスゾーンで、嵐が過ぎ去るのを待つ。極限状態のビバーク(死と隣り合わせの野宿)だった。

だが、本当の地獄はその後だった。芳恵が息を吸い込む。今度は、周囲の空気が世界の大気のすべてを巻き込んで、暗黒の洞窟へと引きずり込もうとする。狂気的な吸引の嵐(大気崩壊)へと反転する。急激な気圧の変化で、鼓膜が激痛を訴える。部屋の空気が凄まじい速度の刃となって、俺の全身の皮膚を切り裂こうとする。

「くそっ……! 唇を目前にして、なんてデスゾーンが、用意されてやがるんだ……!」

熱風の直撃による極熱。吸引時の極冷。交互に襲いかかる過酷な気流のサイクルを見極めなければならない。山岳部で培った集中力を極限まで研ぎ澄ました。橿原芳恵が息を吐ききり、次に吸い込むまで。わずか一秒の静寂(ウインド・ウィンドウ)を狙った。命がけのダッシュを敢行した。

そびえる鮮やかなピンク色の双丘が現れた。ゴールの地点。芳恵の唇だ。
千分の一の俺の視点からは、瑞々しい潤いを湛えた、美しくも険しいリップラインの岩壁だった。

頬の産毛地帯を抜ける。ピンク色の岩肌へ足を移した。足元が深く沈み込む。鼻孔の巨大な洞窟から、甘い吐息の熱風が吹きつけてくる。すでに酷使された体力を、さらに削っていく。上下の唇の間に深い溝がある。やや暴風が弱まる。四つん這いになる。熱風の合間を縫う。粘膜は襞が多い。捕まる場所がある。そして濡れている。肌が吸い付く。体が安定する。息を付けた。呼吸が安定する。唇の最も高くなった中央のドームの頂上へ這い上がった。

そして、息を整える間もなく、自分の両手を柔らかいピンクの肌に突き立てた。焦っていた。自らの口元を、芳恵の皮膚へと、強く押し当てた。

——チュッ。

「やった……! ついに、口づけしたぞ……!」

俺は芳恵の唇の隙間に倒れ込んだ。

俺は芳恵という名前の巨大な山脈を征服したのだ。過酷なバリエーション・ルートを完走したのだ。

しかし、勝利の余韻に浸る時間は与えられなかった。

直後、空が激しく割れるような地鳴りが轟いた。

ぐばああああああ。

俺が足場にしていたピンク色の岩肌が、上下に大きく裂けた。芳恵が、驚きか、あるいは息を漏らそうとして、唇を開いたのだ。

「うわあああ!」

支えを失った俺の体は、真っ逆さまに暗黒の深淵へ落下していった。
たどり着いたのは、灼熱と湿気に満ちた、未知の巨大な洞窟(ケイブ)。
芳恵の口腔内部だった。

ドスン。叩きつけられた地面は、皮膚とは全く異なる、ぬるぬるとした粘膜に覆われたピンク色の巨大な肉の絨毯だった。芳恵の舌だ。驚愕のまま、周囲を見回した。俺の目に映ったのは、悪夢さながらの光景だった。白い大理石の巨石が整然と、しかし威圧的に並ぶ巨大な城壁。芳恵の歯列だ。天井を見上げれば、湿ったピンク色のドーム(硬口蓋)が広がっている。太い唾液の糸が何本も連なっている。今にも切れそうだ。大きく揺れ動いている。

立ち上がろうとした。洞窟全体が激しく収縮した。芳恵が口を閉じたのだ。一瞬にして世界は暗黒に包まれた。閉塞感が俺を襲った。
さらに恐ろしいことには、天井や周囲の壁、そして足元の肉の絨毯から、滝のような勢いで無色透明の熱い液体が、一挙に溢れ出してきたことだ。芳恵の唾液だ。千分の一の俺にとっては、ただの水分ではない。粘り気があり、まとわりつく。粘性の流体の洪水だ。しかも、消化酵素が混じっている。溶かされてしまう。

ゴボゴボと音を立てる。一気にあごの高さまで押し寄せてくる。唾液の濁流。人間の口腔内特有の、かすかな甘みと、脳を痺れさせる濃厚な雌の香りが、鼻腔を突く。

「くそっ、溺れる……! 登山家が、こんな場所で、溺死してたまるか!」

俺は必死に水をかいた。大理石の城壁(歯)に向かって泳いだ。しかし、粘り気のある液体は俺の衣服を重くしている。手足を拘束してくる。食道という名の底なしの縦穴(クレバス)へと流されてしまう。芳恵の胃袋の中に落ちたらお陀仏だ。消化されてしまう。

足元の巨大な肉の絨毯(舌)が、うねるように大きく波打った。凄まじい質量が、俺の体を容赦なく押し潰そうとする。
「がはっ……!」
俺は近くにあった奥歯の硬い隙間という名の濡れたクラック(岩の裂け目)に決死の思いで両手を突っ込んだ。ジャミング(亀裂に手を突っ込んで固定する技術)をかます。必死に体を固定する。ぬらつく唾液のせいで摩擦力が働かない。指が滑りそうになる。心臓は、雪山で雪崩に巻き込まれた時以上の、最大級の警鐘を乱打していた。死の恐怖が全身の毛穴から冷や汗となって噴き出す。

だが、この極限の絶望の中で、俺の脳裏に異様な熱が灯り始めていた。
俺を溺れさせ、押し潰そうとしている大洪水も、巨大な肉の壁も、すべてはサークルの後輩である芳恵という一人の女の体内なのだ。橿原芳恵の生命の最奥、最もプライベートで聖なる領域に、俺は今、文字通り全身で侵入している。死の恐怖と、圧倒的な背徳の快感が脳内で混ざり合っている。危険な化学反応を起こしている。

(俺は死なない……! 芳恵、お前を、この大人の世界へ誘ってきた女を、俺のこの手で組み伏せてみせる!)

執念が、俺の肉体に爆発的な火事場の馬鹿力を呼び起こした。俺は歯の隙間を蹴る。舌のうねりをタイミングよく飛び越える。光が微かに漏れる前歯の隙間(ルート)へ。狂ったように唾液の波をかいた。

その時、芳恵が咆哮した。

「があああああ」

舌が口内の異物を捉えた。大津波が俺の体を一瞬で拉致した。唇が開いた。

「ぶばあああああ……!」

激しい水流とともに、俺の体は勢いよく口腔の外へ押し出された。視界の明暗がにわかに反転した。暗黒の洞窟から一転して、部屋の眩い光が網膜を刺す。放り出された小さな身体を受け止めたのは、肉厚で柔らかい、桃色のクッションだった。待ち受ける芳恵の掌に落ちたのだ。

「ゴホッ、ゴホッ!……ハァーーッ! ハァーーッ!」

俺は手相の刻む深いシワの谷間に横たわっていた。掌の窪みで大の字になっていた。口腔の熱気とは違う、乾いた部屋の空気を、肺いっぱいに吸い込んだ。呼吸をするたびに、胸の奥が引き裂かれるように痛む。

全身は、芳恵の甘く熱い唾液でびしょ濡れだった。掌の細かな皮膚の畝(うね)に遮られてできた、琥珀色の唾の池に漬かっていた。じっとりとした粘性の液体が、体温を奪っていく。雪崩に巻き込まれ雪中から這い出してきたかのようだ。凄まじい疲弊感がある。だが、背中から伝わってくる芳恵の肌のぬくもりだけが、俺がまだ生きていることを生々しく証明している。暗黒の底から、この世の光へ生還したのだ。

第五章 女体山脈制覇

橿原芳恵が、大きな黒い目を見開いている。俺を見下ろしている。瞳には先輩を本当に死なせかけたのではないかという、本気の焦りと怯えがあった。そして同時に、自らの口内から生還した俺に対する、底知れない尊敬の念が浮かんでいた。

「せ、先輩……!? 大丈夫……?」

声は聞こえなかった。唇の動きで分かった。

俺は濡れた顔を拭った。芳恵を猛然と睨みつけた。九死に一生を得た。生存本能は、狂おしいほどの性的な欲望へと変換されていた。恐怖を乗り越えた男の肉体は、怒りと、それを遥かに凌駕する情熱で、破裂しそうに猛り立っている。あの狭く、熱く、甘美だった口腔の感触が、男としての本能を奮い立たせていた。

芳恵は俺の、小さくとも猛獣の眼光を察知した。息を呑んだ。大人の男の執念に圧倒されている。

震える手で勾玉を俺にかざした。


鈍色の光。俺の体は急激に巨大化した。
視界が回転する。光が弾ける。

目を開けた。俺は本来の、大学三年生の男の体に戻っていた。芳恵と二人でベッドに横たわっていた。

恐怖はとうに過ぎ去っていた。橿原芳恵の体内で溺れかけた。命の最も深い場所に触れた。もう子供扱いにするのはやめだ。就活がどうとか、将来がどうとか、種々雑多な言い訳で不安にするのは、終わりにする。俺は今、世界で一番過酷な山を制覇した。頂きに最愛の女が待っていた。

「……あ、あの」

芳恵は、元の大きさに戻った俺のギラついた瞳を見ていた。ベッドの上でできる限り後ずさりしようとした。しかし、赤いシースルーのブラとパンティに包まれた体は、激しく起伏している。大人の世界を体験したいという熱を発散している。

「先輩……あの、私……」
芳恵の言い訳を、俺は待たなかった。

「芳恵」

俺は衣服を乱暴に脱ぎ捨てた。傷だらけの全裸の肉体を露わにした。逃げようとする彼女の細い肩を掴んだ。一気に俺の胸へ引き寄せた。
「キャッ……!」

ベッドの中央に引き戻され組み敷かれた芳恵は、驚きと興奮で頬を真っ赤に染めている。

さっきまでは、見上げるほどに巨大な、世界を支配する女神だった。今はこんなにも華奢だ。俺の腕の中に収まってしまう。小さな身体で、俺の冷たさに耐え、俺の関心を引くための突飛な魔法に、すべてを賭けたのだ。少女の心は、いつも、ずっと繊細で、傷つきやすかったのに。これ以上の躊躇は、彼女の命がけの覚悟に対する侮辱でしかなかった。

命がけで女体の山脈を制覇した。胎内くぐりもした。誰も通ったことのない過酷なバリエーション・ルートを、何の道具も持たない極限のアルパイン・スタイルで踏破したのだ。

「よくも、飲み込んでくれたな」

俺はことさらな低音で、芳恵の耳もとへ囁いた。

「ご、ごめんなさい……でも、先輩が、キスしてくれたから、あんまりうれしくて……」

「お前の口の中が、どれだけ熱くて、俺を狂わせたか……今度は、本来の俺の大きさを、お前の身体に教えてやる」

サークルの生意気な後輩としての芳恵の像は消え去っていた。目の前には、俺のすべてを賭けて愛し、征服すべき、世界で最も官能的な赤き山脈が横たわっていた。

「もう、寂しい思いはさせない。お前の初めても、その身体も、心も、全部俺が引き受ける」

俺の不器用な、けれど退路を断った告白だった。はりつめていた芳恵の瞳から、とうとう大粒の涙が零れ落ちた。恐怖の涙ではない。かたくなだった俺の心が、ようやく自分の方を向いという、安堵と歓喜の涙だった。

俺は、命がけでキスをした芳恵の唇に、今度は力強さく、深く、激しく、貪欲な口づけをした。さっきまで俺を溺れさせようとした甘い唾液が、今は情熱をさらに燃え上がらせる潤滑油となった。二枚の舌が濃密に絡み合う。芳恵は歓喜の悲鳴を上げながら、細い腕を俺の首に固く巻き付けた。




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南口にて

新宿の南口でふと目の前にポケットティッシュを出され
俺も彼女に次のライブのチラシを渡そうとしたが
受け取ってくれず
彼女は少し困った顔をしていた
まあ女性を困らすのは趣味ではないので俺はライブのチラシを仕舞い
ポケットティッシュを受け取った
だいたいにおいてハイボールの炭酸により下痢気味であるし
いつか役に立つのかも知れない 
ポケットティッシュのなかには芸能人の笑顔と即日50万までOKと印刷された紙が入っていた
俺はその広告だけを抜き取って彼女に返した
困った顔をしていたが彼女はこれを受け取ってくれた。

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採れたての朝


折れ曲がった朝が
テーブルに並べられる

香りがゆっくりと立ちのぼり
眠っていた記憶を呼び起こす

採れたての朝を
一口ずつ味わうように
身体の奥へと落としていく

グラスを傾けて
庭の向こうを見ると
山々が静かに揺れている

その隙間を抜けて
やわらかな風が届く

いつしか
まっすぐな朝が
私の中で整っていく

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歪なパッショ

雨に濡れた感情が
項垂れて泣き出した

言い訳は未練に閉じ込めて
ネオンの海を泳いで渡る

夜の街は衰弱し
もう 瀕死の状態

闇に隠れてするキスは
魔力的快楽の味がする

喜びも悲しみも
七色の海苔巻きにして
パック詰めにした

アルコールに毒された眼は
まるで
三途の川を渡る猫

風のおいはぎは
ナフタリンのにおいのする背広を
奪い取ろうとする

寂しいなんて
夜の帳が下りれば
暗闇と一緒
闇に飲まれて他人に変身


水に浮かべた黒い涙

変色した心が
花のように散っていく

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このサイトで思ったこと

“あなた”の作品にこそ、評価をしたい
考察をしたい
いいね、と言いたい

私はすごい人ではないけど
一読者でしかないけど
“あなた”のお話を推したい
“あなた”の背中を押したい

伸びていなくたって
他から評価されなくたって
“あなた”の作品だったら
溢れ出る熱がある

私はそれが好きだ
だから私は
“あなた”の作品にこそ、評価をしたい

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聖夜の聖餐  ―― 巨大娘小説 ―― (後編)

聖夜の聖餐  ―― 巨大娘小説 ―― (後編)

笛地静恵

三日後。
茉莉絵はキッチンの引き出しを開けた。プラスチックの容器を取り出した。
蓋を開ける。檸檬は、爛々とした狂気の目の光を完全に失っていた。シーツの上に力なく丸まった。

