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カミサマへ
扉なら
叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて
名前なら
呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで
かみならば
書いて書いて書いて書いて書いて書いて書いて書いて書いて書いて書いて書いて書いて書いて書いて
疑いを差し込まなければ
ナニゴトも叶えられますよね
とどかないこえはわたしのじゅんすいさの
しんけんさの
ふそくですよね
信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて信じて
ただいきていきますねいきてるかぎりは
[は]ハグ あ ユー
「一緒に居て楽しいから友達に戻ろう」
君の言葉を呪う 私は弱い人間だ
居るときよりも居ないときのほうが
自分を証明できない気がするんだよ
鈍行は夕暮れの中を走りゆく
夕闇に君の影がくっきりと分離する
二駅先の目的地から外れたスニーカー
はなしたくないなんて言わさない
さよならを言わせない背伸び
重ねたシルエットの行方を教えてほしい
夢覚めるような秋風
君の唇の温度
How a you...?
Hag you...
楽しい思い出も鮮明に透ける水面
掬っても指間の端から溢れていく
光るものもあれば苦々しいものもあった
だけどね、余すことなく留めておきたいの
少し肌寒くて強い突風で乱れる髪が
視界を奪って見上げる顔が見えない
頬に張り付いて滲む 切ない...
なんて思っていても君には言わない
ごめんねと言いたくても言えない表情
困った情けない顔も好きなんだよ
手を握った熱の在り処
消えない涙の果て
二人きりで足並み揃える閑静な帰路
俯く、熱い目頭の端を見られたくない
ゆっくり歩くのに過ぎ去る残酷な時間
どうしょうもないくらい好き、私
ありがとうと今、伝えたい君へ
優しく抱き寄せる嘘が温かい
最大限の強がりを
「大丈夫」と「またね」
How a you...?
Hag you...
I love you...
プロローグ
うまれたときから
ずっと
だれかと
かくれんぼ
してる。
あなたは だれ?
どちらが おに?
どちらが 子?
それも、しらない。
おしまいは いつ?
あいずは くる?
もう いいかい?
それも、しらない。
みつけたら 勝ち?
みつかったら 負け?
なにがおきるの?
それも、しらない。
みつけたら、みつかったなら
わかるかな?
げたばこに ろじうらに
こうえんに しごとばに
ほどうきょうに ちかてつに
いるかもね、いないかも。
ことのはに おんがくに
ふであとに ぽわんとに
ぴくちゃーに ぱふゅーむに
いるかもね、いないかも。
あのそらに あのうみに
あのつちに あのかぜに
あのあめに あのはなに
いるかもね、いないかも。
ずっと ずっと、さがしています。
これからもきっと、さがします。
ねぇ、あなた。
それだけ (0.0.3)
母が
救急車に
乗せられ
待合室は
がらんどう
父親も
十五年前に
精神病院へ
入院した
こんな時に
あなたの
優しさに
わたしは
苛立つ
卑しいね
それだけ
どろだんご
せかいは
おおきな
おおきな
おすなばあそび
くりかえされているだけ
きづいたから
だれかのてあかに
まみれるものかと
いそいであわてて
ちまなこひっしに
つくりあげる
わたしのどろだんご
わたしもどろだんご
だとして も
こわすときもこわされるときも
わたしのたいみんぐだとしんじつづけて
きらり なでまわしみがきあげて
せめてきれいでいたいどろだんごすこしだけでも
かたちをください
かんじょうにかたちが
ことばにもかたちが
しっかりあればいいのに
みえてつかめてさわれて
だきしめてなげてけとばして
おいつけてだんすしてキスできたら
わたしたち もっと
ちきゅうじょうで
しあわせにちかづけたのかも
しれない
こころだって そう
かんじんなものには
かみさまは
かたちをあげない
いじわる
ね、かみさま
あなたも すがたかたち
あらわさず
すぐにげられるように
ね、かみさま
かたちをくれたらよかったのに
どうせこわれるわたしたちの
かたときのしあわせのためにくらい
同じ色
集まって集まって
向こうからも
こちらからも
よくよく見て
同じ色
違う色
似たような色
混ぜたくなる色
散らかって散らかって
一緒にやるにも
一人でやるにも
どんどん行って
同じ色
反対の色
隣同士の色
混ざりたくなる色
コミュニティという重力圏と系内天体の軌道
コミュニティとは何か。
ひとつの答えを出すとすれば、「共通の実践を持つ集団」ということになる。文藝において言えば、何かを書き、読み、差し出す——その反復の中で人は引き寄せられ、場が生まれる。価値観は最初から共有されているのではなく、実践を通じて少しずつ輪郭を持ち始める。観念が人を集めるのではなく、行為が先にある。
では、そのコミュニティが存続するための条件は何か。
逆説的に聞こえるかもしれないが、「その実践の範囲で揺らぎを持つこと」だと考える。硬直した均一性は外部の変化に対応できず、やがて崩壊する。一方、揺らぎが大きすぎれば共通の基盤を失い、集団は散逸する。生きたコミュニティとは、その振れ幅を内側から吸収できる場のことだ。
ここで思想的な補助線として老荘を引きたい。
「道可道、非常道」——言語化できる道は、永続する道ではない。明文化されたルールとはまさに「可道」であり、それに依存した瞬間、場の本質からは遠ざかっていく。ルールは逐一言語化を要求し、解釈を生み、対立を呼ぶ。穴を塞ぐたびに新たな穴が開く。
老荘が示す「無為而治」——介入せずして治まる——は、ユートピア的な理想論ではなく、場の重力への信頼である。実践を共にする集団には、明文化しなくても「ここではこうある」という引力が自然に働く。逸脱はルール違反として裁かれるのではなく、重力の相互作用の結果として、自然にその系との距離が変わっていくプロセスにすぎない。系に留まるか、あるいは遠ざかるかは、善悪の判断ではなく、実践への共鳴の度合いによって決まる。
この重力の比喩を押し進めると、コミュニティの姿はひとつの軌道系として見えてくる。
文藝という実践が、恒星として中心にある。その重力圏の周りを、書き手たちが惑星のように周回している。軌道の大きさも形も速度もそれぞれ異なる——それが多様性だ。しかし全員が同じ重力に捉えられている。誰も命令されてはいない。引力があるだけで、軌道は自然に生まれる。
楕円軌道の離心率が「揺らぎ」に相当する。恒星に近づいたり遠ざかったりしながら、それでも系の外には出ない。コミュニティからの逸脱とは、いわば第二宇宙速度を超えて系を脱することだ。それは集団への反逆ではなく、その場の中心にある実践への関心が、系を維持する引力を上回ったという状態を指す。
惑星同士もまた、互いに引力を持つ。書き手が読み手になり、触発し合い、軌道を微妙に変化させていく。それがコミュニティの発展性だ。そして恒星自身も、惑星の質量にわずかに揺れる。場は運営者だけが育てるのではなく、実践する者全員によって育てられる。
そして、系のさらに外縁には、彗星のような存在もいる。
長い周期でふらりと戻ってきては場に波紋を起こす者もいれば、一度だけ強烈に接触して去っていく者もいる。彼らは恒星の重力圏に捉えられているわけではなく、ただその軌道がそうであるだけだ。近づく理由も、離れる理由も、本人の内側で明確に言語化されているとは限らない。
しかし、その接触はときに惑星の軌道を揺らし、恒星の位置をわずかに震わせる。外縁からの揺らぎを吸収できる柔らかさこそが、コミュニティの生命力である。
一点、誠実に認めておくべき逆説がある。
「設計されていない場」は、しかし設計されなければ生まれない。老子が無為を説いたとき、それはすでに有為の行為だった。後世の人間がその言葉を経典にし、注釈をつけ、宗派に分かれていったことを思えば、概念を打ち出すこと自体の危うさは自覚的でなければならない。
最後に、この矛盾は解消できない。ただ、解消しないままに保持することが、おそらく誠実な態度だ。概念を手渡しながら、その概念に縛られるなと言い続けること——それが、明文化されないルールの、唯一可能な形なのかもしれない。
【補講:ロシュ限界と侵襲的接近について】
系内における「衝突」について補足しておきたい。
天体物理学には「ロシュ限界」という言葉がある。ある天体が他天体近づきすぎた際、互いの及ぼす潮汐力によって、その天体自身の重力(自己をまとめようとする力)が耐えきれなくなり、崩壊し始める距離のことだ。
天体同士が接近し、連星なり衛星なり、または同一軌道であってもラグランジュポイントにその位置を占める場合は新たな安定した系を生む。しかしながら他者の作品や、その背後にあるパーソナリティに対し、批評や対話という名目で過度に侵襲的な接近を試みる行為——それは、相手の「書くことの根拠(重力)」を内側から引き裂き、崩壊させてしまう。
コミュニティにおける「明確なNo」とは、特定の個人の排除を目的とするものではない。むしろ、それぞれの惑星がその形を保ち、自律的な軌道を維持し続けるための「安全距離(ロシュ限界)」を再定義する行為である。
この斥力こそが、結果として系の多様性と、天体ひとつひとつの輝きを守ることにつながるのである。
また老荘思想や天文学はあくまで比喩に用いている。そちらの専門的な意味合いと異なる点はご容赦頂きたい。
処女の迷宮
外出すると
冷たい風が吹いている
かの淋しき初恋が
ゆらゆら
空に揺れている
私の処女膜が薄紫色の舗道に
深く放り投げ出されて
闇夜に染まった校舎が
今は亡きあの人の
セレナーデとなる
耽美に染めん乙女心に
蜘蛛の巣が
ファーッ
と張り巡らされて
私は深遠の肌に
破られた処女膜がある
初夏の緑色に彩られたひまわりが
私の周囲で
わさわさと
笑顔の凶器を投げかける
最終列車に飛び込む人の顔面が
私のスクールバッグに
スポッと
入り込む
ひらひらとなびく処女膜の
痛切なる五月の漆黒に
私は喉で
噛みちぎる
花曇り
あたたかく降り積もった雪の下に埋めた
女になってしまう前の、
何でも言葉に出来ていた少女のわたしを
女になるというのは
自分が一番遠い他人のように感じる生き物に
なることなのだ
女になったわたしは
薄暗いさみだれを落としながら
それを拾い上げてくれる誰かを
いつも求めていた
呟きでも、言葉に出来るなら救われるのに
落とした思いを重苦しく引きずりながら