髪は乱れ、服は汚れ、ただ恐怖に震えている。

「れ、も、ん」

茉莉絵は、上空から冷淡な声で呼びかけた。水と食料と便所とするティッシュ・ペーパーさえも入れておいた。死なすつもりはなかった。
檸檬はビクッと身体を跳ね上げた。小さな涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、茉莉絵の巨大な瞳を見上げた。茉莉絵の眼球は表情の変化を克明に捉えた。

「茉莉絵ちゃん……お願いだ、おねがいだから、もうあの場所に戻さないでくれ……。俺が、俺が悪かった……」

「どう悪かったの?」

「俺は、君といつでも一緒にいたいなんて、大それたことを考えていた……。君の肌に触れるなんて、君の靴に踏まれるなんて、虫ケラには、あまりにも贅沢すぎる、恐れ多いことだったんだ……!」

檸檬はシーツに額を擦り付けた。小さな身体が何度も何度も平伏した。
彼はついに理解したのだ。暗闇の中で反省する時間はたっぷりとあっただろう。
茉莉絵に逆らい、彼女の支配を快楽として消費し続けようとした罪を。最後に向かう場所は、完全な忘却と虚無の闇なのだと。

「もう、私にべたべたと付きまとったりしない?」

「しない! 絶対にしない! 君の許可なく、君の視界に入ることも望まない! だから、どうか……どうか俺を、君の世界の片隅にでも、置いておいてくれ……!見捨てないでくれ!」

ストーカーの異常な執念が、茉莉絵の仕掛けた絶対的な孤独の檻に屈服した。
意地の張り合いは、茉莉絵の勝利で落着した。

茉莉絵は心から勝利の微笑みを浮かべた。
檸檬をそっとつまみ上げた。机の上のアクリルの飼育箱へ戻してやった。

「いい子ね、檸檬。じゃあ、箱の中で、私の許可があるときだけ、お話していいよ」

「ありがとう……ありがとう、茉莉絵ちゃん……!」

ガラスの向こうで、檸檬は安堵の涙を流しながら、箱の隅で小さく縮こまった。不気味に笑うこともない。茉莉絵のルールに従う無害なペットへ調教されたのだ。

茉莉絵は新しく買ってきた文庫本の小説のページをめくり始めた。茉莉絵の指先はストーカーである檸檬の存在に怯え、服従させるために焦燥し、奇妙な歓喜に敗北感すら覚えていた。しかし、牙を抜かれ、ガラスの向こうで怯える男の姿を、特等席から見物している。

(私が指を少し動かしただけで、恐怖のストーカーが、泣いて許しを乞う)

恐怖は甘美なサディズムへ反転していた。一度味わってしまった女神の視点、生殺与奪の権利を手放すことなどできそうにない。茉莉絵のプライドは、ストーカーを排除することから、気分一つで消費し尽くすという、暗い悪徳の領域へ足を踏み入れていた。部屋には、主従関係が固定された、歪で、しかし奇妙に安定した静寂が満ちた。

降参の儀式から数週間が経った。茉莉絵の部屋には平穏が訪れている。



茉莉絵は、水や食料や便所などの世話をする以外は、アクリルの飼育箱に手を触れなかった。声をかけることもない。檸檬が、彼女の巨大な影が落ちるだけで、 アクリルの飼育箱の隅で小さく縮こまっている。

ストーカーの害虫は毒の針を抜かれた。ルールに服従する無害な虫に成り下がった。

茉莉絵は、アクリルの飼育箱のある部屋で日常生活を続けた。朝になる。外出する。夜遅くなって帰宅する。最小限の世話をする。食事をとる。女友達のamiと電話で長話を楽しむ。男友達の明け透けな品評も交わす。Amiは、かわいい顔をして、けっこう遊んでいるのだ。話を合わせるが、特に彼氏を作りたいとは思わなかった。シャワーを浴び、着替えもする。夜になると、ベッドの上で、アクリルの輝きを横目に、自分を慰めた。

第四章 白日の枷

ひとたび主従関係が固定され、何の脅威もなくなってみると、茉莉絵の心には、予想もしていなかった倦怠が芽生え始めていた。

(……なんだか、つまんない)

九月に入り大学の講義が再開された。友人のamiやサークルの男友達と話している時も、茉莉絵はどこか物足りなさを感じていた。秋のせいかもしれない。


ハイヒールや下着の中に檸檬を閉じこめていた時に味わった、全身の毛穴が開くほどのあのゾクゾクする全能感。世界中で自分だけがストーカーの人権を踏みにじり、衣服の裏側で支配している。背徳感に満ちた優越感。アクリルの箱の中でおとなしくしている檸檬を眺めているだけでは、まったく満たされなくなってしまったのだ。  

茉莉絵のサディスティックな欲望は、彼を屈服させるだけでは終わらない段階へ肥大化していたのだ。

(せっかく私だけのおもちゃに調教したのに、ずっと暗い部屋の箱の中に閉じこめておくだけなんて、もったいない)

彼女は、自分の勝利を、もっと別の形で実感したくなった。執拗に追い回していた男の罪を、白日の下に晒けだしたい。気分一つで、男を消費している。事実を示したい。
誰の目にも触れない暗闇に隠すのではない。あえて一番目立つ場所に展示する。誰にも気づかせることなく、全世界を騙し通してみたい。現代社会の常識という盲点を利用しよう。檸檬を堂々と外へ連れ出そう。自分の美しさを引き立てるための生きた装飾品として世界にお披露目する――。すてきなアイデアが浮かんだ。茉莉絵の胸は、秘められた悪徳の喜びに高鳴った。

週末、茉莉絵はネットのハンド・メイド・ショップで、胸元が大きく開いた服に映える、ゴールドのネックレスを注文した。

「ねえ、檸檬先輩。ずっと狭い箱の中じゃ、退屈でしょう?」

ある夜、茉莉絵は飼育箱の蓋を開けた。怯える檸檬をピンセットでそっとつまみ上げた。
「ひっ……! ごめんなさい、茉莉絵ちゃん! 俺、何か悪いことをしたかい!?」
タッパーの闇を思い出したのだろう。檸檬は小さな手足を縮めて必死に許しを乞う。哀れな姿を見下ろしながら、茉莉絵はサディスティックであるとともに、どこか妖艶な微笑みを浮かべた。  

「お仕置きはもう終わりよ。明日からはね、先輩を私の特別な飾りとして、外の世界へ連れて行ってあげる。誰も人間だなんて気づかないわ、最高にスリリングなデートをしましょ?」

茉莉絵は届いたばかりの漢字の「大」の文字を象った溝に、檸檬をそっと横たえた。樫の木に黒い漆を塗ったブローチである。大文字と呼ぶらしい。寸法は正確に測定してある。ぴったりと合う。大吾は半裸である。腰に生理用ナプキンからむしった綿がついている。おしめ代わりだ。
光あふれる外界へ戻れるという喜びと、茉莉絵の新しい支配の形を予感した檸檬の瞳に、失われていた狂信的な輝きが、じわじわと、しかし以前よりもさらに深い盲信を伴って戻ってくる。茉莉絵はストーカーの復活をしっかりと見届けた。  




「先輩、そこから私のこと、しっかり見ててね」

茉莉絵の自室のドレッサーの前。鏡に映る彼女の胸元には、新調されたばかりの暗黒のネックレスが、怪しい輝きを放っている。

ペンダントトップのデザインは、精巧な大の文字だ。ただのジュエリーではない。大文字の縦と横のラインに沿って、身長十八ミリメートルまで縮んだ檸檬が、極細の金糸によって縛り付けられていた。

両手、両足を広げられている。身動き一つ取れない。固定の状態だ。
タッパーの無に怯え、調教された檸檬は、恐怖と、そして狂信的な歓喜に身体を震わせている。

「ああ……茉莉絵ちゃん……。俺、君の飾りになるんだね」

彼の声は茉莉絵の調律された耳にしか届かない。蚊の羽音よりも小さい。
下着の中に閉じこめられていた時とは違う。茉莉絵の肌に直接的に触れている。外の世界を一八〇度、一望に見渡すことができる。何より、茉莉絵の首からネックレスが下がっている。檸檬の背中は、豊かな胸の谷間の、深く、温かい特等席へ滑りこんでいる。

茉莉絵の指先が、大文字に張り付けられた檸檬の小さな頭の上を疾風を起こしながら通過する。

「そうよ、檸檬。いつでも私と同じ景色が見られる。私も先輩がサボらずに、私だけを見つめているか、いつでも確認できる。お互いにとって、一番いい場所でしょ?」

「うん、うん……! 最高だよ、茉莉絵ちゃん。俺、一瞬も瞬きしないで、君の美しさと、君の歩む世界を見つめ続けるよ」

従順な番犬となった檸檬に、独占欲や傲慢さは一切なかった。絶対的な女神に仕える使徒の純粋な服従の悦びだけだ。

茉莉絵は満足げに微笑んだ。胸元の開いた純白のシフォンのブラウスの襟を整えた。
漆黒の大文字に張り付けられた小さな男は、茉莉絵の胸の谷間で、鼓動を子守唄代わりに聴きながら、外の世界へと連れ出されることとなった。

「茉莉絵、ネックレス、すっごく可愛い! どこで買ったの?」

大学のキャンパス内のカフェテラス。サークルの友人である Ami が、身を乗り出して茉莉絵の胸元を覗きこんできた。

大文字の上で、檸檬は心臓が止まるほどの恐怖に直面した。
(見つかる……! 俺が人間だとバレたら、茉莉絵ちゃんに迷惑がかかる……!)
檸檬は必死に息を止め、本物の金属のふりをした。身体を硬直させた。

しかし、amiの目は、茉莉絵の白い胸元の皮膚で揺れる黒い大文字を、ただの物質としてしか捉えていなかった。

「あ、これ? ネットのハンド・メイド・ショップで見つけたの。ちょっと変わったデザインでしょ?」
茉莉絵は涼しい顔で、人差し指の先でペンダントを軽く弾いた。
こつん。木の固い音がする。檸檬の身体が衝撃で揺れる。

「本当だ、よく見ると、すごく細かい。なんか……真ん中に、小さなお人形さんみたいなのが、付いてる? アンティークっぽくてお洒落!」

Ami は笑った。
彼女は、確かに檸檬の姿を見ている。檸檬の小さな腰の布のシワ、胸毛、小さな顔、手と足の形。すべては、彼女の網膜に映っているはずであった。

それなのに、Ami は何も言わなかった。
なぜなら、現代を生きる人間の脳は、女子大生の胸元に、十八ミリメートルの本物の生きた人間が張り付けられているという異常事態を認識できない。最初から、自分の生きている世界から排除しているからだ。
どんなに精巧に見えても、リアルに作られたインディーズの木彫りのアクセサリーか、凝ったデザインのフィギュアにしか見えない。まさか、警察から接近禁止命令を出されていた有名なストーカーが生き、呼吸し、汗をかいて張り付いているとは、夢にも思わないのだ。

「誰も……気づかない……」

Ami が去った後、檸檬は胸の谷間の暗がりで、驚愕のあまり呟いた。
白日の下に晒され、誰の目にも見えている。それなのに、透明な存在として、茉莉絵の飾りと化している。

「ふふ、言ったでしょ? 檸檬。誰も先輩のことなんて、人間だと思わないわよ。ただの、私を引き立てるための、ちょっと趣味の悪いブローチ。先輩の正体はそれぐらいなの」

茉莉絵は楽しげに笑いながら、ゼミ室へ歩を進めた。
大学の構内を行き交う人々、大学の教授、ゼミの仲間たち。多くの視線が、茉莉絵の美しい胸元や、個性的なネックレスの輝きに向けられている。しかし、素敵な飾りねと趣味を褒めるか、あるいは一瞥して無関心に通り過ぎるかだけであった。

世界から完全に切り離され、茉莉絵だけの所有する物になったという事実が、檸檬の脳を強烈な快楽で満たしていった。




檸檬は茉莉絵の生きたジュエリーとして、昼間の日常生活のすべてに同行した。

就職活動の面接の場でも、檸檬は茉莉絵のリクルートスーツのシャツの隙間から、厳めしい面接官たちを凝視していた。
面接官は、茉莉絵の優秀な回答に感心していた。胸元のシンプルな(実際は檸檬が張り付けられた)黒いブローチを、マナー違反にならない程度の、ささやかな装飾品として見過ごした。

(ハハハ……偉そうな大人たちも、誰も気づかない。茉莉絵ちゃんは、俺という人間を身につけて、社会を騙し通しているんだ。なんて痛快で、なんて愉快なんだろう!)

檸檬は、茉莉絵と深い秘密を共有していることに、震えるほどの全能感を抱いていた。

ある日の夜、茉莉絵は大学のサークルの飲み会に参加した。
下着の中にいた頃、茉莉絵に言い寄ってきた、あの生意気な男子学生もいた。すぐに声で分かった。

「茉莉絵、今日も綺麗だな。ネックレス、前も、着けてたよね。なんか、大文字の人形、俺を睨んでるみたいで、ウケるんだけど」

男子学生が酒の勢いで、茉莉絵の胸元に顔を近づけてきた。
檸檬は大文字に縛り付けられたまま、男を憎悪の篭った目で見据えていた。生身の人間であれば、一触即発の事態だ。

しかし、男子学生は、ケラケラと笑うだけであった。
「あはは、デザイナーのこだわりかな? 妙にリアルな造形。まぁ、美人の茉莉絵が着けてるなら、何でも似合うけど」

男の指が、ペンダントトップに触れようと伸びてくる。
茉莉絵はすっと身を引いた。男の手をかわした。

「触らないで。これ、デリケートな細工なの、傷つくと困る」

茉莉絵の冷ややかな言葉に、男子学生は苦笑いして手を引いた。
胸の谷間で、檸檬の心臓は激しく高鳴っていた。茉莉絵が自分を守ってくれたという事実が、彼の忠誠心をさらに強固なものにした。

(茉莉絵ちゃん……俺、君の体温の中で、君のためだけに輝く飾りでい続けるよ。他の有象無象なんて、どうでもいい。君が俺をここに置いてくれるなら、俺は永遠に君の奴隷だ)

世界中で、茉莉絵だけが檸檬の存在を認識している。
そして檸檬だけが、茉莉絵の胸の鼓動を最も近くで聴いている。
誰もが目撃しているのに、誰も何も言わない。絶対的な孤独と密着の空間こそが、二人の完成された楽園であった。


季節が巡る。夜風が心地よい秋が訪れた。
茉莉絵はすべての就職活動を終えた。内定を頂いた。来春からは、IT企業に勤務する。サークル活動も引退していた。静かで穏やかな学生生活の終わりの季節を過ごしていた。

夜、静まり返った自室で、茉莉絵はネックレスを首から外した。
ドレッサーの鏡の前に木製の大文字を置いた。張り付けられたままの檸檬が、疲れた、しかし幸福な顔で茉莉絵を見上げた。

「先輩、今日も一日、お疲れ様。ずっと張り付けにされて、身体、痛くなかった?」

茉莉絵はピンセットを使い、檸檬を縛り付けていた金糸を一本ずつ、丁寧に解いていった。
自由になった檸檬は、じんわりと血が巡る自分の手足を動かしながら、茉莉絵の掌の上へ這いあがった。茉莉絵の親指の付け根のふくらみに体を預け、深く息を吐いた。

「痛くなんてないよ、茉莉絵ちゃん。むしろ、糸が解かれると、君の胸元から離されちゃうみたいで、少し寂しいくらいだ」

檸檬の言葉に、茉莉絵はクスッと声を立てて笑った。
あれほど不気味で、恐怖の対象でしかなかったストーカーが、自分の気分一つで装飾品になり、外の世界を騙す相棒になっている。

「本当に、檸檬は変わったね。最初の頃の、あの執拗なストーカーであった檸檬が嘘みたい」

「昔の俺は、愛の形を知らなかったんだ。君を追いかけ回すことしかできなかった。でも今はわかるよ。俺の愛は、君の一部になることでしか満たされないんだ。誰も俺に気づかなくていい。君が俺を身につけて歩いてくれるだけで、俺の存在意義がある」

檸檬は茉莉絵の肌にそっとキスをした。十八ミリメートルの唇が触れた場所が、微かにくすぐったい。

茉莉絵は檸檬をそっと持ち上げた。真紅のベルベットが敷かれた高級なジュエリー・ボックスの中へ寝かせた。彼の夜のベッドであった。

「じゃあ、明日は、どの服を着ようかな。黒の大文字に合う、ちょっと大人っぽいワンピースにしようかしら」

「楽しみにしているよ、茉莉絵ちゃん。明日も君の胸元で、君の世界を一緒に見させてね」

茉莉絵はジュエリーボックスの蓋を、少しだけ隙間を開けて閉じた。
部屋の明かりを消す。窓から差しこむ月光が、机の上のブローチを、静かに照らし出した。

見えているのに、誰も気づかない。
ただの飾りとして世界に受け入れられたストーカー。明日もまた、最愛の少女の胸の谷間で、誰にも知られることのない幸福な絶頂を迎え続ける。二人だけの歪んだ、しかし決して壊れることのない調和の中で。



「先輩、今度はちょっと風通しのいいお部屋を用意したわ」

秋の気配が深まる頃、茉莉絵の自室のドレッサーには、新しく購入した風変わりなイヤリングが並んでいた。茉莉絵は自分のアイデアの成功に励まされていた。

細い金線で精巧に編まれた、親指の先ほどの大きさの鳥かごをモチーフにしたデザインであった。底の部分には小さな爪がある。パチン。開閉できる。

茉莉絵はジュエリー・ボックスから従順な檸檬をつまみ上げた。鳥かごの底を開ける。彼を中に滑りこませた。

「うわあ……!」

檸檬が着地する。足元は細い金線の格子であった。
大文字に張り付けにされていた時とは違い、手足は自由だ。しかし、周囲を囲むのは、全方位が透けて見える格子の壁。茉莉絵はイヤリングを自分の右の耳たぶに装着した。檸檬の身体は、ふわりと宙に浮く。白い首筋の横で揺れ始めた。

「どう? 先輩。今度は張り付けじゃないから、中で動いてもいいよ。でも、落っこちないように気をつけてね」

茉莉絵が首を少し傾ける。鳥かごは激しくスイングする。
檸檬は慌てて金線の格子にしがみつく。

「す、すごいよ、茉莉絵ちゃん! 視界が遮るものなく広がっている! それに……風が、ダイレクトに通り抜けていく!」

下着の中やハイヒールの底、ブラウスの陰になるネックレスといった隠された暗闇にいた。檸檬にとって、この場所はあまりにも開放的であった。
茉莉絵が歩く。右耳で鳥かごがチリン、チリンと微かな音を立てて揺れる。外界の冷たい風が、格子の隙間を吹き抜ける。檸檬の頬を撫でる。茉莉絵が顔を動かす。滑らかな耳たぶや、首筋の美しいラインが、檸檬の眼前でダイナミックに躍動する。

「すごく綺麗だ、茉莉絵ちゃん……。俺、君の耳元で囁く妖精になったみたいだ」

「ふふ、妖精だなんて、元ストーカーのくせにロマンチストね。さあ、今日も一緒にお出かけしましょう」

茉莉絵は鏡の中の、耳元で健気に格子にしがみついている小さな男に微笑みかけた。お気に入りのトレンチコートを羽織った。部屋を出た。



街へ出る。鳥かごの中の檸檬はスリルと全能感に陶然としている。

ネックレスとは違い、イヤリングは茉莉絵の美しい顔のすぐ横にある。つまり、他人の視線が最も集まりやすい場所に位置している。茉莉絵が歩行者天国を歩く。向こうから歩いてくる人々や、ショーウィンドウのガラス越しに見える他人の視線が、確実に鳥かごを捉えている。

(見えている……みんな、俺のことを見ている!)

檸檬は格子に掴まったまま、すれ違うサラリーマンや女子高生たちを凝視した。
十八ミリメートルの本物の人間が髪をなびかせ、小さな手で格子を握り、必死に外を覗きこんでいる。衣服のシワも、瞬きをする目も、すべてがそこに存在する。本物だ。

しかし、やはり誰も何も言わなかった。

「ねえ、あの人のイヤリング、すごく凝ってる。中に小さな人形が入ってるよ」
「本当だ、ミニチュアのドールハウスのパーツかな? 動いてるように見えるの、光の反射のせいかな。おしゃれだね」

すれ違いざま、そんな会話が檸檬の耳にまで届いた。
人間の脳の常識というフィルターは、恐ろしいほどに強固であった。人々は、風で揺れている、実によく出来た、ギミック付きのインディーズ・アクセサリーだと頭から信じこんでいる。本物の生きた人間が閉じこめられて、風に吹かれているなど、想像の範疇にすら入りこんでこないのだ。

「おもしろい……本当に、みんな盲目だ。茉莉絵ちゃん、君の言った通りだ。俺は世界に曝け出されているのに、君だけの秘密であり続けている!」

檸檬は歓喜の声を上げた。
外界の空気が、ダイレクトに肺に流れこむ。茉莉絵がうなじにつけた香水の香りと混ざり合う。

大学のゼミの教授と、茉莉絵は、IT関係の未来について真剣な議論を交わしている。檸檬は教授の目の前で、格子に腰掛け、両足をぶらぶらさせている。老教授を見下ろしていた。教授は茉莉絵の卒論を誉めた。偉そうにしているが、耳元で本物の人間が、自分を小馬鹿に見ていることなど、露ほども気づいていなかった。


ある日の午後、茉莉絵は青猫山学院大学の帰りに、地下鉄を乗り継いで、遮るもののない広大な臨海公園へと足を延ばした。IT企業は内陸にある。もう遊びに来ることもないだろう。
東京湾から吹き付ける強い海風が、茉莉絵の長い髪を激しくなびかせる。

「うわああああっ!」

耳元の鳥かごは、激しい風にあおられて大きく弧を描いて揺れた。
檸檬は必死で格子にしがみついている。身をすくめた。百分の一の身体にとって、海風は大型の台風か暴風雨に匹敵する猛烈なエネルギーであった。

「先輩、大丈夫? 飛ばされちゃいそう?」

茉莉絵は楽しげに声を出して笑った。わざと風上へ顔を向ける。
風の音が檸檬の耳を塞ぐ。冷たい空気が容赦なく鳥かごの中を通り抜ける。腰布一枚の檸檬の体温を奪っていく。しかし、極限の寒さと恐怖の中であっても、檸檬の脳内には、再び歪んだ幸福感が満ち満ちていた。

(寒い、痛い……! でも、俺は、茉莉絵ちゃんと同じ風を浴びている! 彼女の耳を掠めた風が、俺の身体を通り抜けていく!究極の間接的な抱擁じゃないか……!)

「茉莉絵ちゃん! 楽しいよ! もっと風を頂戴! 君と同じ世界にいる実感が、体中で弾けてるんだ!」

檸檬の叫びは、風の音にかき消されて、茉莉絵には聞こえない。だが、彼が必死に格子にしがみつきながら、目が狂信的な悦びで爛々と輝いているのを、茉莉絵はスマートフォンのインカメラを鏡代わりにして確認していた。

(本当に、この人はもう、私なしでは生きていけないんだ)

茉莉絵はカメラに映る、自分の耳元で健気に揺れる小さな男を見つめながら、深い愛着と支配の完了を確信した。


夜、マンションに戻る。茉莉絵はイヤリングを耳から外した。
しかし、今回は檸檬を鳥かごから出さなかった。

「先輩、今日は一日、風に吹かれて頑張ったから、ご褒美ね」

茉莉絵は鳥かごのイヤリングを、窓辺に吊るされた観葉植物の小枝へ引っ掛けた。
檸檬は鳥かごの床に座りこんでいる。格子の隙間から、部屋の中でルームウェアに着替える茉莉絵の姿を眺めていた。

「どう? 檸檬。そこからなら、私の部屋全体が見渡せるでしょ?」

「ああ……最高だよ、茉莉絵ちゃん。君の部屋に巣を作った小鳥になった気分だ」

檸檬は、金線のベッドに横たわりながら、満足げに微笑んだ。壁の隙間から覗き見たり、GPSで居場所を追跡するしかなかったストーカー。最も見晴らしの良い場所から堂々と観察することを許されている。
肉体的には鳥かごの中のペットに過ぎないのだが、精神的にはストーカーの願望は満たされていたのだ。

茉莉絵はベッドに入り、電気を消した。
暗闇の中、窓辺からチリン、と小さくイヤリングが揺れる音が聞こえる。

「おやすみ、先輩。明日も、私の飾りよ。しっかり働いてね」

「おやすみ、茉莉絵ちゃん。明日はどんな服を着るの? 俺、君の耳元で、ずっと待っているよ」

誰も気づかない、誰も何も言わない。世界で一番小さなストーカー。
冷たい外気と茉莉絵の温もりの境界線である耳元の檻の中で、忠誠を誓った。

第五章 最期の晩餐

十二月に入った。東京の街はクリスマスの華やかな色彩と喧騒に包まれていく。
茉莉絵の自室の窓辺では、相変わらず鳥かごのイヤリングに入った檸檬が、軽装の茉莉絵の半裸をうっとりと見つめ続けていた。

暖房のきいた室内で過ごすときには、茉莉絵はショーツしか身につけていない。胸を締め付けるブラは外している。

茉莉絵の胸中には、ある種の限界が見え始めていた。

すべての無理難題をクリアし、どんな過酷な環境をも歪んだ快楽へと変えてみせた檸檬。ハイヒールの底、下着の奥、大文字の磔刑、そして耳元の鳥かご。茉莉絵が思いつく限りのサディスティックな嗜虐を、彼は底なしの狂信的な愛で、ことごとく吸収し、生きながらえてきた。

(これ以上、この人をどう支配すればいいの……?)

どんなに外に連れ出し、世界を騙す優越感に浸ったところで、十八ミリメートルの物質として存在している限り、奇妙なゲームに本当の終わりは来ない。来春は企業に就職する。そして、いつか自分が結婚したり、年齢を重ねたとき、小さなストーカーをどうするべきなのか。茉莉絵の美しさは今が絶頂だろう。やがては、目尻の皺を檸檬に見られてしまう。彼の鋭い目には何も隠せない。そんなのは嫌だ。現実的な思考が、茉莉絵の脳裏をよぎった。

ある夜。茉莉絵はベッドに寝転びながら、スマートフォンの画面で、子供の頃の家族写真を眺めていた。画面に写っているのは、幼い日の自分の姿であった。クリスマスツリーの前で、口の周りを真っ白な生クリームだらけにしている。大好きな老舗の菓子店のショートケーキを頬張っている。

茉莉絵の脳内で、ジグソー・パズルのピースが、恐ろしいほどの速度で、カチリカチリと音を立てて組み合わさった。

(あぁ……そうか。本当にこの人を私のものにして、永遠に終わらない関係にする方法が、まだ一つだけ残っている)

茉莉絵はベッドから起き上がった。窓辺の鳥かごへとゆっくり近づいた。ガラス越しに月光を浴びて、檸檬が手を振っている。


被害者であった茉莉絵が、加害者であるストーカーへ下す、最も残酷で、同時に最も甘美な閃きであった。

「ねえ、檸檬」
茉莉絵は、鳥かごをそっと指先で揺らした。冷徹で、しかしどこか狂おしいほどに優しい微笑みを浮かべた。
「今年のクリスマスはね、先輩に最高のプレゼントをあげる。私と一つになりましょ?」

茉莉絵の囁きに、檸檬は背筋が凍る全能感を覚えた。狂喜に身体を震わせた。

誰も先輩を人間だと気づかないというイヤリングの優越感に、茉莉絵はひと冬の間に、早くも飽き始めていた。そのことに、檸檬も気づいていた。


冷たい雪がしんしんと降り積もる、聖なる夜。

茉莉絵の部屋の中は、暖房のぬくもりと、どこか厳かな静寂に包まれていた。茉莉絵は純白のドレスを着ている。理容室で髪を整え、エステで肌を磨いてきた。化粧をしていた。窓の外に踊る純白の雪を見つめていた。

茉莉絵はテーブルの上に、檸檬への特別なプレゼントを用意した。

子供の頃からずっと大好きであった、有名洋菓子店のクリスマスのイチゴのショートケーキ。
真っ白な生クリームの雪原の上に、真っ赤なイチゴが誇らしげに鎮座している、どこか懐かしく、そして、特別なケーキだった。

茉莉絵はジュエリー・ボックスから、小さな鳥かごのイヤリングを取り出した。蓋を開け、中にいた檸檬をそっとつまみ上げる。

「ねえ、檸檬。メリークリスマス。今日は先輩に、とびきり素敵なプレゼントをあげるね」

茉莉絵は檸檬をショートケーキの頂上――生クリームの雪原へと、そっと降ろした。

「うわあ……っ!」

着地した。檸檬の足元が、ぐにゃりと沈みこんだ。
百分の一の小人にとって、濃厚でなめらかな生クリームは、底なしの深い泥沼であった。一歩を踏み出そうとした。純白のクリームに足を取られる。檸檬は派手に転倒した。

「冷たくて、甘い……! 茉莉絵ちゃん、これは……!」

全身が生クリームまみれになりながら、檸檬は必死に顔を上げた。見上げるほど巨大な真っ赤なイチゴが、すぐ目の前で甘い香りを放っている。

「先輩、ケーキ、子供の頃から、私が一番大好きなものなの。だからね――」

茉莉絵は頬杖をついている。どこか気怠そうな表情だった。生クリームの海で溺れそうになりながらも、歓喜の声を上げる檸檬を優しく見つめた。

「そこでたっぷり、大好きなケーキを食べてね。先輩が満足するまで食べたら……その後は、私が食べるから」

茉莉絵の言葉の真意を、檸檬の歪んだ脳は一瞬で理解した。


恐怖など微塵もなかった。あるのは、彼のストーカー人生における、究極の、最終的な歓喜であった。

(ああ……ついに、この時が来たんだ。茉莉絵ちゃんの一部になれる。血となり、肉となり、永遠に彼女から離れない存在になれるんだ……!)