歩む道程で出会ったあなたには影があった
あなたは光の真下にいた
影の出来ないわたしの空模様を面白がって
わたしの背後にあなたはしゃがみこんだ
何の種だろう、と容易く拾い上げて
掌に転がしてわたしに見せてくれた
わたしにも分からなかった
つないだ手の熱で
自分がどれだけ凍えていたかを知った
それもまた、女であるという証だった
あなたの真上には青空が
わたしの真上には曇天が
それでも、つないだその手のあたたかさが
あたたかさだけで
あなたは幾つもの種をいじったり埋めたり
朽ちた空色の下でも、
花は言葉もなく咲く
#1 田伏正雄のMASAO TABUSE
私は文芸投稿サイトを運営している。運営方針は恐ろしく単純だ。荒らしはさくっとアク禁にする。謝罪や釈明があれば許す。ただそれだけのことだが、この方針によって、ほとんどの投稿者は荒らしの存在を意識せずに済む。書いて発表したい人間は常に一定数、存在する。荒らしが変に掻き混ぜなければ、文芸投稿サイトはそれなりの賑わいを見せるものだ。すなわち、サイト運営においては、迷惑投稿者に毅然と対応することが何より肝要なのである。
私は常々それを正しい方針だと思っていた。そう反芻していた夜に、田伏正雄のツイキャスを聞いた。田伏正雄というのは、私がアク禁にした連中の間で「精神的支柱」とされている人物らしい。過去に文芸投稿サイトを乗っ取り投げ捨てた者、出禁を食らった者、行き場をなくした者たちが、田伏正雄のツイキャスに集まり、意見交換をしているのだそうだ。意見交換?私はこれを聞いて、まず笑った。次に、参考のために聞いてみようと思った。
田伏正雄について事前に得られた情報は少なかった。身長190センチ、体重150キロ、女性を自認している。鼻毛が伸び散らかしている。これだけだった。荒らしたちの精神的支柱の鼻毛が異常に伸びている、という情報を私はどう処理すればいいかわからなかった。わからないまま、ツイキャスに参加した。
ツイキャスのタイトルは「田伏正雄のMASAO TABUSE」だった。タイトルの意味は判然としないが、始まってすぐに、番組の構造は理解できた。田伏正雄が、荒らし投稿者を一人ずつ呼び出し、行為を確認し、ただ一つの問いを投げる。それだけだった。
最初に呼ばれたのは「しこたま詩人」という投稿者だった。田伏がやったことを読み上げた。複数の文芸投稿サイトで、特定の投稿者に対して執拗な罵倒コメントを繰り返した。相手がブロックすれば別アカウントを作り、時には対象となる投稿者を騙り、相手がサイトを去るまで迷惑行為を継続した。田伏は淡々と読み上げた。
「あなたは悔い改めますか。」
しこたま詩人は言った。「私が迷惑行為に手を染めたのは、以前、件の投稿者から被害を受けたからです。それについて、仔細に説明する必要はありません。極私的な復讐に、他人が介入すべきではないからです。聖書にも、目には目を、とあります。私はただ、しこたまやり返しただけです。」田伏は言った。「それが答えですか。」しこたま詩人は言った。「そうです。」田伏は言った。「では、次の方。Bye。」
次に呼ばれたのは「○山○三(まるやままるぞう)」だった。田伏がやったことを読み上げた。複数のサイト運営者に対して、コンプライアンス上の問題があると主張し、外部機関への通報をちらつかせながら文書を送り続けた。開示請求を予告し、法的措置を示唆し、サイト運営者が疲弊するまで継続した。田伏は淡々と読み上げた。
「あなたは悔い改めますか。」
○山○三は言った。「私は一度も法律を破っていません。開示請求は法律が認めた権利です。コンプライアンス上の問題を指摘することは市民の義務でもあります。サイト運営者が疲弊したとすれば、それは運営者自身に問題があったからで、私に問題はありません。聖書にも、あなたたちの中で罪のないものから石を投げなさい、とあります。」田伏は言った。「それが答えですか」。○山○三は言った。「そうです。」田伏は言った。「では、次の方。Bye。」
次に呼ばれたのは「凡才奇人」だった。田伏がやったことを読み上げた。ある文芸投稿サイトに参加し、運営を乗っ取り、サイト方針を大幅に変更したあげく、半年ほどで興味を失い、投稿者たちを置き去りにしたまま去った。サイトは荒れ果て、閉鎖されるに至っている。田伏は淡々と読み上げた。
「あなたは悔い改めますか。」
凡才奇人は言った。「あのサイトは創業者の人格に問題があり、投稿者はルールに縛られて覇気がなく、場として停滞していました。私が実権を握ったのは、誰かがやらなければならなかったからです。元々の創業者らの反発で疲弊し、ストレスが募り、去るしかなかったのです。あのサイトは元から腐っていました。聖書にもあるとおり、放蕩息子の悔い改めを、放蕩していない者に求めるのは筋違いです。」田伏は言った。「それが答えですか。」凡才奇人は言った。「そうです。」田伏は言った。「では、次の方。Bye。」
沈黙があった。
次の者が呼ばれる気配がなかった。
それから田伏は言った。「今夜聞いていらっしゃる運営者の花緒さんにも、一つだけ聞かせてください。あなたは悔い改めますか」。
私は画面を見た。謝罪や釈明があれば許す、と常々、私は言ってきた。しかし謝罪や釈明があったためしがなかった。私の提唱する赦しの構造は、実のところ機能していない。しかし、だからなんだというのか。悔い改める気のない迷惑者を場から排斥することは、運営者として当然の責務ではないだろうか。
そもそもどうして私が視聴していたことが田伏に分かったのかも不明である。しかも、田伏の問いは、正しさの外側から来ているように感じられ、どう反応していいか戸惑うしかなかった。正しいかどうかではなく、悔い改めるかどうか、が問いである。その二つの問いの間にある距離を、私はうまく測れなかった。
私はコメント欄に何も書かなかった。田伏は私の沈黙を待ってから、言った。「それがあなたの答えです。Bye」。
配信が終了した。
田伏からメッセージが届いた。
「本日の配信のテーマは、人はなぜ謝らないか、でした。次の配信のテーマは、人はなぜ謝るか、です。」
チャイムが鳴った。ドアを開けると、銀縁メガネの紳士が立っていた。三つ揃えのスーツに革靴、手には菓子折りを持っている。「このたびは深く陳謝いたします」と紳士は言った。誰なのかわからなかった。次の瞬間、紳士の背後に舞妓がいることに気づいた。白塗りの顔で深々と頭を下げている。「堪忍しておくれやす」と舞妓は言った。舞妓の隣には、チョンマゲを結った男性が直立していた。「それがしの不調法、誠に申し訳ござらぬ」とチョンマゲ男性は言った。
私は三者を見渡した。全員見覚えがなかった。しかし全員が深く頭を下げ、後悔で体を震わしているようにみえた。私は言った。「どちら様ですか。」
銀縁メガネの紳士が言った。「悔い改めた者です。」舞妓が言った。「悔い改めた者どす。」チョンマゲ男性が言った。「悔い改めた者でござる。」
私はしばらく三者を眺めた。謝罪や釈明があれば許す、というのが私の方針だった。紛れもなく、目の前には心からの謝罪があった。しかし私にはまだ、この三者が誰なのか、何を謝罪しているのか、何を赦せばいいのかがわからなかった。
私はドアを開けたまま、廊下の先を見た。廊下は人で埋まっていた。階段にも人がいた。窓の外にも人がいた。全員がそれぞれの様式で頭を下げていた。白人、黒人、アラブ人、猫の着ぐるみ姿の人物。全裸の人間も交じっていた。全員が涙を流し、顔をしかめ、地団駄を踏み、体全体で謝罪を表現していた。
そして、田伏正雄からもう一通メッセージが届いた。
「ところで花緒さん、あなたも悔い改めますか?」
箱入り
このままふくれ続けたらきっと指がちぎれるから、切ろう。
わたしは告げ、かの女の錆びた指輪へ鉈を振りおろしたが、折れたのは刃だった。思えばこれも、きのうたたき割った夫の脳髄で錆びている。刻みこまれた誓いのぶんだけ指輪に分があったのだろう、はみ出しかける脳の片隅でわたしは思考する。折れた刃は飛びすさり、わたしの眉間を貫いて、脳漿の漏れに栓をしている。
長雨を飲み、かの女はふくれている。絹のようだった肌理が、渇いた綿より欲深くひらいて雨季を貪る。飢えていた腕がなん倍にも太る。きのう焼かれた顔の焦げ目が、腐りゆく水に白々しく薄れながらどこまでも広がる。粥に似ながら煮くずれることを知らない、若さが、左手のちぎれそうな薬指にだけ血を焚いて、食いこむ指輪に誓われた名前と同じいろに錆びる。
かの女はかつて、わたしの娘だった。
女衒に売ったのが九日前、思いがけず帰ってきた。性病に肌を食い破られ、ごみ溜めに捨てられたので、這い出してきたと娘は言った。死なないと埋めてもらえないの、と娘は言い終えた。
八日前、夫が木箱に娘を転がし裏庭へ投げたのはそのためだ。雨季に蓋され長雨に漬けられ、きのうまで、娘の肌は溺れながら若い皮脂を吹きあげて、あらゆる水気をはじき飛ばしていた。わたしが塩水で炊いた粥も、その例に漏れない。
七日間、娘の転がる箱で粥を食ったのは蟻だけだったが、わたしの薄い塩味に飽きたらずきのう、蟻どもの群れが美味な脂を掘ろうと、娘の耳に口に臍に、膣にもぐりはじめたので、穢された箱へ夫が油を撒き火を放ち、泣いた、まだ清かった刃の火照る影で。
その膣を掘ったのが翅をもつ女王だったら、別の物語が飛んだのかもしれない。きょう、油に焼かれたかの女の脂が、地の潮を覆う。降り溜まり蒸発する地の体液の循環を、焦げ落ちた皮脂の油膜で食い止めている。
このために地表が海を失っても、たとえば涙の降る限り、血のしたたる限りかの女は飲み、新しい海を生むために溜めるだろう。眉間の栓を抜き放ち、噴きあがる脳漿の虹でわたしは感傷する。わたしの箱のこの穴を、いつかちぎれたらあの左手薬指が貫いてくれるだろう。
サッカーボール
ラフカディオ・ハーンの右眼が
お椀をのぞく
片眼はオリオン座を見ている
しじみ汁に浮かんだ
日々の稼ぎの糸くず
砂まみれの網膜から
サッカーボールが飛んでくる 急速に
(のびていく地平線が 真っ赤だ)
純度100%の貝殻が
宇宙を構成する砂礫の
一粒 ひとつぶ 一即多
であるのかな
(バンバンと黒板を) 叩く
…おんぶおばけの闇 舌舐めずりの雀
コップに浮くのは
シジミの脂だけで 十分です
アテネフランセ ジャポネーゼフラッセ
るんるんるんと 海の彼方から
砂礫が吹いている 文法教育の裂け
目を
サッカーボール
が ぼこ ぼこ ぽこり
o.s.n.f.
朧な朝が
パン粥に浮かんでゐる
縁者は片手で足りる数となり
録音帯の波打つ息使いが
仇となり取り返しのつかぬまで
投薬しませうよプラス蒸留酒
意識飛び出るのを目蓋で抑え込み
泣き顔のおかしい男女児童が
茱萸の実を奪い合う熱気!