ストーカーが望む究極の願望は、茉莉絵との絶対的な一体化だ。そして、茉莉絵が望む究極の支配の形は、檸檬という存在の私物化だ。

衣服の隙間に隠すのでもない。アクセサリーとして世界に晒すのでもない。肉体の一部にする。血肉に変え栄養として消費する。そうすれば、警察も、社会も、世界中の誰も、檸檬を茉莉絵から引き離すことは絶対にできない。


「ありがとう、茉莉絵ちゃん……! メリークリスマス! 俺、本当に幸せだ!」

檸檬は笑いながら、周囲の生クリームを貪り喰らった。イチゴの果肉にしがみついた。全身を茉莉絵の大好物で染め上げた。彼女に捧げる最高の食材となるために。

茉莉絵は、銀のフォークを手にした。ケーキと正対した。
銀色の刃先が、ゆっくりとケーキに突き立てられる。

「それじゃあ、檸檬。いただきまあす」

大きなフォークが、生クリームと、イチゴと、そして、中心で恍惚の表情を浮かべる檸檬を、ひとまとめにしてすくい上げた。

茉莉絵の艶やかな唇が開く。
躊躇はなかった。あれほど追い回し、執着し続けた男を、最愛のケーキの甘みとともに、自らの内側へ迎え入れる。

甘美なイチゴの酸味と、生クリームの濃厚なコクが口いっぱいに広がった。すべてが混ざっている。けれども、かすかな存在を舌で感じた。噛まなかった。丸のみにした。
ゴクリ。喉が鳴った。食道から胃へ下っていく。

茉莉絵はフォークを動かす手を止めない。二口、三口。最後の一切れ、皿に残った小さなクリームのひとかけらに至るまで、綺麗に平らげた。

お皿の上には何も残っていない。
警察の手すら擦り抜けて、茉莉絵をひたすらに追い求めてきたストーカーは、衣服の一片すら残さずに、世界から消滅したのだ。

いや、消滅ではない。
檸檬はついに、生涯をかけた願いを叶えたのだ。
誰の目にも触れない下着の中よりも、耳元の鳥かごよりも、もっと深く、もっと絶対的な場所へ。
茉莉絵とひとつになった。

カーテンの隙間から、静かな雪夜の光が部屋を照らしている。
茉莉絵はお腹のあたりを愛おしそうに撫でた。内側から、温もりが全身に広がっていく。

「クリスマスおめでとう、檸檬」

茉莉絵は両手の平で腹部を抱いた。受胎した子を慈しむように。

部屋には、虫の声も、チリンと揺れる金属音もない。
けれども、茉莉絵は、これからの歩みに、彼が永遠に寄り添い続けているのを、確信していた。二人の愛は結末を迎えた。聖なる夜の闇に溶けていく。

聖夜の聖餐  ―― 巨大娘小説 ―― (後編)


(了)

聖夜の聖餐  ―― 巨大娘小説 ―― (全編)

(完)

【あとがき】久しぶりの「食い」の小説です。長いことさぼっていたレポートをようやく提出できた学生の解放感を味わっています。数十年前、灯世我舞さんの小女子のイラストに触発されて、カニバリズムの小説を書きました。こんなものを公開して良いのかと、エンターキーを押す指に、ためらいを覚えたことを、昨日のことのように思い出します。しかし、今やネットにはカニバリズムの小説やイラストが溢れています。ゲームにもなりました。隔世の感があります。笛地静恵 2026年6月20日(土) 

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聖夜の聖餐  ―― 巨大娘小説 ―― (前編)

聖夜の聖餐  ―― 巨大娘小説 ―― (前編)

笛地静恵


【ノート】
R18です。暴力や性的な表現やカニバリズムがあります。成人したら読みに来てください。AIとの共作です。下着や装身具の知識は、AIさんに教えられたものです。架空の世界です。この世界に似たものがあったとしても、すべて偶然の一致です。あらかじめお断りしておきます。 2026年6月20日(土) 


プロローグ プロポーズは冷たい雨

「そんなに私のことが好きなら。私のために、何でもしてくれるなら……」

二月の冷たい雨の降る道元坂の裏路地で、茉莉絵が囁いた。青猫山学院大学の二年先輩の五年生。檸檬は狂喜乱舞した。どんな命令が下るのか。濡れた犬の目を輝かせた。次の言葉を待った。
しかし、茉莉絵の提案は、檸檬の自由な想像さえも超えたものであった。

「私、いい方法を思いついたの」

茉莉絵はハンドバッグから、奇妙な形のガラスの小瓶を取り出した。

「これね、ネットの怪しい裏サイトで見つけた、お薬なの。人間を百分の一の小人にしちゃうんだって。先輩、いつも私のそばにいたいって言ったよね? だったら、小さくなって、私のポケットで暮らさない?」

常人であれば、戯言だと逃げ出すか、疑問を覚える場面だ。正体不明の液体など飲むはずがない。だが、檸檬は本物のストーカーである。警察の度重なる接近禁止命令すら、愛の障害物程度にしか思っていない。提案は極上のプロポーズに他ならなかった。二十四時間、大好きな茉莉絵ちゃんの傍に、合法的にいられるのだ。

「なる……! 俺、茉莉絵ちゃんの小人になるよ!」

檸檬は手渡された小瓶の中の液体を一気に飲み干した。
直後、彼の全身の骨が軋む音を立てた。奇妙な感覚だった。内側に向かって落下していく。全世界が上昇していく。服がのしかかってきた。地面に転がった。身長わずか十八ミリメートル。大人の小指の先ほど。小人に変貌していた。

茉莉絵はしゃがみこんだ。

「うそ、ほんとうにきくんだ」

人差し指の腹をそっと差し出した。

檸檬は歓喜の声を上げて、指にしがみついた。有頂天だ。茉莉絵の全身を抱擁した気分だ。

道路に人の声がした。茉莉絵は人差し指と親指で檸檬を摘まんだ。白いブラウスの胸ポケットへ仕舞いこんだ。

「これでもう、警察にも、文句を言われないよね」

茉莉絵は満足そうに微笑んだ。軽やかな足取りでマンションへ向かった。
ポケットの奥で、檸檬は茉莉絵の体温と、どっくんどくんと規則正しい心臓の鼓動を全身で感じていた。これ以上の楽園は、地球上のどこを探しても存在しなかった。

茉莉絵は部屋に到着した。檸檬の家をてきぱきと用意した。

茉莉絵の実家は山奥の小さな村だった。子供のころは野山を走り回って男の子たちと昆虫採集をした。虫への嫌悪はなかった。プラスチック製の透明な飼育箱は都会生活のさびしさに耐えかねて、新入生の夏に買ったものだ。本来はクワガタやカブトムシを飼育するために使う。中に入っていた虫は、とうに死に絶えていた。

しかし、茉莉絵は檸檬を虫けらとして扱うつもりはなかった。
箱の底に清潔なコットンのパフを敷き詰めた。
「はい、先輩。今日から、先輩の、お部屋」

茉莉絵は檸檬を摘まみだした。コットンのベッドにダイブした。

「すごいよ、茉莉絵ちゃん! 最高の寝心地だ! 部屋の中から、君の姿がいつでも見えるなんて、ここは天国か何かかい!?」

檸檬が精一杯の声で叫ぶ。
「チチチ、チチチ」
鈴虫が鳴いている。

茉莉絵は檸檬とつきあったこともある。何回かデートを重ねた。しかし、すぐに別れた。よくある性格の不一致というやつだ。檸檬は、あまりにも嫉妬深かった。茉莉絵のすべてを独占しようとした。手を握り合っただけだ。キスも交わしていない。これ以上は、とても無理だ。

そして、彼は恐るべきストーカーとなったのだ。

「気に入ってくれてよかった。はい、これ、今日の晩ご飯」
冷蔵庫にコンビニで買ったレトルトのハンバーグがあった。フライパンで温めた。はじっこを米粒ほどの大きさに千切る。爪楊枝に刺した。ペットボトルのキャップの皿に置いた。ストローの切れ端の水を一滴。表面張力でぷっくりと膨らんだ水滴を添える。おままごとをしているようだ。檸檬とはこんな優しい生活をしたかっただけなのに。

檸檬にとって、ハンバーグは胴体ほどもある巨大な肉塊であった。

「うまい……! 茉莉絵ちゃんの手料理だ! 俺、一生、味を忘れないよ!」

貪り食べる檸檬の姿を、茉莉絵は頬杖をついて、プラスティック越しに眺めていた。
どこへ行くにも、檸檬の影が張り付いてきた。スマートフォンに何百通もメッセージを送りつけてきた。茉莉絵の友人たちとも騒動を起こした。親友のamiやみんなに多大な迷惑をかけた。

プラスチックの箱の中で、生殺与奪の権利を握られている。無力な存在だ。

(あんなに怖かったストーカー君が、こんなに小さくて、害のない生き物になっちゃうなんてね)

茉莉絵は心の底からスカッとする全能感を味わっていた。脅迫に怯えるストレスもない。可愛いペットを眺めている。それだけで癒やされる。早くこうすればよかった。怪しい薬を売ってくれた外国人の占い師に感謝していた。ただし、もとにもどす薬はないよ。そう教えられていた。別に何の問題もなかった。

第一章 飼育箱の生活

翌日から、茉莉絵と檸檬の新たな同棲生活が、本格的に始まった。

茉莉絵が青猫山学院大学へ行く。檸檬が同行する。
移動手段は、茉莉絵のペンケースの中や、コートのポケット、あるいはトートバッグのサイドポケットなどなどだ。

「先輩、静かにしててね。声を出したら、他のお友達に見つかっちゃうから」

「わかってるよ、茉莉絵ちゃん。二人だけの秘密のデートだもんね」

檸檬はポケットの隙間から、外の世界を覗き見ている。
茉莉絵が歩く。世界は心地よく揺れる。ノートを取る。ペンが走る。教授の退屈な講義。そして、茉莉絵のため息。すべてが、檸檬にとっては至高のBGMであった。

ある日の英文学の講義中のことだ。茉莉絵の隣に、同じゼミの男子学生が座った。男子学生は親しげに茉莉絵に話しかけてくる。シャーペンを貸したり、週末のサークル活動の誘いをかけたりしてくる。

本来の檸檬であれば、激しい嫉妬に狂い、男子学生の家を特定して嫌がらせを始めるところだ。
だが、今は違う。茉莉絵の胸ポケットから、下心の見え見えな男子学生の顔を見下していた。

(ハハハ、哀れな男め。お前は、茉莉絵ちゃんと表面的な会話しかできないが、俺は、彼女の衣服の内側、心臓に一番近い場所にいるんだ。お前の入れる隙間なんかないんだ!)

百分の一になったことで、檸檬のストーカーの歪んだ独占欲は充足されていた。茉莉絵の体温に包まれている。勝利者の優越感に浸っていた。

一方の茉莉絵も、男友達と話しながら、それとなく胸ポケットに手を当てた。布地越しにモゾモゾと動く小さな気配を感じる。

(男の人が、どれだけ私に言い寄ってきても、私には、命を丸ごと預けてくれた檸檬が、ポケットにいるんだから)

二人にしか理解できない共生関係であった。


季節は冬から春へ流れた。茉莉絵は大学四年生となった。就職活動と卒業論文に追われる日々が始まった。もちろん、檸檬は百分の一のサイズのままだ。元に戻る薬は地球上に存在しない。檸檬自身、元に戻りたいなどとは、微塵も思っていない。

四月の週末の夜。
茉莉絵は少し大きめの高級なアクリルケースの前に座っていた。春休み中のアルバイトの給料で新調した。
ケースの中は、さらに豪華になっていた。小さな液晶画面(古いスマートフォンのリサイクル)が設置されている。檸檬が退屈しないために映画や音楽などが流れている。外界との通話はできないように設定してある。

茉莉絵はケースの蓋を開けた。人差し指を入れる。
檸檬はすぐに駆け寄ってくる。慣れた手つきで人差し指の腹に登る。指紋が滑り止めとなる。第一関節の溝あたりに、ちょこんと抱き着く。

「先輩、今日も、いい子にしてた?」

「もちろんさ、茉莉絵ちゃん。君が大学に行っている間、ずっと君のことばかりを考えていたよ。ああ、今日も世界で一番可愛いね」

茉莉絵はクスッと笑う。もう片方の手の人差し指で、檸檬の背中を優しく撫でる。

檸檬にとっては、巨大な温かい壁が背中から包みこんでくる。極上のマッサージだ。

「ねえ、檸檬先輩。先輩は本当に、私に飼われて幸せ?」

茉莉絵が尋ねる。檸檬は即座に立ち上がる。小さな両手を精一杯広げる。茉莉絵の大きな瞳を見つめ返してくる。

「幸福すぎて、死んでしまいそうだよ! 昔の俺はバカだった。君を追いかけ回して。嫌がられて。警察まで呼ばれて……。でも今は、君がご飯をくれて。君が家をくれて。君がこうして触ってくれる。俺の全世界は、箱の中と、君の掌の上だけだ。これ以上の幸せが、この世にあるわけがないじゃないか!」

檸檬の言葉に、嘘偽りは一切なかった。
彼は、己のストーカーとしての執着心を、茉莉絵に管理され支配されることで安寧を得たのだ。

茉莉絵は、檸檬を頬に寄せた。
檸檬が茉莉絵の滑らかな肌に、小さな手を添えてすり寄る。

「よかった。私もね、先輩がこの大きさになってくれて、本当に救われたの。もう誰にも、先輩を渡さないからね」

ストーカーとすとーかーされた者。
被害者と加害者であった二人は、飼い主とペットという絆で、結ばれていた。

茉莉絵は檸檬をケースに戻した。蓋を閉め、鍵をかけた。
透明なプラスチックの向こうで、元カレが手を振っている。
茉莉絵は部屋の明かりを消した。満ち足りた微笑みを浮かべた。卒論の準備で頭が疲れている。深い眠りへ落ちていった。

第二章 ハイヒールの檻

青猫山学院大学の五限目の講義が終わった。六月の夕暮れ。梅雨の合間のキャンパス。ポプラ並木の下を、茉莉絵は一人で歩いていた。チャペルの鐘が鳴っている。好きな時間帯だ。
すれ違う学生たちは気づかない。小脇に抱えたトートバッグの底、ペンケースの暗闇の中で、彼らを恐怖させた二年先輩のあのストーカー檸檬が、十八ミリメートルの小人として揺られていることを。

「さて、今日は、何をして遊んであげようかな」

茉莉絵は構内でも、人目につかない女性用の多目的トイレに入った。個室の鍵を閉めた。
便座の蓋に腰を下ろす。ペンケースから檸檬をつまみ出す。檸檬は茉莉絵の指の腹に頬をすり寄せる。
「茉莉絵ちゃん、会いたかったよ!」
鈴虫の声で鳴いた。

茉莉絵は冷ややかな、しかしどこか嗜虐的な愉悦を孕んだ瞳で、掌の上の小さな元恋人を見つめる。
最近の茉莉絵は、檸檬をただ飼育箱の中で愛でるだけでは、物足りなくなっている。警察の厳しい接近禁止命令を無視して、執着してきた男だ。復讐したい。もっと徹底的に服従させたい。自分の支配下に置きたい。欲求が膨らんでいく。止められなかった。

「ねえ、檸檬先輩。いつもポケットの中ばかりじゃ退屈でしょ? 今日は、もっと私を近くで感じられる特別な場所に、連れて行ってあげる」

「本当かい!? どこだっていいよ、茉莉絵ちゃんの傍なら!」

檸檬は無邪気に喜んでいる。両手で万歳までしている。
茉莉絵はフッと微笑む。さっきまで履いていた黒いハイヒールに目を落とした。就職活動やフォーマルな場面で履くために購入した。ヒールの高さが、七センチメートルある。長身で足の長い茉莉絵に似合った。新調したばかりの革製のパンプスだ。

茉莉絵は檸檬を指先でつまんだ。ハイヒールのつま先の奥深くへ。無造作に放りこんだ。説明はしなかった。

「あ、あれ……?」

檸檬の身体は、銀色の急斜面を滑落していった。着地した。暗い洞窟にいた。周囲は滑らかな壁に囲まれている。はるか上方から、楕円形に切り取られた光が斜面の上の部分に差しんでいる。底の深い漆黒の井戸の底だった。

「茉莉絵ちゃん? ここは、どこ……うわっ!」

檸檬は声を上げた。頭上の光が完全に遮断された。
茉莉絵の足が、黒いストッキングに包まれた状態で、容赦なく滑りこんできたのだ。

「ひっ……!」

檸檬は本能的な恐怖で身をすくめた。圧倒的な質量の足が、上空から降ってくる。檸檬の頭上を完全に覆い尽くした。

押し潰される――! 
檸檬は恐慌に陥っていた。

だが、茉莉絵は詳細に計測していた。黒のストッキングに包まれた茉莉絵の足の五本の指先は、ハイヒールの最深部、まさに檸檬が閉じこめられている空間のすぐ手前で、ピタリと止まるのだ。

しかし、空間は極限まで狭められた。
檸檬は、前後左右、そして頭上。ストッキングのナイロンの繊維と、ハイヒールの硬い芯地に、完全に挟まれてしまっている。身動きが取れない。右を向いても左を向いても、茉莉絵の足の皮膚が、網目越しにすぐそこまで迫っている。空気が圧迫されている。鼓膜が痛い。耳鳴りがする。何よりも空気が。酸素が足りない。


「茉莉絵ちゃん! 狭いよ、苦しいよ! 出して、ここから出して!」

檸檬は必死に叫ぶ。茉莉絵の足の指を両手で押し返そうとした。
しかし、百分の一の小人の力などたかがしれている。成人女性の足にとっては、存在しないも同然だ。茉莉絵の足の指は、ピクリとも動かない。檸檬が暴れれば暴れるほど、ストッキングの細かな繊維が顔に擦れ、身動きが取れなくなるだけであった。

「ふふ、先輩、どう? 私の足の心地は」

頭上のはるか彼方から、くぐもった茉莉絵の声が響いてくる。茉莉絵は少しだけ足を抜いた。内部を覗きこむ。
黒いハイヒールという名の強固な檻。自力での脱出は百パーセント不可能だ。檸檬が爪を立てて革の壁を登ろうとしても、ツルツルとしたインソールの堅い表面には、引っ掛けることすらできない。ただ滑り落ちるだけだ。

「こわい? 先輩。あんなに私のお尻を追い回して、どこまでもついてきたでしょ。それなのに、私の足の下から、もう一歩も動けないのね」

茉莉絵の声には、女王様の冷酷な響きがあった。
檸檬は強烈な革と茉莉絵の足臭から、ついに状況を理解した。ハイヒールの中にいるのだ。脳内に、恐怖とは異なる全く別の感情が、爆発的に湧き上がった。

(ああ……俺は、茉莉絵ちゃんの足に踏まれているんだ。体重を、歩みを、全身で受け止めているんだ……!)

ストーカーとしての歪んだ精神が、極限の閉塞空間で、恐るべき変貌を遂げた。
脱出できない絶望は、一瞬にして歓喜へ逆転した。

「嫌じゃない! 嫌じゃないよ、茉莉絵ちゃん! 俺、ここにいる! ずっとここにいるよ!」

檸檬の狂気に満ちた叫びは、茉莉絵には、靴の奥でかすかに響くゴソゴソという虫の振動としても、伝わってはいなかった。


茉莉絵は用を足して女子トイレの個室を出た。再びキャンパスを歩き始めた。

コツン、コツン、コツン。
アスファルトの道に黒いハイヒールの硬い音が響く。
閉じこめられた檸檬にとっては、世界崩壊規模の大地震の連続であった。

茉莉絵が一歩を踏み出す。凄まじい衝撃が全身を襲う。
体重が乗る。つま先の空間がわずかに歪む。ストッキング越しの圧迫がさらに強まる。茉莉絵の足の指が、檸檬の小さな身体を容赦なく押し潰しそうになる。が、ギリギリのところで踏みとどまる。寸止めのアトラクションが繰り返される。

「う、あ、あああっ……!」

檸檬は衝撃に耐えながら狂笑していた。
靴の中は、茉莉絵の体温で熱を帯びていく。ストッキング越しに伝わる、生々しい人間の温もり。そして、漂い始める、革の匂いと混ざり合った茉莉絵の足の匂い。

普通の人間にとっては、不快極まりない環境だ。
だが、檸檬は本物の狂信者だ。大好きな女の子の最も隠された部分に密着している。歩行の衝撃をダイレクトに浴びている。五感のすべてが茉莉絵で満たされている。至高の聖所であった。

(もっと、もっと踏んでくれ! 茉莉絵ちゃん! 君の行きたい場所へ、俺を敷き詰めて歩いてくれ!)

茉莉絵は、歩くたびにつま先に感じる、微小な抵抗を楽しんでいた。
神経を集中させている。一歩を進める。靴の奥で、何かがモゾモゾと蠢いている。健気に足を押し返そうとしている。恐怖のどん底に叩き落としたストーカーが、靴底を支えるクッションにすらならない存在として、足先で転がっている。

(あはは、本当に傑作。先輩、どんな顔をしてるのかな。泣いてる? それとも、喜んでる?)

茉莉絵はわざと、いつもより強く足音を立てて歩いた。
地下鉄の階段を下る。つま先にグッと体重をかける。靴の奥から小さな、押し潰される振動が、足の指先に伝わってくる。たまらなく愛おしい。そして滑稽だ。

二人の奇妙な歩行は、大学を出て、地下鉄の改札を通り、満員電車に揺られ、茉莉絵のマンションに到着するまで、一時間以上も続いた。


マンションの玄関に入る。茉莉絵はパチンと電気をつける。暗闇に帰ってくる時間が嫌いだ。一人暮らしがさみしくなる。大家族だった。いつもにぎやかだった。
ふう。大きく息を吐いた。玄関のタタキで、黒いハイヒールを脱いだ。

足を抜く。
靴の中に冷たい空気が流れこんだ。
檸檬は、全身の圧迫から解放された安堵と、同時に茉莉絵の温もりが離れていった寂しさで、ハァハァと荒い息を吐いた。彼の服は茉莉絵の足の汗で、しっとりと濡れている。髪も顔も溺れた直後の状態だ。しかし、目だけは爛々と輝いていた。

茉莉絵は玄関にしゃがみこむ。ハイヒールの中に指を差し入れる。
奥の方で、ぐったりと、身をよじっている檸檬を、爪先で引っかける。人差し指の爪の隙間に入りこんでしまう。外へ掻き出す。

タタキの上に転がされた檸檬は、難破から生還した船乗りであった。

「おかえり、先輩。どうだった? 私のハイヒールの中は。もう二度と入りたくない?」

茉莉絵は意地悪く微笑んだ。上から檸檬を見下ろした。
「もう堪忍してくれ、元の家に戻してくれ」
もしも泣き叫んだとする。それはそれで、面白い光景だ。

しかし、檸檬の反応は、茉莉絵の想像を斜め上へ超えていた。

檸檬はフラフラと立ち上がった。脱ぎ捨てられたばかりの巨大なハイヒールを振り返った。まだ茉莉絵の体温が残っている。微かに湯気が立っている。玄関の冷たく淀んでいた空気が動いている。彼の視線のみが気流の変化を把握していた。黒い革の怪物の靴。

檸檬は跪いた。黒いハイヒールのつま先部分に、熱烈なキスを捧げたのだ。

「茉莉絵ちゃん……最高だ。最高だよ……! 俺、もうあのプラスチックの箱には戻りたくない。お願いだ、俺をずっと、ハイヒールの中に住まわせてくれ!」

「え……?」

茉莉絵は呆気に取られた。

「あの狭くて暗い場所こそ、俺の本当の家だ! 君が歩くたびに、俺は君の命を感じられる。君に踏まれるたびに、俺の愛は無限に深まるんだ! 脱出なんてしたくない! ずっと、ずっと君の靴底で、君に踏まれ続ける奴隷にしてくれ!」

檸檬の声は、百分の一になっても変わらない、あの粘着質で執拗なストーカーの執念の声であった。どれだけ小さくしても、どれだけ過酷な環境に閉じこめても、茉莉絵への歪んだ愛は、決して摩滅することがないのだ。

茉莉絵はしばらく唖然としていたが、やがて、お腹を抱えて笑い出した。

「あはははは! 檸檬、本当に狂ってる! 本当に、手の施しようのない変態ストーカーなんだね!」

笑い声が玄関に響き渡る。
ここまで自分を全肯定し、自分のどんな理不尽な支配をも快楽として受け入れてくれる男が、この世には他にいるのだろうか。

「いいよ、檸檬。そんなに気に入ったなら、これからは、そこが檸檬の指定席ね」

茉莉絵は、先輩という一種の敬称で読んでいない。呼び捨てにしている。そのことに、気が付いてもいない。そして、檸檬を再びつまみ上げた。今度は優しく、ハイヒールの奥へ戻した。

「明日はね、朝から学園祭の準備があるの。一日中歩き回るの。覚悟しておいてね、先輩」

「ありがとう、茉莉絵ちゃん! 俺、楽しみに待ってるよ!」

真っ暗な靴の奥底から、檸檬の歓喜に満ちた声が返ってくる。茉莉絵の聴力は、檸檬の微小な声を聴きとれる。慣れてきている。檸檬の声に耳が調律されているのだ。
茉莉絵は黒いハイヒールを靴箱の一番目立つ場所へ置いた。鼻歌を歌いながらリビングへ向かった。

ストーカーを小さな檻に閉じこめたはずの女子大生と、閉じこめられることで愛を成就させたストーカー。
二人の歪んだ共依存の関係は、黒いハイヒールという名前の脱出できない漆黒の闇の中で、どこまでも深く、永遠に続いていくようであった。


「そんなにいつも私と一緒にいたいのなら、もうこれで文句はないよね、檸檬」

茉莉絵はマンションの自室で、姿見の前に立っていた。
手元にあるのは、普段は誰にも見せることのない、ごく薄いレースが施されたシルクの下着だ。ブラジャーのカップの裏側、肌に最も密着する薄い布地の隙間に、十八ミリメートルの檸檬をそっと滑りこませた。

「う、わあぁ……!」

檸檬の視界は、一瞬にして柔らかい絹の壁と、目の前に迫る茉莉絵の豊潤な肌の温もりで埋め尽くされた。
茉莉絵は下着で乳房を包んだ。ホックを留めた。檸檬は閉鎖空間に閉じこめられた。