済州島の
軟らかな浜を
しなやかに滑りゆく
蜻蛉、さう昔蜻蛉だ
延延と釣針形に絡まつて
無闇を八枚の翅で掴みとらう
脳を洗うわたし
驚くほど恢達となり
添加してゆく晶や曇や
operating system not found
・・・・・
o p e r a t i n g
s y s t e m n o t
f o u n d
不具合である。
落とされた右五本指である。
薄ら笑ひの小芥子頭である。
なまくら刃物である。
暖冬である。
暖冬である。
https://i.imgur.com/zjqMPpw.jpg
春の影
伸びる影
踏み踏み歩く
幼女かと
見まごうほどに
ちいさな老婆
その姿
目で追いかけて
立ちすくむ
ちいさな母の
影に重ねて
星ヲ旅スル人
暗黒の大海原 満天の大星海
遠望なる水平線 その先の光追い
夢も希望も携えて いざ行けよ星の船
いつかの未来に 故郷に戻るとも
軌跡の地図に 思いを留めて
言動と創作について、その場と距離
「親しき仲にも礼儀ありではあるけど」
まあなんていうか、親しき仲にも礼儀ありではあるけど。友達との信頼と、家族への繋がりと、公共のルールは、ちがうと思うんだな。
だから公共の「場」で、友達同士で罵り合うとか、恋人同士で性的な話をするとか、家族の話題を赤裸々に談義するとか、夕飯の献立で揉めるとか。これは極端ないいかたではあるけど、ようは内輪の話をここでする必要があるのか、でしかなくて、別の「場」に移してやれよな、と思うね。
まあ、みなけりゃいい。それが可能だから、みないだけなんだが。降り掛かってくるでしょ、それが。おかしいんだわ。
と、ここまではSNS上の話として考えている。
こうして語ることもまた、総て、誰かには刺さる。肯定でも否定でも。こうして、わたしみたいに自然と、道徳なんかを持ち出してね。だから他人にたいし、指摘でも暴力になりうるわけで。そうするとやはり、個人として相手との関係性が重要になってくる。
そうするとやはり、場に対し柔軟に、というか、あたりまえにモードを切り替えられるか、って問題だけど、やはりそれ以前に、場に対しての自分なりの解釈があって、それに基づいているから、確実にズレていくわけでね。
じゃあどうするかっていうのは、場の裁量でもあるし、自分らの意識でしかない。そこで持ち出されるのはやはり、道徳的な観点だろうね。人それぞれ、その場を何として理解しているか。果たして、すり合わせてまで語る必要があるのか。それとも喧嘩してまでわかり合う必要があるのか。そういうことを考える必要がある。
この人は自分にとってどんな関係なのか。相手は自分をどう見ているのか、どう感じているのか。そこを考えないといけない。じゃないと、無意味だよね。
まあ、ネット上では、かかわらないという選択が簡単にできる時点で、道徳も誠実さも愛着も、全部ふくめて、最後はある種の損得に回収される。
そう考えると、ネット上は駆け引きが簡単に行える場所。匿名であるがゆえに、いくらでも暴走できる。箍が簡単に外れる。内輪の話も攻撃も正しさも、押し留めるものがない。それだけでしょうね。
その意味で、場のルールだけが正しさという方向を生む。でも、実際はネット上では、道徳そのものがルールを決めるというより、道徳を含むさまざまな手段を使って場を握った側が、結果としてルールを決めてしまう。
場・関係性・正しさ
荒らしは荒らしで、楽しんでいるだけですからね。彼らだって、他の楽しみ方があったらそんなことはしないでしょう。たしかに他者の気持ちなんて考えていない。それは問題でもあるけど、彼らなりの生き場所でもある。
ことにネット上は、自分が誰かを排除してまで、何かをする必要がない場所だ。場所自体はいくらでも移せる。簡単に。そういった一般的な思考があればなんの問題もないわけだから、軽く場を捨てる選択肢は、奴らから言わせりゃ逃げと罵られますけど、それに対し怒ったり苦しんだりする必要はない。場に拘る理由もなくなる。そんなかんじですね。
「好きだったから、離れた」
ここまでは、SNSやネット上の「場」を広く見た話。じゃあ、自分が実際にいた創作掲示板ではどうだったか。
自分は、B-REVIEWという投稿掲示板を4年かな、5期の終わりから使っていたんだけど。
そもそもあの場は、きちんとした礼節を持って切磋琢磨する場所として、ルールにもそう書かれていたし、少なくともわたしはそういう場だと思っていた。けれど誹謗中傷や謎の正義感を振りかざされるようになって、合わないなと思ったし、学べるようなことも、語れるような人もいなくなったから、やめたわけでね。 いつの間にかルールも変わってたし……
だから、創始者から見れば、もう打ち切って当然の場所になっていたんだと思う。末期は、場を収めるべき管理者が現れないような状況で、声のでかい人たちが、自分の正義で動いていたような状態だったから。しょうがないんだよね。
こうやって、閉鎖三か月前に、あの場を離れたわけだけど。いまだに、アーカイブ化されるのかなとか、何かしら進展するのかなとか、観察しているから、結局好きだったんですよね、あの場が。だから、ビーレビについてみなさん色々書かれていて、全体が悪かったみたいに見えるのかもしれないけど、わたしの中ではそうじゃない。好きだったからこそ、離れられた、というだけなんだと思う。
で、場を離れてみて、結局自分は何を求めていたのかと考えると、話は自分の創作の仕方に戻ってくる。
ことに、自分の楽しませ方を知っていれば、他者に頼る必要はない。自分を切り開いていければ、他者に期待することもない。自分の中で完結すること。他者からいただく評価や価値は、ありがたいけれど、それとこれとは別なんだと、いま詩誌や公募にチャレンジしてみて納得している感じです。
世の中って、普通に影響を受けて行動を決めていくものだけど、ことネット上の文面になると、ただ「こう思った」というだけの思考が、反論や攻撃に見えてしまうことがある。あるいは、そう見えてしまうのではないか、という懸念が先に立つ。そこがまず、ややこしい。
わたしとしては、荒らすつもりなんてない。けれど、自分の視座自体がたぶん突飛なんだろうとも思う。一般的な枠組みからは逸脱していて、理解しづらいものなんだろう。だから、その違いが苦痛にもなるし、批判したくもなるんだと思う。そういう反応が立ち上がるのは、ある意味では当たり前なんだろうね。でも、それって結局、相手を見ていないということでもある。
今って、一見解がそのまま主張として力を持ってしまう時代でしょう。何の因果か偶然か、自制が効かなくなる。簡単に、楽に、気持ちよくなれてしまう。そこに対する恐怖も薄れている気がする。
それぞれにテリトリーがある。でも、それはわざわざ侵す必要がないんですよね。あんたの正義は、わたしの正義じゃない。ただ、本当に常識外れた人もいるし、そういう人ほど声が大きい。そうやって間違った「当たり前」が作られていく。だからこそ、自分の身の丈とか、わきまえることは大事なんだと思う。
その逆に、どこか外れた人に対し許容できる人ではなく、逸脱を許容できない人が勝手に枠組みをこしらえて、それに当てはまらないからと騒いでいる。そういうことも、あるよなとも思うし。
ぶっちゃけ、世の中って誤読ばかりでね。でも、正解に擦り寄せる必要なんてない。もちろん道徳的なものは前提にあるけど、語り合ったり考えることが身になるだけ、方向が決まっていくんだと思う。ただネット上を見ていると、簡単な共感のほうが楽しいらしいなとは思う。まあ、軽いものでいい、楽しむことが大事、それぞれだからさ。
わたしの中では、こういうのは悪口じゃない。ただ、そう思っただけ。いいも悪いもない。言葉足らずだし汚いから、こうして思考整理して表に出せるように整形したりするけど、どんなに気を使っても、難癖みたいなものは見える人には見えるし、勝手に見えてしまうこともある。だから、わたしは合わないなと思ったら接触したくない。距離を取るだけなんだ。嫌いたくないから。
みんな違ってみんないい、とはまったく思わない。けれど、悪意を向けられて傷まない人種もいないだろう。ことネット上では、さまざまな考えや思いが、出会うことなく表立って主張しているように見えて、刺さってしまう。実際、悪意を持って牙を向くのは、匿名に笠を着た承認欲求モンスター、被害妄想の寂しがり屋さんだったりするんでしょうね。近づかないに越したことはない。
群れの中には、その中での自分の場があって、生きていることを確認する人もいる。それだけの話なんだろう。でも、わたしはそうじゃない。場の生存競争にも、勝ち負けにも、違いを排除する傾向にも、寄る必要がない。
そもそも、他者とバトっていいものが書けるとは思わない。たしかに自分の考えとは違う視座が立ち上がることはある。でも、その場限りなら、結局は「わかり合って、影響されて、よかったね」と気持ちよく認めてもらえるだけじゃないかとも思う。
実際、創作者としてある程度自分を持ってしまうと、そういう群れにいること自体が窮屈になるし、群れからもハブられたり、いじられたりするでしょう。それって何かを得るというより、ただの時間つぶしになってしまう。いい影響も受けないし、成長も止まるし、自分もつまらないし、ストレスも溜まる。だったら自然と抜けるのが当たり前なんだ。
だから、場が面白ければ見る。場が使いやすければ使う。ただそれだけだよ。
「わたしはそういう距離を取る」
自分の中から出てくるものなんて、しょぼい。だから、そんな自分に満足したくないんですよね。だからこそ、すごく自分のことも、まわりのことも考える。ただ、接触しなくてもいくらでも考えられるからね。それはたしかに一般的な正解にはたどり着かないかもしれないけど。まあ、本ってやつは静かだから、他者の見解をいくらでも咀嚼できるもので。役に立ってないかもしれないけどね。
何かのためにやってないので。ほしいな、いいな、たのしいから。これはどうだろうって、立ち止まったり振り返ったりしながら、楽しめるように模索していくだけ。
とにかく、場の方向や雰囲気ってやつを嗅ぎ取れずに逸脱する人を、どうにかすることは難しい。場が変わるか、相手が消えるか、自分が消えるか。ただそれだけのことだから、そんなにこだわることでもない。そう思います。
群れにいる人は、ひとりでは寂しくて、自分が不安な人だけだよ、とまでは言い切れないけれど、そういう不安をどうにかするために、大きな声を上げたり、正論として掲げてみたりする人はいる。あるいは、声も上げられずに震えている人もいる。そういう人たちからすれば、大きな声も、一つの意見も、一つの解釈も、信じる価値があるものになる。そうやって仲間がいれば、自分が正当化され、自分がいてもいい場になっていく。コミュニティって、そうやって漠然と作られていくんだろうな。