前後左右、どこを見渡しても茉莉絵の純白の肌。息を吸うたびに、胸元がゆっくりと上下する。檸檬の小さな身体に心地よい圧迫感を与える。衣服越しではない、ダイレクトに伝わる鼓動、体温、そして甘い香り。

黒いハイヒールの底が過酷な檻であったとするならば、間違いなく、ストーカーの聖域であった。

「どう? 檸檬。一日、私と一つになれるよ。まさか、まだもっとなんて言わないよね?」

茉莉絵は鏡の中の自分に囁いた。
目的は明確であった。プラスチックの箱やハイヒールの牢獄からは、檸檬は異常な執念で、逆に快楽を見出してしまった。ならば、ストーカーの望む究極の接近を与え、飽和させ、窒息させる。そのことで、今度こそ彼を降参させる。そう考えたのだ。

事態は、茉莉絵にとって、ストーカーとのプライドをかけた意地の張り合いとなっていた。

下着の奥底から、檸檬のくぐもった声が響く。
「幸せだ……茉莉絵ちゃん、俺、もう何もいらない。一生閉じこめられて、君の体温に溶けてしまいたい……!」

(まだそんな余裕があるんだ……。いいよ、檸檬。どこまで耐えられるか、勝負しようじゃない)

茉莉絵はブラウスのボタンを留めた。不敵な笑みを浮かべた。部屋を出た。


茉莉絵が下着のホックを留め、ブラウスのボタンを上までしっかりと閉じたときには、檸檬の世界は茉莉絵という名の、あまりにも濃密で、逃げ場のない肉の小宇宙と化していた。 

 十八ミリメートルの身体を包みこむのは、極薄のシルクがもたらす滑らかな摩擦と、至近距離から容赦なく放射される体温、そして、皮膚から直接立ち上る狂おしいほどの甘い香りである。茉莉絵が息を吸う。そのたびに、シルクの壁が巨大なプレス機になる。檸檬の小さな身体を豊満な肌へ圧迫する。

普通の人間であれば、異常な閉塞感と窒息の恐怖に、発狂しているかもしれない。


しかし、檸檬は怪物であった。 

「ああ……ああ、神様! これだ、これこそが俺の求めていた世界のすべてだ……!」

檸檬はシルクの網目に爪を立てる。茉莉絵の鼓動が最も激しく響く左側のカップの裏側へ。怪獣は這い進む。どぐん。どぐん。全身の骨格を震わせる心臓音。BGMなどではない。脳髄を直接揺さぶる。世界を成り立たせる理(ことわり)であった。  

茉莉絵は彼を降参させるためのさらに過酷な試練を用意していた。

七月の照りつける太陽の下、青猫山学院大学の広大なキャンパスを、学園祭の準備の用事で、汗だくで走り回る。本来は、最上級の四年生はサークル室に詰めていればよい。雑用は下級生に任せる。しかし、茉莉絵は自分から志願した。檸檬への執拗な嫌がらせのためである。

下着の中の環境は、劇的な悪化を遂げていった。
茉莉絵の体温が上昇している。沸騰寸前のサウナの状態だった。熱気に包まれる。毛穴から溢れ出る汗の玉が、シルクの布地を濡らしていく。檸檬の足元を温かい水流が襲う。熱風、湿気、そして酸素の欠乏。檸檬の肺は、熱い空気で焼けそうになっている。衣服は茉莉絵の汗で、ぐっしょりと濡れている。檸檬の肌に張り付いてくる。  

「どう、檸檬? 苦しいでしょう? 早く泣き叫んで、私に許しを乞いなさい」

茉莉絵は走りながら、胸元に手を当てる。心の中がサディスティックな歓喜に震えている。衣服の上からでも、小さな虫が必死に苦闘している気配が伝わってくる。  
だが、茉莉絵は檸檬という男の異常性の本質を、まだ理解していなかった。檸檬にとって、地獄の環境は、極上の聖水に満たされた楽園に他ならなかったのだ。
熱気に意識が朦朧とする。檸檬の目は爛々とした輝きを取り戻している。彼は茉莉絵の塩味のする汗の滴が、自分の顔に滴り落ちるたびに、狂信的な信者の舌で受け止めている。  

「うまい……! 茉莉絵ちゃんの汗、茉莉絵ちゃんの熱量……! 俺は彼女の生命活動の排泄物と熱を、誰よりもダイレクトに、全身の毛穴から吸収している!」
彼は悶絶していたのではない。歓喜のあまり、身悶えしていたのだ。

茉莉絵の乳房が激しく躍動する。檸檬の身体は、肌と下着の硬いワイヤーの間に挟まれる。骨が軋む圧迫がある。皮膚が擦れる。打撲の痛みが全身を走る。だが、激痛は檸檬の歪みきった脳内で変換されている。

「茉莉絵ちゃんが、俺を全力で抱きしめている」
猛烈な愛のメッセージに書き換えられている。  
「もっとだ! もっと走れ、茉莉絵ちゃん! もっと俺を、君の肉体で蹂躙してくれ!」

檸檬は四肢を踏ん張る。茉莉絵の肌に直接、小さな顔を擦り付ける。彼の服は濃密な汗で溶けそうだ。爪がデリケートな皮膚をわずかに刺激する。

茉莉絵は、サークルの部屋に戻る。エアコンの風に当たりながら戦慄を覚えていた。

どれだけ過酷な運動をしても、どれだけ下着の中を蒸れさせても、胸元から聞こえてくるのは軽やかな虫の声だった。茉莉絵は容易に脳内で翻訳できる。

「チチチ」
「揺れてる、揺れてる! 君の動きと、俺の命が完全にシンクロしている!」

そして、「チチチ」。
「茉莉絵ちゃんの汗の匂いだ……! 君が、一生懸命生きている証拠が、俺の全身に染みこんでくる!」  

声は小さい。しかし、執拗に繰り返される。茉莉絵の胸で囁き続けている。
「どうしたの、茉莉絵。顔色が悪いよ。暑さにやられた?」
サークルの男子学生が心配して声をかけてきた。
「だいじょうぶ。なんでもない」
茉莉絵は冷えたポカリスウェットを喉に流しこんだ。胸が揺れる。檸檬を喜ばせている。冷汗が流れる。檸檬には極上の美酒だ。
自分が支配しているはずの哀れなペットが、自分自身を内側から捕食し、精神を侵食し始めているのではないか。悍ましい錯覚に囚われている。  

檸檬は下着という狭小の檻の中で怪物と化している。茉莉絵は左手で左胸を押さえた。このまま、指に力を入れれば、すべてが済む。すべてが終わる。だが、できなかった。
「ごめん、ちょっと横になる」
サークル室の椅子を三つ並べて横になった。親友のamiが、冷たいタオルを額に当ててくれた。仲間からは、ひたすら熱中症を疑われていた。

檸檬は、茉莉絵の介護をするサークルの男子学生と会話をしている時も、嫉妬の炎を燃やすことすらしなかった。なぜなら、男子学生がどれだけ外面的な美辞麗句を並べ立てようとも、自分は下着の内側で、彼女の最も恥ずかしく、最も神聖な肉体の拍動を、全身で浴びている。唯一無二の存在なのだ。そう信じているだからだ。  

(ハハハ、哀れな有象無象め。お前たちが彼女の表情に一喜一憂している間、俺は彼女の体温になり、衣服の一部として生きている。俺の勝ちだ。俺の完全な勝利だ……!) 

下着の暗闇の底で、檸檬は濁りのない純粋な狂気の笑みを浮かべている。茉莉絵の肌を両手で愛おしそうに撫で回し続ける。茉莉絵が用意したどんな物理的な苦痛や精神的な辱めをも肥やしとして肥大化していく。

支配者であるはずの茉莉絵の心が、じわじわと恐怖と奇妙な敗北感で満たされていく。檸檬のストーカーとしての執着は、限界を突破していた。

ブラジャーの内部という密閉空間でさえも、恐怖させることはできない。歓喜の声を上げている。茉莉絵は苛立ちとプライドを募らせていた。
「どこまで耐えられるか、もっと徹底的にシゴいてあげるわ、檸檬」


夜、茉莉絵が用意したのは、大学のフィットネスの講義やサークル活動で愛用している、目の覚めるネオンカラーのエアロビクス用レオタードであった。

茉莉絵はスポーツブラと彼を身につけた。伸縮性の強いナイロンとポリウレタンの混紡素材で作られたハイレグのレオタードを重ねて穿きこんだ。
「うぐっ……!」
下着と皮膚の隙間にいた檸檬の全身に、スポーツブラの上からさらに強力な、逃げ場のない第二の肉の壁が強烈に押し寄せてきた。
レオタードの生地は、成人女性の身体のラインを極限まで美しく引き締めるためのものだ。十八リメートルの檸檬にとっては、強化された油圧プレス機が機能したことになる。ブラジャーのワイヤーと、レオタードの強固なゴムの締め付けに挟まれ、檸檬は茉莉絵の柔らかな肌に、めりこむ形で固定された。指一本動かすことすらできない。

「さあ、先輩。夜のトレーニングの時間よ。私の動きに、ちゃんとついてきてね」
茉莉絵は部屋のスピーカーから、テンポの速いアップテンポなダンスミュージックを大音量で流し始めた。

ワン、ツー、スリー、フォー!
茉莉絵は音楽に合わせて激しいステップを踏んだ。エアロビクスのジャンプやターンを開始した。

檸檬の世界は、大狂乱のディスコと化した。
茉莉絵が大きく腕を振る。胸を張る。レオタードの生地がギチギチと音を立てる。檸檬の身体をさらに圧迫する。激しいステップの衝撃が、豊かな肉体を激しく揺らす。檸檬は弾む胸と強固な生地の間で、何度も何度も押し潰される。

「はぁ、はぁ……! どう、先輩! 苦しいでしょう! 押し潰されて。早くごめんなさいって、降参しなさい!」
茉莉絵はわざと激しいディープスクワットや、胸元を大きく震わせるジャンプを繰り返す。額から流れる汗が首筋を伝う。レオタードの襟ぐりから浸入していく。下着の奥の檸檬を濡らしていく。

しかし、レオタードの締め付けによる強烈なG(重力)と、茉莉絵の激しい運動による体温の上昇、そして大量の汗にまみれながらも、檸檬の目は、やはり爛々と狂気の輝きを発射していた。
「う、あ、あああああ……! 最高だ! 最高だよ、茉莉絵ちゃん!」
檸檬は押し潰され、骨を軋ませながらも、狂喜の咆哮を上げている。
(誰も知らない……! 激しい音楽に合わせて、茉莉絵ちゃんの身体を動かしているのは、レオタードのクッションになっている俺なんだ! 躍動する命の振動が、ダイレクトに俺の魂に響いてくる!)

茉莉絵の激しい呼吸に合わせて、胸元が大きく上下する。檸檬の顔はストッキング以上の密度で編まれたレオタードのナイロン繊維に擦れる。熱い肌に押しつけられた。激痛。そして、窒息寸前の熱気。だが、茉莉絵と一体化してダンスを踊っている。至高のシンクロニシティ(同調)の舞踏であった。

「もっと……もっと跳んでくれ、茉莉絵ちゃん! 君の美しすぎる肉体のステップを、俺の全身ですべて受け止めてみせるから……!」
レオタードの奥底から響く、小さく、しかしどこまでも執拗で歓喜に満ちた虫の声。
十五分間の激しいワークアウトを終えた。全身の映る鏡の前で肩を上下させて荒い息を吐いている。それなのに、鳥肌が立っている。茉莉絵は、胸元の不気味な蠢動に戦慄を覚えている。


第三章 タッパーの虚無

ブラジャーとレオタードの監獄ですら快楽を見出した檸檬に、茉莉絵の焦燥とプライドは、ついに引き返せない一線を越えた。
「先輩。そこまで私の体温が心地いいなら、今度はもっと特別で、もっと泥臭い場所に閉じこめてあげる」

夏季休暇に入った朝のことだ。茉莉絵は自室の鏡の前で、薄手のシルクのショーツを穿く直前に、最も繊細なクロッチ(股布)の真ん中に、十八ミリメートルの檸檬を容赦なく落としこんだ。
茉莉絵はショーツを引き上げた。タイトなジーンズを重ねて穿いた。檸檬の視界は漆黒へと変わった。

「う、あ……ああっ……!」

ブラジャーの中とは比較にならなかった。過酷で、圧倒的な肉の圧力が支配している。禁断の領域であった。
ジーンズとショーツの強固な布地に挟まれている。底は二重になっている。他より厚いのだ。檸檬の身体は茉莉絵のショーツと温熱を帯びた皮膚の間に、完全にプレスされた。一歩も動けない。右を向いても左を向いても、生々しい肉の壁が迫る。檸檬の細い骨をミシミシと軋ませる。

さらに恐るべきは、匂いと湿度であった。ただでさえ蒸し暑い日だった。
衣服が重なる場所は、茉莉絵の体温がこもる。高温多湿の熱帯だった。歩くたびに、肉の襞がダイナミックに蠢く。檸檬の小さな身体を挟み込んでくる。呑み込もうとする。

(苦しい……息が、できない……!)

普通の人間なら、己の尊厳を完全に破壊され、あまりの屈辱と閉塞感に精神が崩壊する場所だ。茉莉絵も狙っていた。ショーツの底だ。肛門も近い。ウォッシュレットは、使用している。きれいにしてある。しかし、多少の臭いはあるだろう。それも、計算の内だ。これは、ストーカーへの罰なのだ。手加減はしない。


「ここまですれば、どんな男だってプライドをへし折られて泣いて慈悲を乞うはずだ」

しかし、檸檬の狂気は、例によって茉莉絵の想像の遥か斜め上を暴走した。

「最高だ……! 茉莉絵ちゃんの、一番隠された秘密の場所に、俺は皮膚の一部として張り付いているんだ……!」

檸檬は暗闇の中で、鼻腔を広げる。濃密な空気を貪る。肺に吸いこむ。布地を濡らし始める汗、皮膚の匂い、そして、女体からの多種多様な分泌物。脳の血管が焼き切れる。至高の麻薬であった。

茉莉絵が青猫山学院大学の校舎の階段を上り下りする。卒論に関して、どうしても相談したいことがあったからだ。

檸檬の身体には凄まじい圧迫のG(重力)がかかる。大陰唇と小陰唇が擦れ合う。檸檬の十八ミリメートルの肉体がすり潰される。激痛に襲われている。膣を守る弱酸性の液体が、傷んだ皮膚に染みる。だが涙を流しながらも、恍惚とした笑みを浮かべている。

(ハハハ! 誰も知らない! 大学の教授も、あの生意気な男友達も、茉莉絵ちゃんが、ショーツの中に俺を隠して歩いているなんて、夢にも思っていない! 彼女の最もデリケートな部分を独占しているのは俺なんだ!)

茉莉絵は歩きながら、下腹部に走る奇妙な違和感に身震いした。
歩行の衝撃を加える。ショーツの奥底から、小さく、しかし確実に、歓喜に震えるゴソゴソとした蠢きが、敏感な部分へ伝わってくる。
どれだけ踏みにじっても、こいつは死なない。むしろ蹂躙されることで、さらに艶やかに輝く怪物となっていく。恐るべき執念であった。

もしかすると支配しているはずの自分が、彼の狂った愛の妄想の檻の中に閉じこめられているのではないか――。

茉莉絵は女子トイレで、下着から檸檬を乱暴につまみ出した。
掌に転がされた檸檬は、まだ夢見心地の顔をしている。茉莉絵を見上げている。濁りのない狂気の瞳。茉莉絵はハッと気づいた。

(そうか……。この人に刺激を与えちゃダメなんだ。苦痛も、快楽も、私の肌の温もりも、全部、この人にとってはご褒美になっちゃうんだ)

ストーカーが最も恐れるもの。拒絶でも暴力でもない。
完全な無視であり、存在の忘却だ。

茉莉絵は冷酷な、一切の感情を排した無表情になった。
放尿を開始した。さっきから、我慢していたのだ。冷たい物を飲み過ぎた。檸檬は人間ではない。臭いも音も気にする必要はない。このまま水洗トイレに流すことは簡単だ。証拠も残らない。しかし、まだ終わりではない。もっと恐怖と屈辱を味合わせてやらなければ、茉莉絵の気持ちがおさまらなかった。


マンションのキッチンの一番下の引き出しを開けた。
取り出したのは、檸檬を閉じこめていたアクリルケースでも、高級な玩具でもなかった。百円ショップで買った味気ない、中身の全く見えない、お弁当のオカズ入れ用の小さなタッパーであった。

「茉莉絵ちゃん……? どうしたの、そんな怖い顔をして。また君の服の中に戻してよ」

檸檬が不安げに声を上げる。彼の声に焦りが混ざったのは、初めてかもしれない。動物的な本能で危険を察知しているのだ。

「先輩。私、先輩を降参させる方法がやっと分かったわ」

茉莉絵はピンセットで檸檬の身体を冷たく挟み上げる。不透明なプラスチックの容器へ落としこんだ。
小さな容器のパッキン付きの蓋を、パチン、パチンと小気味よく閉めた。

「あ、あれ!? 茉莉絵ちゃん! 何も見えないよ! 君の匂いも、音も聞こえない!」

容器の中から、檸檬の悲鳴が小さく聞こえた。
茉莉絵は一切答えない。キッチンの一番下の引き出しの、奥へ容器を仕舞いこんだ。雑貨類を収納してある。めったに開けることもない。

茉莉絵は固い引き出しを力任せに押しこんだ。閉めた。
光も、音も、体温も、茉莉絵の気配すらも一切届かない。
無の世界であった。

「茉莉絵ちゃん! 嘘だろ!? 出してくれ! 叩いてくれ、踏んでくれ! 罵ってくれてもいい! 君がいない場所なんて、俺は……俺は……!」

檸檬は暗闇の中で、プラスチックの壁を叩いた。
しかし、どれだけ叫んでも、タッパーの外にさえ一ミリも漏れない。茉莉絵が、何をしているのか。怒っているのか。笑っているのか。それすら分からない。

ハイヒールや下着類の中には、苦痛であれ何であれ茉莉絵が存在していた。しかし、ここには何もない。ただの冷たく、乾燥した、静寂だけがある。
ストーカーの精神は、じわじわと、確実に破壊していった。本当の虚無があった。

聖夜の聖餐  ―― 巨大娘小説 ―― (前編)

(了)

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貸し本棚に関する意見交換会

貸し本棚サービスをローンチし、すでに一定の盛り上がりが見られつつあります。
こうした中で、ぜひお互いの貸し本棚、本のラインナップなどについて、意見交換する場をつくらせて頂きました。

Talkでやる手もあるのですが、貸し本棚サービスの立ち上げを優先するために、ぜひコメントすれば、自動的にコインが貯められる
掲示板スペースで意見交換会を催したいと思っております。

ということで、まずは取り急ぎ、会の発足を宣言させてくださいませ。

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批評・論考

涙の訳を語らない

言葉にできたら泣いてない

「俺のせいなんだ。ごめんね。」

ってまだ聞いてないから

涙の訳を語らない

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影を探す月光


さらさらと落ちていく砂のように

言葉が夜の底に姿を消した

心も道連れにして

今日は雲が眠る綺麗な満月だ

柔らかい風が吹く

静かに影を探す月光に涙が零れる

見つかるだろうか

まだ影を映すことができるだろうか

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並々の水

 波が増す
 波打ち際の
 波紋見て
 並々ならぬ
 涙が頬に

 由希は海岸にいた。四月に高校生活が始まり、一週間ほどが経ったある日の帰り道、吸い込まれるように砂浜に向かった。いつかの日のように靴を脱ぎ、裸足になる。波が押し寄せる度、足が濡れる。涼しい海風が、スカートを揺らす。
 大きな波が足首まで濡らした。そして、涙が溢れ出ていた。それは少しずつ少しずつ、しかしいくらでも湧き出る。
 LINEの通知でスマホが震えた。視界がボヤけているのを手で拭い、急いで確認する。

 この遊泡海岸で親友に別れを告げられたのは、一週間ほど前のことだった。家の近くにあるこの海岸。ここで親友の日向と小さな頃から何度も遊んだ。砂浜に足を取られながら追いかけっこをして、この波で何度も足を濡らした。
 しかし、別れは突然やってくる。中学を卒業して春休み、もうすぐ高校生活が始まるそのとき。夕方、いつものように遊泡海岸で遊んでいた。おそらく、今日が春休み最後に遊べる日。四月からは違う高校に行くことなど、由希は理解していた。しかし、突如立ち止まった日向は告げる。
「あのさ、言ってなかったんだけどさ」
 どうしたんだろ。どうしてそんな顔を。
「うん、なに?」
「あの、私、引っ越すことになったの」
 その声がよく響いた。夕日が日向を照らす。波がザザザと押し寄せる。
「え……」
「そんなに遠くないけど、あんまり会えないかも」
「そんな……」
「ごめん。ほんとはもう行かないといけないんだ」
 日向は由希に背中を見せる。
「じゃあね、由希も頑張って」
 日向は走り出した。背中は夕日に照らされ、その分顔は暗い。
「ま、待ってよ!」
 声は、届かなかった。

 スマホが映し出したLINEの通知は、ただのクラスラインだった。それでもLINEを開いて、日向のトーク画面を見る。前にメッセージを送ったが、今日も既読はつかない。もう一週間は経ったというのに。
 ……なんでつかないんだろう。やっぱり忙しいのかな。
 波が足を濡らし、そして引いていく。風が濡れた足と頬を冷やした。夕日はすっかり傾いている。鳥肌が立った。由希は家に帰ることにして、自転車のペダルに足の力をこめる。

 家に帰ってほっと一息ついた。荷物を下ろし、手を洗う。
 喉が乾いた。そう思い、空のコップを手に取って水を入れる。少しボーッとしていたら、いつのまにか溢れそうになっていた。
 コップ並々の水。表面張力によってギリギリ形を保っている。それはいつ溢れ出てもおかしくない。
 由希はそれをこぼさないように慎重に飲んだ。



 それから一週間ほど経ったある日。少しだけ慣れてきた道を通って高校に着く。クラスメイトの明るい声が響く教室に入れば、仲良くなった友達に「おはよう」と声をかけられた。それに由希も「おはよう」と返して席に座る。
 スマホを確認する。通知はない。LINEも一応開く。既読はない。スマホを机の上に置き、ため息をついた。スマホの画面が暗くなる。
 ……何週間も既読つかないなんて流石におかしいよね。
 椅子に座ってぼんやりと考え込む。最後に会った日、遊泡海岸で笑顔を咲かせる日向を思い出した。日向の笑顔は華のようにパーっと咲くので、見ているこちらまで口角が上がる。
 教室に楽しさが爆発したような笑い声がこだました。心の中に張られた水がざわざわとどよめく。
 ……日向は私のこと忘れちゃうくらい楽しい生活を送ってるのかも。
 もういいやと思ってスマホをカバンの中に投げ入れた。スマホは底まで落ちて鈍い音を立てる。
 やがて朝のホームルームが始まって、今日もどこか笑顔が足りない日常が始まった。

 三時間目の数学。事件は起きた。チョークの頭が黒板に擦られる音。シャーペンを動かすたびに鳴る摩擦音。その程よい静けさを貫く爆音が、堂々と鳴り響く。
 らいん♪。
 この場で存在を示すことを禁じられた物の悲鳴。それがこだまする。こだまする。
 ピリッとした空気。胸がキュッと上がるような感覚。やけに聞こえる無音。張り詰める無言。
「おい、誰のだ!」
 空気を揺らす先生の怒声。由希の心を大きく波立てた。それもそうだ。今、明らかに由希のカバンから音が鳴った。
 ……電源落としてないかも!
 由希の指先は震え、視界は急激に暗くなる。疑惑は確信へと変わる。喉から搾り出すようなか細い声で、なんとか応答する。
「わ、わたしのです」
「今すぐ出しなさい」
「は、はい」
 由希は焦燥感に駆られながらカバンの底を探った。なかなか見つからないこの数秒が煩わしくて、顔を隠したい。
 ようやく見つけ出したスマホの画面は暗く、こわばっている由希の顔を反射した。すぐに電源を切って先生に渡す。その瞬間、やけに周囲の音が遠くなって、何もかもと隔絶された世界に飛ばされたような気がした。何を掴もうと届かない。イヤな顔をされて距離を取られる。
 繋がれていたものが全てなくなった。今までの思い出も、そこに詰まっていたというのに。
 そのとき、思い出という言葉でやっぱり日向のことが脳裏に浮かぶ。
 ……もしかしたら日向からだったかも。
 それに気づいてからは時間の進みが遅くなって仕方がなかった。
 


 放課後、由希は再び吸い込まれるように遊泡海岸に向かった。失点ばかりの現実から目を背けるように、自転車のペダルを漕いでいた。

 掃除が終わった直後、先生からスマホを返してもらった。急いで確認したが、日向からではない。ただの公式LINE。思わず二度見して、それからため息をついた。
 授業中の失点について、高校の友達は慰めてくれる。
「まぁまぁ、そういうミスするときはそりゃあるよ。みんな気にしてないし、大丈夫だって」
「そうだよね。明日にはもうみんな忘れてるし? そういうことにしよう」
 そんなことを言いながらも、並々の水は今にも溢れそうだった。

 遊泡海岸の砂浜で素足を海風に晒していた。涙で足を濡らしながら、ぼんやりと過ごす。
 そもそもなぜ自分が泣いているのか、由希にはよくわからなかった。思い当たるのは、今日授業中にスマホを鳴らしてしまったことだろうか。
 ……なんで、なんで泣いてるんだろう。大したことじゃないのに。
 一度溢れ出した涙は止まらない。自分の呼吸が頭の中によく響く。
 ……大丈夫だって。泣かなくたって大丈夫だって。
 波は一度引いて、勢いをつけて再び押し寄せる。
 ……泣く必要はないよ。誰でもミスはするんだし。
 足が濡れる。泡が優しく足を包む。
 ……別に日向がいなくたって頑張れるよ。日向は日向で頑張ってるんだもん。
 波が引く。足元まで押し寄せた波の泡は儚く消える。
 日向は日向で頑張っている。そう思ったら、なんだか日向に頼り過ぎている自分が情けなく思えてきた。自分は自分で新たな環境で頑張ればいい。それだけのことだ。
 ふと、LINEについて思い返す。よくよく考えれば日向があの時間にLINE出来るわけがない。
 ……何勝手に期待して、勝手に落胆してるんだろ。
 目の前にはいつもより荒れている海が広がっている。どこまでも広がっている。視点を上げても、視界内に収まらないほどに。
 由希が流したしょっぱい涙は砂浜に落ちて、やがて海水と混ざる。誰かが悲しむ度、海水が増す。海水が増す度、波が大きくなる。
 ひんやりとした海風が髪をなびかせた。今さら海の広大さに圧倒されたのか、まじまじと海を見る。
 きっと今日も増えた。微量でも積み重なればこんなに大きな海になる。これだけの誰かの悲しみを、地球は受け止めてくれる。
 由希は砂浜でぼんやりと考え事をしていた。

 思っていたより時間が経っていた。いつもならもう家に帰る時間だが、今日はなぜだかもう少しここに居たいと思った。日が少し傾いている。昼間よりは薄暗く、心なしか冷たい。しかし、その分太陽が優しく暖めてくれているように感じた。
 そのとき、スマホが震えた。LINEの通知音を鳴らして、画面が光る。
「あ! 日向の!」
 ロック画面の通知には日向のアイコンがある。“ごめん、忙しくて気づかなかった”というメッセージ。
 震える指でロックを開け、LINEのアイコンをタップ。少し長いロード画面にイラつきながら、日向とのトークを開く。
 トーク画面には待ち望んでいた既読の文字がついていた。メッセージも今返ってきた。海の波が引けば引くほど大きくなって返ってくるように、日向からのメッセージは続いた。
『心配ありがとう!』『こっちでも元気にやってるよ』『引っ越し作業で忙しかったけどね』
 日向と今、会話できる。胸を撫で下ろした。しかし同時に心臓がどくどくと鳴り始める。
『ちょっと待ってて』
 日向が言った。首を傾げる由希。どういう意味だろうか、また何かあったのだろうか、と思考を巡らせる。
 何秒か待った。しかし、続きはない。心臓の鼓動が速くなる。
 ザザザと波が押し寄せる。その瞬間だった。急に背中に衝撃が走る。
「ワッ!」
 声を上げる。後ろを振り向けば、華のようにパーっと咲く笑顔が。幼い頃から見てきた顔が。その人の温もりが。
「やっぱりここにいたね。久しぶり、由希」
 由希も釣られて口角が上がった。
「うん、久しぶり!」
 なぜかまた涙が出てきた。それを手で拭う。
「ちょっと、泣くことはなくない? もっと喜んでよ」
「うん……!」
 特別大きな波が押し寄せる。由希の口が自然に開く。
「よかった、私のこともう忘れたんじゃないかと思った」
「そんなわけないじゃん。どれだけ一緒にいると思ってんの」
「だって全然既読つかないし」
「それはごめん」
 静かな自然の中に二人の笑い声が響く。
 日向は覚えてくれていた、それだけでもう十分だった。心地よい海風が二人分のスカートを揺らす。由希の心の水に張られていた膜のような何かが消え去った。
 太陽の光が海に反射し、四つの目に輝きが灯る。穏やかな海に涙が足され、由希ではない素足が水を打つ度小さな波紋が広がる。