まあこの投稿サイトのように、好きなものを好きな形にして、それを咎めるものはなく、諌めることもなく、といったかたちが自然と行われるように、一つのコミュニティーとして場を運営し管理していただけることをありがたく感じています
さてどれもこれも、きっと勝手な偏見で塗れていて、わたしの勝手な見解だけど。
ここから先は、さらに創作の場、とくに詩のまわりの文化の話になる。
今の詩書きって、ネット上で承認欲求を満たそうとしている人たちより、もっと真面目に創作物を見てほしい人のほうが目立っている気がする。わたしがそういう場所にいるからなのかな。気兼ねなく言葉をおいておくことができる場所としては、今はnoteが一番盛んな気がします。
Twitter上であれこれ交流としてお題やタグなんかが盛んだった時代があって。詩人の本懐 創造百科 アトリエ部 詩コン もっともっとありましたけど。毎日書いていた時期が懐かしいですが。今そういったものはあまり見かけないだけなのかなー
どこもガン見しているわけではないからどうなんでしょうね
じゃあ詩壇はというと、社交的な部分、若くて、詩人になりたいと声を上げていて、謙虚で素直で、詩人に敬意を持って積極的に行動する人であれば、意欲が実績を生むような、自然と詩人と名乗れるようになるような。そういった職人気質、年功序列みたいなものがあるのかなと、思って見ています。 勝手な偏見ですけど
それがいいとか悪いとかは、あまり考えない。それぞれ、そういう文化なのかな、でしかない。自分はきっとどこも馴染めないなと思うだけなので。そもそも自分で切り開いていくか、単に運みたいなものか、偶然も必然も、どう受け取るかは自分次第みたいなところがあるからね。まあ結果はまた別ですけど
思い出補正っていうか、今の自分が好きだから、振り返ればネット詩がハチャメチャで一番楽しかったかなとは思います。ぶっちゃけ。でもそれは、群れが心地よかったわけではなくて、たくさんの人が集まり、創作物を読み、切磋琢磨する空間が心地よかっただけで。声がでかいやつが正義を掲げ、たくさんの人が去っていって、それでもうつまらないなと思って、わたしは場を引いたわけで。
今は自分でこうして考えることができるようになったから。場にこだわらず、さほど交流も求めていないんだなともわかっていますけど。この先もどうなるかわからない。わからないからおもしろい。考えることに価値がある。そんな気がしています。
水脈の往還―26歳の遥
ドアが閉まると、空気がひとつ薄くなる。押し込まれるようにして座席の端に収まり、遥は小さく息を吸った。吸った分だけ、どこかに余白ができると思っていたのに、胸の奥でつかえて、そのまま細くほどけていく。
両隣の体温が近い。肩は下げる場所を失って、わずかに浮いている。首の後ろに、見えない糸がかかっているみたいに、前にも後ろにも寄れない。腹は、何かを守るように薄く引き込まれていて、呼吸は短く区切られる。
急ぐ理由は、もうない。会議も、返信も、終わっている。それでも体だけが、まだ少し急いでいる。誰にも急かされていないのに、どこかが先へ行こうとする。その残りが、うまく抜けない。
ガタン、ゴトン。
レールの継ぎ目を越えるたび、座面がわずかに震える。背もたれが、遅れて応える。遥はそれを聞こうとするのをやめて、ただ受ける。音ではなく、重さの移動として、体の内側に通す。
ガタン。 ゴトン。
くすみのさくら色をしたタッセルローファー。けれども今は、靴底から上がってくる細い振動すら持て余していた。骨盤に触れる。触れたところで止まらず、形を変えて、上へ抜けていく。背中にあたる布地が、ほんの少しだけ押し返してくる。その往復を、追わない。
ドクン。
自分の鼓動が、ひとつ遅れて返る。レールの刻みと、胸の内側の拍が、別々に続いている。合わせようとはしないまま、二つの線が並ぶ。
ドクン、ガタン。 ドクン、ゴトン。
合いそうで、合わない。たまに先に来て、すぐ遅れる。どちらが先なのか、決まらないまま、短い一致がほどけていく。そのたびに、胸の奥で小さな応答が起きる。反響でもない、触れて離れるだけの、かすかなやり取り。
遥は、思い出す。水のある場所ではなく、水が通っている場所のことを。
静かな面の下で、見えない流れが続いている。どこから来て、どこへ行くのかは分からない。ただ、途切れずにあるもの。押し出すでも、引き込むでもなく、同じ形を保ちながら、位置だけが移っていく。
座面の微かな震えが、骨盤をかすめる。そこから上がってきたものが、胸のあたりで少し広がり、また細くなる。背中に返り、肩を通らずに、脇を抜ける。流れは途切れないが、どこにも溜まらない。
外の揺れと、内側の動きが、干渉せずに並ぶ。重なったと思うと離れ、離れたと思うと、また近づく。合わせていないのに、外れきらない。そのあいだで、呼吸が少しだけ深くなる。
吸う。 留まる。 吐く。
どこかで区切られていたはずの呼吸が、ひとつの弧になる。胸に残っていた細い速さが、形を変えてほどける。ほどけたものは外に出ず、そのまま内側に残って、別の流れに混ざる。
やがて、行き先がなくなる。
外の振動は続いている。人の気配も、密度も、変わらない。肩の行き場のなさも、そのままだ。それでも、内側にひとつ、基準のようなものができる。
胸の奥でも、腹のあたりでもない、どこかの深さに、水位が定まる。増えているわけでも、減っているわけでもない。触れれば分かる、というほどはっきりしていないのに、確かにそこにある高さ。
そこから外のものを測ると、圧迫は圧迫のまま、ただの重さになる。雑音は雑音のまま、遠くに置かれる。何かを押し返しているわけではない。ただ、入ってこない。
ガタン、ゴトン。
揺れは同じように続く。内側の流れも、同じ形で巡る。どちらも変えずに、そのまま並んでいる。
ブレーキの音が混ざり、速度が落ちる。体が前へ少し傾き、すぐに戻った。人の気配が、降りる方向へわずかに動く。
体の中の、水位が、ほんのひととき、揺れた。
「ん、」
小さく、溢れた気がして、また溜まる。
遥は立ち上がる。肩は相変わらず近く、足元も狭い。つり革を掴み、重さを預ける。
ホームに降り、足の裏に残る振動はすぐに消える。代わりに、ローファーの房が揺れた。視線を戻した遥は、幾らか減った人の流れに合わせ歩き出す。改札へ向かう列の中で、歩幅が自然に決まる。
同じようには、もう起きないかもしれない。思い出せばいい、というほど単純でもない。それでも、どこかでまた、辿り直せる気がしていた。
外がどうであっても、内なる水路は、いつでも開けられる。その確信の浮き子に、遥はそっと指で触れ、改札を通り抜けた。
#じんたま 14 「蔦」の力学
B-REVIEWの8期運営が成立する前後は、様々な人物とのやり取りもあった。
元々はつつみさんが6期運営を引き継ぐという話があって、それとは別に私が、6期運営がスペースでの目も当てられない指弾を受けている場面を見て、勝手に次期運営についてのスレッドを上げていた。そのスレッドにつつみさんが合流して運営との話を進めていたのだが、つつみさんがそのやり取りの中で体調を崩してしまっていた。
6期運営と私自身もつつみさんの身を案じ、それから暫くは私が主軸として6期運営とやり取りすることになった。つつみさんのことは心配であったが、つつみさんの意思もあって、何としてもB-REVIEWの今後の安定化のために動こうとの決意を改めて固めていた。しかし6期運営の選択肢は、B-REVIEWの存続に対して難しい部分を提示していた。
結果的に、とにかく現運営は期限を以て退任するという旨であった。その期間に運営を引き継がない場合は、結果的にB-REVIEWの機能を停止する選択肢を予感させるものだった。
私もスレッドを立てたものの、B-REVIEWに知り合いというものは居なかった。
文学極道時代の知り合いは、その当時、殆ど掲示板には現れていなくて、居たとしても私にとってはどこまでもテキストを通じての面識で、それ以外の繋がりは無かった。
私は掲示板上でしか次期運営の募集をかける以外に選択肢は無く、ここから1ヶ月程は正念場だなと感じていた。私にも生活があるので、夜の22時以降から4時間程の時間をB-REVIEWの批評と次期運営の募集スレッドの更新に充てようとしていた。
その時点で三浦氏はよく分からない行動を起こしていた。B-REVIEWを爆破すると触れ回っていたかと思えば、存続の道を探しているとのツイートもしていた。
私はその時点では三浦氏のことも、文学極道時代のテキストのやり取りしか繋がりはなかった。テキストの繋がりといっても、私が三浦氏に対してキツめの批評を行っていただけに過ぎない。
知り合いは誰もいない。私は次期運営募集スレッドに何らかの反応をするアカウント全てに募集をかけると宣言した。
今考えると、完全に逸脱した行為だと感じる。文章に起こしてみると、「何をしてるの部外者が」という感想だ。
正直、三浦氏も私というイレギュラーの存在に困惑していたのかもしれない。三浦氏には三浦氏なりの落とし所を考えていた筈だった。三浦氏とは一切繋がってなかったので本当の動きはわからないが、B-REVIEWの見える部分でも数ヶ月前からちょくちょく次期運営の呼びかけはやっていた気がする。
しかし様々な要因が絡んで事態は急を要していた。私も何故か期限を切っていた。
結果的にスレッドは5000前後の閲覧数を記録していたと思う。
私は独自の条件として11人制を上げていた。これは多人数で事にあたる事によって1人の作業量を軽減する狙いがあったが、この案は頗る不評であった。そもそも6期運営は次期運営には参加しないと宣言していたので、私は短期間の間にあと10人を集めなければならない事なっていた。「いやいや」と、悪意でなく普通に心配する発言が相次いだ。しかし私もその時は既に掛かり気味になっていたので、少人数の運営の負担を嫌って頑なにこの条件を連呼していた。
B-REVIEWのメディアそのものでもある投稿掲示板での次期運営の募集スレッド更新だったので、私なりにB-REVIEWに敬意を示す意味でも、最初に投稿作品に批評をつけることを自分自身に課していた。使える時間に対して、その半分は批評に費やすことを決めていた。よくわからない気持ちにはなっていた。どうなるのかもよくわからなかった。
色んなやり取りを経ながら、最初に田中教平さんが賛同してくれて立候補してくれたと記憶している。ありがたいと思った記憶がある。いすきさんはスレッドにはちょくちょく書き込みはあったが、明言は避けていた。まぁその心情ももちろんわかる、これは完全に面倒なことだと誰もが理解していた。
私は文学極道時代に知っている人物の名前を思いつく限り書き込んでいた。B-REVIEWのことは全然分からない。B-REVIEWでもその頃はぽぽ批評しかしてなくて、人間関係を構築する気もなかったので、やはり知り合いは誰もいない。SNSも詩関連には連携していないので知り合いもいない。文学極道時代の自分が尊敬する人物の名前をスレッドに書き続けていた。
結局、根負けする感じでゼンメツさんがスレッドに現れて立候補してくれた。彼はその頃はもうB-REVIEWでは活動していなかった。少なくとも自分がB-REVIEWに来てからはゼンメツさんが新たに作品を投稿したことはなかった。入れ違いのようになっていたと記憶している。
ゼンメツ氏とも勿論テキスト上での付き合いしかなかったが、彼は私に旧知の仲であるかのように振る舞ってくれた。文学極道時代はゼンメツ氏の作品には必ず批評を入れていたし、そのことを彼も覚えていてくれたのだと思う。結果的にゼンメツさんがシリュウさんと、もう1人を連れてきてくれた。その2人もその当時はもうB-REVIEWでは活動していなかった。私は現在活動中の投稿者ではない人物を呼び込んだことになる。
そのことがどのような結果を産むことになったかは、その当時は予測はできなかった。只々ありがたかった記憶しかない。
私を入れて5名集まったところで、三浦氏が正式に参戦してくれた気がする。三浦氏のお眼鏡にかなった、私の中ではそんな認識があった。彼が行動で示す人物だとは噂では知っていた。私の覚悟を見ていたのだろう。
三浦氏が正式に参戦してくれてからは、全てが速度を上げて進んでいった。三浦氏を入れた6名で次期運営をやるということを宣言し、予定より一週間早く次期運営の移行作業を進めることを確認して、その期限ギリギリにいすき氏がシステム担当として参戦を表明してくれた。そのギリギリの決断はとても嬉しく思った記憶がある。
私の認識では7名が次期運営を担うという認識があったが、結局は三浦氏は7期を1人で担当し、形式的な移行作業を終えてからすぐに8期運営を6名で引き継いで……ということになった。私の当初の案である11人制は勿論念頭にあったが、そのことに固執するあまり運営の移行作業全体の遅延を招くことは、その時点では意味がないことは明白だった。11人制に関しては、8期運営が落ち着き次第、必要に応じて新たに募集する旨も了解してもらっていた。
その後、私は黒髪氏ともう1人、高校生の投稿者を招き入れ、その時点で8名。その後、他のメンバーもそれぞれが独自の権限で招き、結果、11人制は叶うことになった。
その頃にはつつみさんも掲示板上に姿を見せていた気がする。私がつつみさんに対して、運営以外でも例えば「この一連の騒動の記録者として何かそんな役割をしてもらえれば」と発言した記憶がある。その書き込みに対して何故かB-REVIEWに現れた渡辺八畳氏が「いや、その役目はむしろ吸収さんがやるべきだ。人に言うのではなくて貴方自身がやってみれば」みたいなことを言われた気がする。
期せずして、そのようなことになっていることに驚きは隠せない。その時は適当に受け流していたが、運命の歯車はゆっくりと回転を始めていたのかもしれない。
私がB-REVIEWについて語れることは少ない。前回も書いたが、参加した時には6期運営の時期であり、B-REVIEWが開設されてからその歴史の大半が過ぎていた。私はその最後の数年を私なりに過ごしたに過ぎない。8期運営は結成直後に最高点を記録して、そこから凋落の一途を辿ることになる。
私は結局1ヶ月も経たずに運営を降りるというか、逃亡することになる。内部から運営を支えることが困難だとの判断だったが、逃亡と思われても仕方ない。言い訳だが私は私なりの正義を貫きたかった。
花緒氏はその頃のB-REVIEWでは頗る評判が悪かった。私には花緒氏の記憶は文学極道時代のものしかない。クレバーでそれなりに胆力のある人物だと記憶していた。しかし8期時代の花緒氏はそう受け止められてはいなかった。
私は正直言って花緒氏と対話したかった。文学極道時代の花緒氏の作品には恐らく評は入れていない。彼は所謂スタイルのある作品を書いていた。スタイルが保たれている作品には批評との相性は良くないと当時の私は認識していた。スタイルそのものを批評することは、ある程度遡っての知識が必要になる。彼なりの理論武装だったのかもしれないが、批評の通り辛さを考え批評をしなかった記憶がある。
それでも彼は文学極道では新参者の1人だった人物だ。三浦氏に関してもそうだ。それが今では共にネット詩の重鎮となっている。
昨日のクヮン・アイ・ユウさんの放送(5月5日のもの)も、前日の放送の余韻を多く残していた。最終的に花緒氏の登場を期待していた部分が見受けられた。CWSでも動きはあった。私の投稿する掌編『#じんたま』に花緒氏からコメントがあった。花緒氏名義でコメントをもらったのは随分久しぶりな気がする。彼なりに思うことがあるのだろう。機運、タイミングみたいなものも勿論ある。CWSは名実ともに彼の肩にかかっている、その重圧もあるだろう。三浦氏もそのことについての配慮は勿論ある。
細々としたことを語ればアレだが、配信「#じんたま」とCWSは奇妙な関係性にある。そういう意味での問題に、私の掌編『#じんたま』が蔓のように絡まっているのも理解できる。しかし私は私なりに掌編『#じんたま』を紡ぐだけだ。
結果的にクヮンさんやつつみさん、その他の関わる人に対してどのような影響を及ぼすか予測ができない。しかし私は私なりに真っ直ぐ行くしかないと思っている。
何かが動き出していることは勿論わかっている。だが前を向いて歩くしかない、それだけだと思っている。
2023年末法隆寺吟行より
求ればみな凍てたまふ夢殿よ
https://i.postimg.cc/g2djHdJh/rectangle-large-type-2-f4b2dc93ef1e24c31d7bb2512e6fe8e0.jpg
※法隆寺前の食堂の、斑鳩グルメ竜田揚げ定食。
主張強め日記 5月5日 迷惑ユーザーについて再考など
文芸投稿サイトにおいて迷惑行為との向き合い方がコミュニティの性質を決定する、とこれまで私は主張してきた。しかしCWSにおいては、その図式が静かに終わって久しいのかもしれない。今でも迷惑行為をするユーザーがいないわけではないが、さくっとアク禁にしていることもあってか、ほとんどの投稿者は無関心でいられている。荒らしと荒らし対応のせめぎ合い、そこから生まれるカルチャーに、大多数の投稿者はもはや関与しないし、関心もないだろう。それはそれで素晴らしいことだ。私としても、文芸投稿サイトの負の側面を俎上に載せながら自分の見解を述べるこのアプローチ自体を、そろそろ手放さなければいけないとも感じている。
ただ、一点だけ観察を記しておきたい。迷惑ユーザーが主体となって他人の場を間借りし、「活発に意見交換」しているらしい場がいくつかある。そうした場では、例外なく新しい人が流入しない。盛り上がっていると感じているご本人たちに水を差す気はないが、投稿サイトを運営するものとしては、これが答えだと認識している。迷惑ユーザーと積極的に共存したいと思っている人間が極めて少ないという現実は、そうした場が静かに証明している。
迷惑ユーザーには共通するパターンがある。やらかした後に謝罪ができず、攻撃に転じるというものだ。親切にされるともっと甘やかしてくれと要求し、やらかした後には誹謗中傷を始める。親切を受けたら返す、迷惑をかけたら謝る、そういうごく初歩的な人間としてのプロトコルが機能しなければ、社会的な孤立へ向かうほかない。自覚はないのだろうが、まったく同じパターンを飽きるほど見てきた。
CWSではアク禁にするが、謝罪や反省があれば解く。運営への悪口を撒き散らしながら通報や開示請求をちらつかせ、寛容さを求めることの矛盾に、本人たちは気づかないのかもしれない。ルールを破ってしまうのは人間らしさの表れだから許すべきだ、という考え自体には賛同したい。しかし迷惑をかけた相手への謝罪を求めることもまた、人間的な発想だ。謝罪する気のない人間を無理に許して場を与えることは人間社会のあり方に適っていないし、悪い結果しか生まないのはもう十分見てきた。
CWSにはマナーガイドラインに類するルールブックをあえて作っていない。ルールに基づくガバナンスから先に進むつもりだからだ。他サイトで散々人を追い出すことに加担した人間が誹謗中傷を続けた後にしれっと投稿していればブロックする。以前から誹謗を書き散らかした人間が運営アカウントに悪意を丸出しにした質問攻めをしかけてくればブロックする。いずれもルールに照らした判断というよりは、攻撃をベースに近づく人間を受け入れる必要はないという、人間としての感覚に基づいている。逆に謝罪や釈明があれば受け入れる。当たり前の人間としての対応をやりたい、ということだ。
私個人はバランス感覚のある人間ではなく、創作をやる人間が概ねそうであるように偏りがある。しかしAIが隆盛を極める時代だからこそ、当たり前の人間としての反応を重んじていきたいと感じている。そして私たちはといえば、荒らし対応とは違う角度からコミュニティを語る切り口を、そろそろ本気で模索しなければいけない。
ありきたりな日々に生きる
ありきたりな言葉で詩を書く
あちらこちらで散見されるほど
ありきたりな言葉で
きらりと光る詩を書きたい
目に耳に、頭にそして心に
すっと馴染むありきたりな言葉こそが
ありきたりな日々に生きる私を支えるように
ありきたりな日々に生きる人々の
心を照らすと信じているから
♥らぶりぃ♥どんきぃ♥ぱらのいあ♥
さでぃすてぃっくおまんこ
地上はもう終わりです。
痴情に縺れたので。
犬以外は早く死ね。
(こんなんばっかっしょ)
(みーとぅー)
ぺれあすとめりざんど。 ししりえんぬ。
あたしの凡てを千切って精神からそれを滴らせたい。赤と青の混合物。あめじすとの切っ先。それを。
それを、それをそれをそれを。
朽ちていく巨大なものは、微生物達によって分解される。顕微鏡を覗いた時、その蠢く小さなもの達は、私達の顔をして居た?双眼鏡を覗き見える朽ちていく巨大なもの、その顔は私達の顔をして居た?ねぇ、だーりん、すきぞふれにっく・ぱらのいあから私を救い出してよ、体を繋ぎ止めて、舌とちんこを侵入させて、その柔らかな杭で、私を正気という檻に閉じ込めて欲しい。ちじょうに繋いで欲しい。永遠に。
流出する魂が、今、蛍になって、私の舌にのる!
爆発candy部隊が、鋏王子の城を取り囲む!