 波が増す
 波打ち際の
 波紋見て
 並々ならぬ
 涙が頬に

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わたしはわたし



赤児 
泣かない
天井を 
力いっぱい 
抱き寄せて 
ふんと 
鎖を
噛みちぎる 


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すすきの草原

ここはすすきの草原ではなく

歩道の植え込みであるということを

忘れてしまいそうになるほど

みな同じ方角を向いている

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按配

わたしが日常を書くのは
日常が続く事を願うから

わたしが日常を願うのは
非日常は偶々で良いから

非日常を内にこっそりと
隠し持って置くくらいで

そのくらいで良いかなと
そのくらいは良いよね。

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六月の女

六月の女
雨傘をひらく
黒いフリルを見せつけて
斑紋にまたがる

オリモノの飛び散り
しなだれる
折れさうな雨足
水は低きところに流れゆく

六月の女
あ、と口唇が崩れ
化繊のマキシを
膝までたくしあげる

失われたものを曳く
腐つた松葉の裏に
動きはなく
ただ澱みに

六月の女
私は当然
caterpillarで
蹂躙されてゆく

雨傘を閉じる
黒いフリルをくねらせ
オリモノをふるい落とす
六月が終る

https://i.imgur.com/bKlh60C.jpg

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偶然裸体の大伽藍

改変された大伽藍
歌いながら皮膚の針を抜き
アゴ豆ぼくら増殖道路
人骨と
白い性器を拾い集めながらゆく
改変された磁場の下痢
嫌だわと
壁が生温かい黄色い表情の世界をユーモアもなく発表し
議場は断食を声高に宣言した
アゴ豆ぼくら増殖道路
シジフォスの暗い肉に触れて
あわや僧衣の眼玉の乾いた海辺
そいつらが楽屋で泣きながら朝飯を食らう
晴れときどき下腹部監視
嫌だわと
カボチャからぬらぬらと無数の脚が生えてまだ口がないのに
発せられるその大声
脚どもは咽喉のように透明な汁を流し
試着室のヒツジ肉
シジフォスの太い筋肉の
魚卵の映画として叫ぶ
人肉と
白い性器の流れるどぶ川のぼくら
……客たちは全員が坊主頭で座っていた
小さなチーズで出来た切符を持って立ち尽くす乙女たちひとりひとりが
客たちを
アスファルトの刑場へ連れて行き
嘔吐よりも暗黒物質に近い
巨大な
表面がぐつぐついっているパルジファルへと沈めていく
乙女らは
不治の下痢で
作業中は肛門にマカロニを詰めていた……
プラスチックの鳥がひらりひらと下りてくる
改変された大伽藍
歌いながら草むらに逃げ
アゴ豆ぼくら増殖道路
探検敵意感動の騎士
歌いながらシジフォスの暗い肉の食器に触れて
新鮮生き物セルロイドの刑
川下の現在地の内臓の夜などと宣いて祈り
樹液と火山が静かに祈り
マカロニ鍵の喪失の
鋭い笛の証言の祈りがあり
むきだし幽霊ヒツジの腸!
レールの剥がれた偶然裸体!
……木の橋にて
自分のアゴ豆がどうなっているのかを
仏典を頼りに初めて知って
橋に散らばる人骨と
白い性器を拾い集め
ああ いま 服を何も着ていないのだ……
宣いながら
試着室に入っていく

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梅雨とメキシコ

六月雨の日
メキシコ産トウモロコシの
頸骨を認識し
きみは漁港の夕暮れを
手元の白い紙に
透かし見た

極彩色の砂漠って
素敵な詩人だわ
会って
ぼんやり
汗くさいパエリアを食べたいわね
きみは言って
六月雨の日
川の光をじっと見た

メキシコ産トウモロコシが
マーケットに並び
死地では
タイプライターが
鉄格子を描写していた

思い浮かぶメキシコは
叫ぶ男とソンブレロ
激しいリズムのマラカス部隊
雨のメキシコではない

手元の白い紙の
表情がわかる瞬間がある
きみがあくびをするときだ
痙攣的な旅行
のような
きみのあくび

六月雨の日
極彩色の砂漠
が書いた
銅板と
冷えてく言語の詩を読んだ

パエリアは固くなっていて
メキシコ産のトウモロコシも
入っていなかった

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偽証目録 #1

諸般の投稿へのコメントについて(お返事)
20▓▓.06.▓▓ 00:▓▓

いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。
先日投稿した記事「ハッピーバースデートゥーユーに中指立てよう」に大変な反響があり、多くのご意見と罵倒をいただきまして、有意義なご意見に対しては既にコメントでお返事差し上げましたが、罵倒に関しては一々返信していると全部文面が同じになってしまうので、本投稿にてまとめてお返事差し上げようかと思います。

罵倒と言ってもどれも似たような内容で、大まかに言えば「確かにお前は生まれるべきではなかったね」系と「死んでくれ」系がほとんどです。よりにもよってそれは分が悪すぎるだろうと笑ってしまいましたが、ご自身で書いていておかしいとは思わなかったのでしょうか。「生きてほしいと人が言う時、それは『(生きるなら真っ当に)生きてほしい』であり、そこには悍ましい対偶が隠されている」と、私は何度も申し上げています。生まれるべきでなかった命は確かに存在します。あなた方の言動がそのまま答えです。

さて、記事はSNSでもいわゆる炎上というものをしているようでして、私はかれこれ十年近くSNSをやっていないので分からないのですが、最近は対戦相手不在のリングで暴れ狂うのが流行りなのでしょうか?ちょっと精神状態が心配になってしまいますが。これは「あなた方」に対する返事ではなく、出生への一般論です。具体的な個人にやると誹謗中傷ですが、一般化すれば何言ってもOKというのが近年のSNSの潮流のようですから、ありがたく私も使わせてもらいましょう。子作り趣味の中出し中毒者め!

最後に、記事へのコメントで面白いものがあったので触れておきます。「こいつのせいで日本の出生率が落ちてる」と。いやはや、私ごときが日本の特殊合計出生率に影響を与えられるなんて、そんな恐れ多い……と言いたいところですが、さすがに過大評価。他人の意見で人がそう簡単に変わるわけもなく──既にあったのです。無言の意思が。隣人。まだ気付かないのですか。潜む人々。見えていますよ。「悪意を播種する者は悪人である。悪意を秘匿する者もまた悪人だが、それは善人と見分けがつかない」と、これも何度も申し上げてきたことです。

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ほんとは苦くない

疲れて
差した目薬が
鼻筋を通って
唇に触れた

染みる感覚が
目にある
苦い味が
口の中に広がる

しばらくすると
それらが消え
目元がすっきりとする

もう聞けないと
その声を思うとき
鼻筋を通って
唇に触れた

熱の感覚が
目にある
塩の味が
口の中に広がる

しばらくしても
消えることはなく

止まらず流れる

やがて
馴染む塩の味

自分へと
残る

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にぎりめし

定期的に
死にたくなると
おにぎりをにぎる
あたまのなかで

ぎゅっぎゅっぎゅっぎゅりりぎゅっ
ぎゅー
せいさんかくけいに
にぎりしめていく

「なんでもないけどなんだけど
御一人様って言葉も
ファミリーサイズっていうのも
なんでもないからこそ
ひっかかって好きになれない」

何気ない会話ばかりおもいだして
「で?」
「だから?」
「へー」
「あっそ」
ひとことがまきついてくる

きょうもSNSで
死にたいは溢れるし
「悲しいお知らせ」は
途絶えない
「ハッピーが届かないのは
受け取らないからです」
「この世は鏡」
聞き飽きた台詞を言いながら
ゴミ箱に紙くずと一緒にまるめて
捨てる 以上

ぎゅっぎゅりり
おにぎりをにぎる
あたまのなかでだけ
そしたら いつのまにか

わたしゃあ おなかがへったわ

といいはじめるから

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秋桜

よっこらせよっこらせと

虫食いの花びらを一枚一枚広げながら

一輪の赤紫の秋桜が立派に咲いた

若草色の羽のような手が

しゃらんしゃらんしゃらんしゃらんと

鈴なりの拍手を送ると

赤紫色の秋桜の瞳から、涙がぽろりと流れる

「頭の上の大きな紫陽花の花が邪魔をして

うまく背を伸ばせないのです。」


秋桜はそう言っていたが

大きな紫陽花の花を、

よっこらせと背中にしょうと

よっこらせ、よっこらせと細い体を伸ばしていった

そうして
赤紫の秋桜は言った

「腰も曲がって、肩も痛いけど、

明日から、朝一番の太陽の光をいただきます。」







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捧げた愛

愛を信じ
愛に命を捧げ
少しずつ傷つけてきた心と体
いくら捧げても
いくら命を削っても
愛は満たされない

滴り落ちる命の血
気を失う程
意識が無くなる程
それでも止める事の出来ない
愛への渇望
血は赤く
血は熱く
そして滴り落ちた血は黒くなる

私の心も
熱く
赤く燃え上がり
そして燃え尽きれば
黒い灰になる

捧げても
捧げても
あなたに届く前に
赤い命の血は黒く醜くなり
そして乾いてしまう

あなたが私の愛に
気付いて止めてくれないと
私はただ毎日
自分を傷つけ
届かない愛を捧げ続ける

あなたが私の愛に
気付いた時は
私の命は小さなグラスの中
あなたがそのグラスを手にしてくれていたなら
最後に残った命の血は
赤く輝いている愛の血
黒く乾き消えることはない
私の愛も消えることはない

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地面


あなたの
残した
紺色の 
つば 
眺め
あきられて
折り曲がる

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自由落下

うん、寝転んで。

そう、そのまま、視線を。

雨は 湧き上がる。

空に 落ちる。

もう、しばらくは このままで。

2026/6/20 15:31

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その男縄手

これから書こうとしているこれが詩なのか否かは分からない、それは私の手に余る、だが、こんな私にも知っていることの一つや二つはあるのであって、それはいつかは私も死ぬるということ、そして、
縄手という名前の男がいるという事実、
小説か映画の登場人物のごとき苗字であるがこれが本名、
そして実在の人物だ、今も、
縄手は浪漫的な探偵小説家なのではない、
縄手は岡っ引きや刑事というわけでもない、
だが縄手は私の監視役ではある、
彼は毎日、私の部屋を訪れる、
黒く濡れた大きな鴉のようにあらわれる、
午前の十一時半キッカリにチャイムを鳴らす、
その時刻が近づくと窓下にクルマの止まる音が聞こえる、
来たな、と思うまもなく、
カツ、カツ、カツ、カツ、と靴音が廊下を近づいて来てドアの向こうに止まるのだ、
彼の生業は金貸し、
より正確に云うならば金貸しの手下である、縄手氏は、
毎日ラクラク返済、日掛け金融の走狗なのだ、縄手氏は、
彼は黒いクルマに乗って黒いスーツを着用し黒いネクタイを着けてやって来る、
漫画の作中人物のように靴も黒く頭もべったりと(染めているのか)黒く、
眼鏡のフレームもブラックで手に持つ書類鞄も真っ黒だ、
彼との付き合いもかれこれもう丸二年になんなんとする、
ある日のこと私は彼から、
「心をこめて 社員一同より」、
と書かれたカード付きのプレゼントをお中元に貰ったことがある、
お得意さんになっていたらしいのだ、
包み紙を開いてみたらオロシ金が光っていた、
黒い冗談だ、と思った、
すでに私はこの二年十二分に擦り減ってきたのだから、
だが縄手氏だって人間だ、
彼の黒い家にも家族がいることだろう、
黒い妻や黒い子供と黒いご飯を食べているのだろう、
いや、案外に家にいる湯上がりの縄手氏は白いのかもしれない、
縄手に支払う毎日の金を捻り出すためにこの二年というもの、
本を売り、家を売り、妻を売り飛ばし(実はいつのまにか消えていたのだが)、
血を売って、皮を売り、肉を売り、内蔵を次々に売り捌き、
心臓と骨だけになって、金を作り縄手に渡してきた、
ついに売るものがなくなって私は私の書く詩のごときものを縄手に渡そうと決めた、それが詩か否か、それは私の手に余るのだけれど、だが、昨日も一昨日も縄手は詩を受け取り    
はしなかった、
もう三日返済が滞っています、ワタシも上司に追い込まれているのです、と云い放った、
それももっともだ、と私も思った、
そして今日、相変わらず私には詩のごときものしかない、
カツ、カツ、カツ、カツ、ああ、冷たい靴音が響いて来る、近づいて来る、
熱いコールタールが胸を塞ぐ、息ができない、
縄手の縄が私の頸に縄手がかける縄が待ち遠しい、
今日、私のタマシイは十二分に擦り減っている、
そして今、ここに記しつつあるこれが詩なのか否かは分からない、おそらく云い得るのは、書かずにはいられぬと錯覚するほどにこれらの言葉の胡乱な縄に私が絡みつかれていると死ぬるまで錯覚したいのだということ、そう、明日には私にさえ破棄されるかもしれないこの世では一銭にもならぬこれらの文字の連なりの罠のこれに……………………………

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