なぁんて。
凡ては
あたしの
ぱらのいあに過ぎ無いよ、だーりん
道は途絶え森に続いて居た
朽ちて腐った木の、その脇に、まだ弱々しく瑞々しい蘖があって。
から類の混群が、忙しないお喋りを木立ちの合間に響かせながら、頭上を飛び回る
雨に濡れた木々と土の匂い
熊が残した爪痕が巨大な赤松に刻まれて居る
気配を殺す鹿達がふいに腐った落ち葉の上を滑るように走ってく
白樺の肌は君のそれに似てる
何処かで野犬か、狼か。遠吠えが聴こえた
行かなくちゃ
あたしは森で朽ちて果てて腐った死体になるだろう
微生物達があたしの腐乱死体でぱーてぃーするだろう
狸や狐はまだ食べられる肉や骨を一片ずつくすねて行くだろう、巣穴で待つ彼らの幼獣達のために
やがて、土の上に散乱した、僅かな骨だけがあたしになる
黴びた肋骨は小さなきのこや苔に覆われて
やがて私は土になるだろう
森の中で
あなたの声を聴いた
私はあなたの声を聴いた
正確にはその歌を聴いた
その歌にはあなたが受けた凡ての傷と愛があった
耳を澄ませて
口を噤み
目を光らせて
1匹の犬になる
私達は犬に過ぎ無いと言っても過言では無い
透明な犬が森を駆けていく
巨大なものが分解される時、私達は蛆虫で
腐敗した肉の甘さをその口に知る
透明な犬は駆ける
どんな物語にも汚され無い朝を
どんな物語にも汚され無い夜を
追跡する
その鼻で暴き出す
白日に暴露される
その未来を
幽霊の犬よ
精神の犬よ
精霊の犬よ
未来を
私は光と呼んだのか?
そんなことより
だぁりん、早く抱いて。
さでぃすてぃっくおまんこから産み落とされる赤子はみんな鳴いて居る泣いて居る
優しい舌が額に触れる
森の中には私のように破壊された遺跡があった けれど美しくさえあった その光景は君の左手の骨に似ていると私は思った
遺跡の中の、黒く穢れ、錆つき、割れた鏡に反射する光は、分かたれた私達で、
あたしは、
自由に生きたかったし、
自由に生きるしか無かったの
そうでしょ♥
早く、だぁりん。
私達、せっくすしよ♥
この土塊の上で♥
♥らぶりぃ♥どんきぃ♥ぱらのいあ♥
たぶん
たぶん
玄関を開けると
外側があるとは
かぎらないなあ
春と
春へと
収斂すると
情動量に比例して
避けがたい
クレパス
祭りの
準備
「たぶん
詩人を一人
虐殺するのに
コストはいらないさあ」※
裂け目から発芽する奴
と発芽しない奴の差
花を咲かせるもの
花を摘むものの
耐え難き差を
鞣していく
存在の
存在による
存在の存続
引用を繰り返す
書き言葉話し言葉
内側へ
春の内側へ
収縮と再生の連鎖
夥しい数の語彙
クリシェの使い方に
慣れた山師や山伏
辛夷の花がちり
潤いをもたらす頃
詩人たちの死を
詩はしたたかに
確からしくふるまう
蜥蜴
※は藤井貞和『全部引用、たぶん』より引用
スーパーノヴァ
「アイドルの快楽及びその憂鬱」という作品は排泄をしない という解説文があり、
それはその聖性を物語るためのおおげさな演出のようなものだろうと思っていた
たしかに、
他の絵画はもちろん排泄もするしセックスもするし敵愾心はあるし家に帰るのだが、
この作品は浮世を離れた作りをしているので
太陽なのではないか?
と地質学、天文学の分野で今、
波紋をよんでいる
そして
それにふさわしい人たちが
この周辺を惑星さながら公転しようと躍起になっている
つきつめていくと究極の無駄のない宗教的な勤め、というのは太陽系の惑星になる事なのだろうか と
オオウチュウドクギツネに
化かされた気分になりそうなんだぜ
と、ジョニーがまた盗んだアルカディア号で
走り出しそうになってしまうのだが、
いかんせん 惑星になる という事は難しく、 公転する、自転する という事は
惑星運動であるから完全な無酸素運動となる
みな、その無茶さの加減から途中で
逆ギレして「惑星なわけないだろ」
とか言って家に帰っていく
もしくは無酸素運動に耐え、殉教する
破裂してデブリになった殉教者たち、
もしくは逃げる前に酸素不足になったものたちの涅槃処
森羅万象が結局、茶店のようなものならば
砂糖だらけの地球を
メロンソーダに浮かべよう
だいじょうぶさ
プロジェクト 「しあわせになろうよ。」
お金を払おうが祓うまいが、
どちらでもこの宇宙では好きにすればいい
とどのつまりなんて、
この画布に
ただ、あなただけがおいしそうに
たべられる餅を書けばいいだけの
話ではないか。
茶の味
腕まくりをしたのは
蚊に血を吸わせようとしたわけでも
君を抱き寄せるためでもなく
一週間ぶりの欲望をカスタマイズした
ど根性ラーメンを食べるためだった
僕の人生の最後は
小豆島あたりで
根性庵というのをあんで
頑固に暮らそうと思っている
もちろん、ひとりで。
君がどうしてもというのなら
隣にど根性庵というのを
建ててもいいよ
そして、
君が頑固に暮らすかどうかは
君に任せるのだ。
境界
はい止まって待ってそこで止まって
それ以上はダメです
土足厳禁領土侵犯
親しき仲にも礼儀あり
というのは過去の話で
まず親しくない前提から始めなければならない
何事も超えてはならぬ一線がある
――境界線だ――
善意の顔して踏み越えない
正義の笠着て踏み越えない
理由をつけたところで侵犯は侵犯
触れるな超えるな狼煙だ
専守防衛戦争反対
おい聞いているのか
そこで止まれ。
寝覚めの悪い日曜日、午前6時
窓を開けると
外はさめざめと
雨降り
灰色の空と 灰色の空気が
僕の部屋の中に充満していく
僕は なんだかまた
例の不安の波が押し寄せてきているらしく
なんだかまた 泣きべそかきそうになって
たまらなくなって目をそらす
視線の先
昨夜 食べ残したままの
ブルーベリージャムが染みこんだトーストと
飲みかけたままのオレンジジュースが
素っ気なくつぶやく
やれやれ またそうやって
いつものように
そんな気分に耽っているの と
部屋干しされたまんま 乾かない洗濯物と
投げつけるように書いたいくつもの
詩にもならない感情が
哀れむようにほくそ笑む
やれやれ またそうやって
いつものように
自堕落に安心してしまうの と
耳鳴りのように
繰り返し繰り返し
何度も何回も云ってくるので
またもや僕は たまらなくなって
いっそ なにもかも
自分のせいにでもしてしまわないと
とても今日一日 やり過ごせそうもなく
思いついた先
ヨワムシ ケムシ ノ ホトトギス
イツマデ タッテモ コエ モ ダセナイ
ナカナカ ナカナイ カラス ガ ナイタ
ナゼナゼ ナクノ ト キキカエス
サミシイ ミシン ヲ カタカタ ナラシ
ツギハギ ダラケ ノ ココロ ツクロウ
コドク ドクドク コキュウ ガ ナッテ
ドコニモ イケナイ タダ ヒトリボッチ
ゴロゴロ 語呂を弄くりまわす
何もしないでいるより少しは
気が紛れるような気がして
こんな読みづらい片仮名だらけの文字に
意味なんてないけど
意味 ナド 無インダ 最初 カラ
無意味 モ 意味 モ 意味 ノ ウチ
・・・・・・なーんちゃって
無意味ついでに 呟いてみる
ド ウ カ ボ ク ヲ ユ ル サ ナ イ デ
寝醒めの悪い日曜日、午前6時
外は
さめざめと
雨降り
さめざめと
雨降り
☆★*〜*★☆*〜*☆★*〜*★☆
さめざめ、は、泣く、を表現するのに用いるコトバで
使い方としては間違いなのかもですが
降り止まぬ雨が、なんだか泣いているように思えたので
このような表現を用いました
日常
どろどろと身体が沈みます
吐いた息は床に転がります
それを踏みつけて私は歩きます
足がもつれて地面は私を呼びつけます
それを享受するしかありません
せめて、せめて
抵抗します
四肢は縫い付けられたように丸くなります
宛先はなく私は謝るのです
窓の月
いつ何の待ち時間だっただろうか
何気なく広げた雑誌に描かれていた月が
眠れぬ夜の瞼の裏に浮かび昇る
何を照らすでもなく沈まずに薄れ消えてゆく
瞼に昇る窓の月を観て欲しくてさ
窓の月は窮屈そうで
私の目を盗んでは
窓枠から外れようとしている
眠れぬ夜は
逃げる月を逃がさぬよう
漫ろに円をえがく月を称え
詩を綴り続けようか
でも皐月の夜は短すぎて
早朝の空に白け顔の月を
引き留める引力は私には無く
睡魔の熱で溶けゆく
飴細工の思考の中で
薄れゆく月に手を振るばかり
などと紙上に昇る窓の月を文字にするから
読んだなら窮屈そうな月をどうか
感性の海へと解放してはくれないか
薄れ消えゆく窓の月に手を振るだけの私に代わってさ
しきゅう。
私の具合は大抵悪いです。
何故なら子宮があるからです。
だから、わたしは、遠慮せず
家でも、職場でも、知人にも、ネットにすらも
「生理痛がたまらない」と書いたりする。
そしたら大半の人は顔を歪ませ
気の毒がるか、鬱陶しそうか
全くわからないなあと言ったりする。
反応などあまり関係なく
痛いから痛いし
具合が悪いから悪いのです。
わたしがオンナで子宮があるからです。
紛れもないかえようもない事実で
現実で真実なのですが
いつからか「子宮」や「性別」が
口に出すことも書き表わすことすらも
歓迎されなくなって
だから余計にわたしのぐあいも
持つ人は勿論持たない人も
どっちでも良い人ですら
それに振り回されていくように
なってしまったのです。
はっきりいう。
他は知りません。
私は大抵毎日具合が悪いです。
子宮があってオンナというもので
にんげんってやつだからなのかもしれませんが
まあまあまあ
いちお、「母」であり
「社会」というもの
「家族」というもの
意識して
なんとなく普段は口を噤んでいます。
偉いでしょう
しきゅうのためにふりまされながら
しきゅうのためにいきていくときめて
うんざりしながら
しきゅうをきょうも
よく蓄えた脂肪のうえからなでなでしてます
たぶん こんかいは いっしょう いっしょに
いなくてはならないので
(あくまですべてわたしのはなしで
ございます)
#じんたま 13 quiescence-inducing neurons; Q neurons
昨夜のクヮン・アイ・ユウさんのツイキャスは、当初「配信#じんたま」ではないはずだった。
最初は「時間が空いたから」といった説明だったと思う。私は彼の昼間の配信のアーカイブを聴いていたが、21時から急にXに告知が入り、そのままリアルタイムの配信に切り替わった。
前半は、三浦さんのYouTubeチャンネルで公開されているショート動画の話で盛り上がった。ユウさんの世代的には、かつての『ガチンコ・ファイトクラブ』を想起させる構成がツボに刺さっているようだった。確かに、私もリアルタイムで観ていた記憶があるが、先の展開を知りたいと思わせるあの作りは、当時かなりの衝撃だった。
その後、色々ありゼンメツさんが浮上したことで、配信は大きく転調する。内容はアーカイブを聴いていただければわかると思うが、結果的に4時間を使い切る長丁場となった。
今回の掌編の副題は最初「Missing Link」とするつもりだった。
そう感じたのは、三浦氏のYouTubeチャンネルで一つの過去放送を聴いたからだ。
それは9年前、三浦氏と花緒氏、そして百均氏がB-REVIEWの今後について語っているものだった。三人はとても幸せそうに未来を語っており、まだ彼らが運営に留まっていた時期のものだろう。その放送の中でも、三浦氏は頻繁にユウ氏の名前を出していた。
私はB-REVIEWの歴史を詳しく知らない。
関わり始めたのは運営が6期の頃だったが、その頃には既に多くの問題が発生していたように思う。放送の中で幸せそうに語っていた花緒氏も百均氏も、そこにはもう居なかった。
6期運営は投稿作品の削除問題を追及されており、新参の私にはそこまでの経緯が何もわからなかった。しかし「#じんたま」を書き進めるにあたって、その空白の期間を知らないことは致命的であると気づき始めている。当時の運営が2名だったことにも衝撃を受けたが、投稿者とのやり取りを見る限り、既にオーバーワークである事が見てとれた。
入りたての私に何ができるわけでもなく、私はただ文極時代の記憶を辿りながら、ゼンメツ氏の投稿に批評を入れようとしていた。しかし、作品の批評期間は既に過ぎており、それは叶わなかった。
仕方がなく、作品の体をなした「ゼンメツ氏への批評」という形の作品を投稿した。その時、私の中で何かのスイッチが切り替わった。止まっていた時間が、動き出した感覚があった。
文極時代、私は彼のすべての作品に評を入れていた。彼が創造大賞を取ったときは素直に嬉しかったし、私は彼のファンでもあった。CWSには、彼に捧げる作品も投稿している。
昨夜の配信の後、ゼンメツ氏は「ネット詩から消える」という旨の宣言を別所でしていた。私はそこで、彼を世に出せなかったことは詩界隈全体の喪失だとコメントした。
彼もまた、自分の中の時間軸が激しく切り替わっていたのかもしれない。最終的に、詩に関わった時間の少なさを呟いていたが、そこには確かに才能があったと思う。ただ、日々の生活を営むことが、彼の時間を切り刻み、ある部分を凍結させていたのではないだろうか。
ユウ氏が、放送に参加した私に労いの声をかけてくれたとき、「このことは書きます」と返した。
今、私自身の凍結していた部分が解けていく感覚がある。配信「#じんたま」に関わることで、多くの人の時間が切り替わり、動き出している。
今朝、奇妙な夢を見た。「#じんたま」が途轍もなく有名になり、ゲストにMrs. GREEN APPLEが出演している夢だ。
私は一視聴者としてその光景をモニターから眺めている感じ。
目覚めてこの文章を書いている今、この世界は本当によくわからないと感じる。
けれど、この瞬間そのものが既に「#じんたま」なのだと、私は思っている。
夜は何のためにあるか
夜があった
夜がいつも僕を追いかけては
そっと首筋をつつんで締め付けた
その度に思い浮かぶのは
記憶にもないこと
あるいは君がいなくなった日々の
その憧憬のための追悼
夜はそのためにあった
過日の香り―影追の遥
休日、駅前に隣接する百貨店で用事を済ませた遥は外に出て、少し驚いた。午前中の巻雲は厚い雲に消え、ひやりと湿った風が辺りを走り始めている。秋の入り口の、急な冷え込みだった。
本降りはまだ――ただ単にまだなだけなのは、ペトリコールが教えてくれていた。
バッグから傘を取り出す。生成りの風合いに、端へ蔓草が這うデザイン。日傘兼用の、遥のお気に入り。まだ広げずに手に持ったまま、古い木製の天蓋が続くアーケードへ入った。
裏通りへの路地が見えたとき、遥の足が少し遅くなった。
十年前、クラスメイトと初めて入った装身具と――肌着の専門店。
傘を広げ、路地へ折れる。雨の香りが強くなった。隣に、いないはずの影が並んで歩いていた。遥はそちらを見なかった。ただ、歩幅が自然に、二人分になっていた。
店は変わっていなかった。
ドアベルが鳴った。からん――からん、と二回。
奥でミシンをかけていたのは、あの頃大学の服飾科にいると言っていたお姉さんだった。手つきが、落ち着いた職人のそれになっていた。二言三言、昔よく来ていたことを話した。鈴蘭の刺繍がある、柔らかな風合いの揃いを、二つ求めた。
外に出ると、またドアベルが二回鳴った。
傘を差して歩く。傘に当たる雨の音が、二種類聞こえた。
小さな公園の東屋に、遥は座った。
左の方から、雨の匂いに重なって、シトラスの香りがした。
遥は前を向いたまま、動かなかった。香りが強くなる。唇と、胸に、冷えた手のひらの記憶が戻ってくる。
「ん、」
ふっと、吐息が絡みあい混じった気がした。
傘に当たる雨の音は、一つだけだった。
遥は包みを一つ、東屋のベンチに置いた。それから立ち上がり、傘を持ち直して、公園を出た。
ただ胸に手を当てて、何かを抱くように。
「正しさ100%」
あなたは正しい。
正しいけれども、
それで私を殺す気だ。
私はきっと、正しくはないけど
それを間違いというのだろうか。
疑問を持った頭を置いて、
口から出るのは謝罪の言葉。
私の全てが悪いのですか。
疑問は溢れど、口は重く。
正しい言葉に救われるけれど
正しい言葉で殺される。
善意で正義で、真っ当で。
それら全てに殺されて。
いつまで経っても正しくなれずに
いつでもどこでも刺されてる。
私の正しさ、いったいいつから?
いつからいなくなったのだっけ。
どこかの誰かの尺度で生きて、
どこかの誰かの引用してる。
それが正義で、正しさで。
あ、私の正しさ、首を吊ってる。
あなたは気にも留めないまま
優しくなんかなれやしない
チョコレートが世界で一番好きなのに
なかなか食べられなくなりました
それでこの世を憎むのは
まっとうなことだとおもうのに
うまく言えません
だから誰にも会えなくて
優しくなんかなれやしない
自分にすらチョコレートひとつ
買ってあげれないのに
悲しみは汚れでしかないといいきれば
誰よりも高級な白い布が纏えて
崇高な神様に出会える気がした
それでもさあ
わたしはやっぱり
チョコレートひとつがほしくって
それだけで世界を憎めるのです
Don't look back.
I cut my long hair—
you brushed it once
and said you liked it.
I’ll leave it behind,
even our memories.
I wish I could.
理科の思い出
かわるがわる あの日あの時
彼とわたしの 手が教室で
解剖した 気の毒な
蛙のように俎板の上 こんなふうに
金縛り ギロチン待つ日 いつか来ようとは
肝心要のところ 理科の時間では
カミサマ 何も 教えてはくれなかったのです ところで
彼はその後 どうしたことでしょう
考え深い 立派な 大人になっている のでしょうか それとも
完全なる ぶよぶよの 宦官にでもなっている のでしょうか それとも
蛙のように道の上 すてきな ワッペンにでもなっている のでしょうか
カカカカカと
呵々大笑するあれは ああ あの日あの時
彼とわたしの 少年が 破裂させ てしまった
蛙に ちがいありませんね きっと
風に吹かれゆく無名花
雪が解け 種が芽吹き
花が咲いては風に舞い
葉が茂っては風に揺れ
葉が枯れては風に落つ
雨に降られつ風受けつ
今日も明日も明後日も
幾時が過ぎても我々は
風に吹かれゆく無名花
【詩】本音
会いたい
って
毎回 ねだってくるのも
大概に してくんない?
だいたい こっちは
短大 休んで
大枚 はたいて
再会 しないと
なんない ってのに
わたしの事情を 知ってるのか
分からぬフリを しているのか
解読不能な君は 二歳児みたく
泣き喚きながら
愛してるから
大好きだから
さびしいから
って
浅い主張を 乱射する
君がわたしに 向け続ける
好意のウラに 装填された
するどく光る 実弾みたく
重くて強くて 真っ直ぐな
想いにいつか 撃ち抜かれたい
君はそういう タマだと願って
わたしの勘よ 当たれと祈って
会いたい
って
送り返して しまうんだよね
【詩】再会
待ち合わせの 十三時に
間に合わせて 乗った電車
空いた席を 空けたままで
ドアの側で 外を眺む
空の青は
はやる気持ち 落ち着かせて
山の緑は
はしゃぐ気持ち 迎え入れて
僕は 深く深く 座る
ドアの側の 紅のシート
背に伝わる 淡い揺れに
薄く閉じた 瞼と耳
ガタンゴトの 三連符が
徐々に 遠ざかって消えた
目を開けたら
目的地は とうに過ぎて
聞こえたのは
終を告げる 車掌の声
僕は 恐る恐る 開く
二人だけの トーク画面
開き始めた ドアの隙間
目がけ投げる 細い身体
ありったけの 「ごめんなさい」
投げたスマホ 汗ばむ手に
跨線橋を
猛ダッシュで 渡り切って
滑り込むは
十三時発の 急行
僕は 破れかぶれ 齧る
ミント味の ガムを一つ
待ち合わせの 饂飩屋から
ストレートに 伸びる列に
一人きりで 待ち続ける
長い髪の 君を探す
「どのあたり?」と
訊くとすぐに 浮かぶ既読
「あたま」と聞き
店の暖簾 目指し走る
僕は 一人ひとり 覗く
二年前と 照らしながら
先頭から 三番目の
瞳と 今 空で触れた
杉の椅子に もたれかかる
君の髪は ショートカット
「大丈夫?」と
尋ねられて マスクを取り
「大丈夫」と
矯正した 前歯を出す
僕は 重ね重ね 下げる
丸い頭 悪い自分
飛んだ刻を カバンに詰め
二十二時に 乗った電車
空いた盤を 埋めるように
角の席に 腰を下ろす
空も山も
水墨画の 夜の町が
昼と同じ
色が香る 街に見えて
僕は じわりじわり 気付く
君に 歩み寄る想いに
主張強め日記 5月3日 通報とか暴力とか
とある企業の代表取締役CEOに就任した。外部からいきなりCEOになるという経緯から察せられるとおり、当該企業は外資系の投資ファンドに買収されている。経営を改善すれば企業価値が上がる、バリューアップできると判断されたがゆえの買収だ。数週間観察して分かったのは、ガバナンスもマネジメントも十分機能していないにもかかわらず、自分たちに問題があるかもしれないという発想がそもそも存在しないという、幹部のズレた認識だった。ドバイやシンガポールのプロの投資集団にバリューアップ余地ありと見なされた企業が、である。
各企業にはそれぞれの「普通」がある。外資系ファンドやグローバルユニコーンと日本的企業とでは、常識も速度感も、標準とされるものが根本から異なる。問題は能力ではなく、違う常識を持つ人間がいるという事実を認識できるかどうかだ。認識できなければ、変わることもできない。代表権を持つ者の仕事は、その認識を強制的に更新させながら組織をトランスフォームしていくことにある。これはCEOという権限を傘にきた、本質的に暴力に近い作業だと思っている。私は見た目は穏やかで論理的な思考を展開できるが、本質的には暴力的な人間なので、割合向いている仕事だと捉えている。
文芸投稿サイトも似た構造を持っている。積み重なった履歴の中で「これが普通」という規範が出来上がり、その規範を疑わない人間が支配的になっていく。かつては誹謗中傷も厭わないレベルでお互いボロクソに書き合うのが文学だというサイトもあった。詩人だから奇天烈な言動も不規則な振る舞いも許されてしかるべきで、ほぼ放置プレーを維持するサイト運営もあった。それを文学の常識と呼ぶことも、非常識と呼ぶことも、どちらも簡単にできる。重要なのは、特定の常識が誰かを無駄に排斥していないかどうかだ。
言論の場においては、言論には言論で応じるのが筋だと思っている。誹謗中傷、粘着、通報、怒鳴り込み——こうした言論以外の手段で相手を変えようとする行為は、構造的に失敗を余儀なくされる。残念ながら、ほとんどの場合、言論で人は変わらない。だからこそ荒らしは強引で攻撃的な手法に向かう。最近、サーバー会社から「名誉侵害を理由とした通報があった」という連絡が2件続いた。係争や通報をちらつかせて他者の表現を黙らせようとする。そういうやり方に容易に手が伸びてしまう人間だから迷惑者なのだと、あらためて思う。軽蔑はするが、驚きはない。
CWSで何をやろうとしているかといえば、作品を発表し意見を交わす場を作ること、そしてその場における常識を育てていくことだ。違う常識を持ち込んで既存の場を変えていく——CEOとして今やろうとしていることと、文芸投稿サイト界隈でやってきたことは、実は同じ構造を持っている。どちらも権限を駆使した暴力的なトランスフォーメーションだ。だとすれば、運営に対する批判的な言説には寛容でなければならない。直接的な言論を拒まないことと、権限を行使することはセットであるべきだと思う。
暴力的な手法で他者を変えようとしてアク禁を食らった人間などに思うことだが、自分たちは直接的な言論に対して開かれていたかどうか、そこは問われてしかるべきだろう。ただし、答えを期待しているわけではない。言論で人は変わらないと、すでに書いたとおりである。
COSMIC (HEART) STRINGS
ある春の日
家の天井から
見たことのない紐が
ぶら下がっていた
紐をつかんで引っ張ると
ぼくは紐に引っ張られて
天井の穴に吸いこまれた
穴の中は真っ暗で
いくつもの白いロープが
まちまちな方向に伸びている
黒い空間を飛んでゆくと
ぼくはロープのひとつにひっかかり
絡まって宙吊りになった
するとひとりの女の子が
ロープにつかまって下りてきた
長い黒髪をロープに絡ませて
白いワンピースがよく似合う
彼女はぼくを見て微笑んでいる
見るより先に助けてくれと
ぼくが文句を言いかけたら
彼女はポケットから
赤い紐と青い紐を取り出した
ふたつの紐はぼくに吸いよせられて
絡まった白い紐をきれいにほどいた
黒髪の女の子は
ロープでできた吊り橋に立ち
ぼくを呼ぶように振り向いた
その後について行くと
高い建物の屋上に出た
青空の地平線を見渡せば
積み木のようなビルが立ち並び
互いにロープで結ばれている
屋上から地面にロープが張られて
建物全体が細長い円錐形に見える
いくつもの小さな凧が
手摺に糸で結びつけられて
空高く舞い上がっている
女の子がぼくの手を握り
ロープの付け根の柱に押し当てると
かすかな振動が伝わってきた
耳を当てると
知ってる人や知らない人の
楽しそうなおしゃべりが聞こえてきた
このロープのひとつひとつが
宇宙を貫く九次元の紐のように
いろんな運命を結んでいる
ここは人々の絆が
過去と未来が見える世界なんだ!
女の子がポケットから
白い紐を出して
床に結びつけて引っ張ると
下りの階段が現れた
ぼくが驚いていると
彼女は紐をほどいて渡してくれた
ぼくが階段を歩いて
途中で振り向くと
女の子はもういなかった
階段を下りきると
そこはいつもの部屋だった
もしも自分の運命が嫌になったら
天井に紐を結びつけて
あの女の子にまた会いに行こう
彼女といっしよに本当の絆を探すために
その時までさようなら
黒髪が素敵な絆の守り人さん
終
灰色の夜
灯りも付けずに、仄暗い深夜のキッチンで、ダイニングテーブルに座り、電話器の光るボタンをぼんやりと見つめていた。冷蔵庫のブーンという音だけが響いている。束ねていた髪を解くと、強くも優しくもない、ただの女がそこにいた。
青白い壁に画鋲で留められた、カレンダーの日付を数えると、あれから二十日が経っていた。
「あの…これ。」
震えた声でそう告げて、薄紫色の封筒を手渡した。
職場の上司に、電話番号とメッセージを書いた封筒を渡したのは、急に上司の転勤が決まったからだ。上司は一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに笑顔になって受け取ってくれた。あの笑顔は何だったのだろうと、少し怒りが湧いてきた。
私は弱い女だ。この子一人なら育てられると、夫を乗せた救急車の中で誓ったのに、誰かに寄りかかりたくなってしまった。
今の私を夫は空の上で、どんなふうに見ているのだろう。結婚を機に辞めていたタバコを、また吸うようになった。私の中にある灰色の感情を煙に代える為に。
待つのはやめようと決めたのに、今日も私は電話の前に座っている。
点描
二つのコップは水かきをひらき
潤った合谷にシナモンをまぶせば
蛾が舞い踊り
さいてんをはじめる
虫唾を吸ったヤマボウシは赤面して
点々とした灯台守になり
夕餉を香らせ
十六進数を唱える囲繞地に
さいげんをせまる紋様
体育館を転がる埃に跳躍を与え
定点観測を忘れてしまったハナクソが
遠心力を繋ぎ合わせて
大気圏を殴打する
かけ湯を何度も何度も掴もうと
にじんだ笑い声が白々しく
茎の渋味を脱出して
かりあげた湖畔を透過する
地形の標本を仰視すれば
誰も記録していない
カタカタと回転する終点のすきまから
滴る消息を印刷する蛍火の欠片が
滑り落ちるのに適した角度で手を振れば
宴を終えた化石が洗い流され
方眼紙の黄ばみを思い出す
「trash can can あいcan」
死後も発見されずに朽ちていく
私の夢、言葉、その話
誰にも見つからない人生
静かに消えて行くだけのうた
そう考えるたびに震える
私の人生は、なんなんだろう
きっと幸せで、豊かで、愛されていて、
可愛い犬も飼ってる
それは素晴らしい人生だったと
死神にでも絶賛されるだろうな
絵や映画なんかであったなら
きっと私の苦しみなんて
一つも写しはしないだろうから
私の詩、私の心、私の愛、
私の、人生。
こうやってずっと綴ってる
この言葉が無駄になるなんて
ゴミとして朽ち果てて
誰にも読まれず消えていくなんて
私の愛する言葉が。
なんて悲しいんだろう
私のうたを誰か読んで。
心に刻んで、涙して、
怒って、笑って、
私の言葉を!
どうか見つけて、
朽ち果ててしまう前に
私の人生が終わる前に。
どうか、誰か、
ハルアラシ
反対ホームに立つ友人がふと顔を上げた。
間違いなく目が合った時、思わず腕をいっぱいまで高く上げて手を振った。高く上げすぎて踵が少し浮いた。
友人は恥ずかしそうに胸の前で小さく応えてくれた。
なにか言いたくなって口を開く。
その時、列車到着を告げるアナウンスが鳴った。
すぐに友人の姿は列車に覆い隠され、人々を飲み込んで春の嵐のように忙しそうに過ぎ去っていった。
遠くなる轟音を、ぼんやりといつものこととして受け入れる。光り、白んでいく列車の背から視線を外した。反対ホームには腰の曲がった老人が一歩ずつ、前に進んでいる。気が付けば老人はエレベーターに乗り込んでいった。それから反対ホームに人はいなくなる。
瞬間、抑えていた気持ちがあふれだす。
ここから立ち去りたい。一人でなんて行けやしない。けど同時にはやく行ってくれてよかったとも思った。だってきっと、あなたは戻ってきてくれるから。
差分の休暇―あわいの遥
水曜日の午後、休暇を取った遥は公園で木漏れ日を浴びていた。五月の陽光と、広葉樹の影。テイクアウトのチョコレートドリンク。ただ何をする事もなく、行き交うスーツ姿の人たちを眺めている。つい一時間前の遥の姿。
いや、今の遥も姿は変わらない。ただ手にしたドリンクだけが、休暇を語っている。
木漏れ日がベンチの端を動いた。
遥はそれを追うでもなく、ただ視線の中に入れていた。手の中のカップは、いつの間にか結露していた。冷たさは指にあった。それだけのはずだった。
雫がノーネクタイのシャツの胸元に落ちた。布が先に受け取った。それから、薄いレースが冷たい湿りを拾った。小さな温度差が、胸を伝う。
遥は視線を動かさなかった。スーツ姿の人たちは、変わらず行き交っている。視線は変わらず、姿勢も変わらず、ただ小さく「ん、」と一言。そして結露したドリンクを二口。小さなのどが動いた。
緩やかに喉を落ちてゆくチョコレートクリームとその外側を湿らせた雫は、遥の温感を塗り替えてゆく。
木漏れ日が胸元を照らすと、湿りと、冷たさが、皮膚の上を滑る。
三口目の、甘い香りは、遥の肺を潤した。
じわりと湿度は広がる。
四口目はまた雫を落とし、シャツから遥の皮膚へと移ろってゆく。
皮膚は既に知っている。
遥はまだ気づいていない。
光と熱のあわいにいる事を。
そのなかで皮膚は動き始める。
熱を交歓し、雫を交歓し、光を交歓する。
皮膚は、もう遥を待っていない。
光が動いた。
遥の視線が、ふと、胸元に落ちた。
シャツの薄い布地が、雫の形に透けていた。
そこだけ、五月の光を違う角度で返している。
「あ、」
景色に追いついて、遥は動きを得た。
広がる雫に合わせて、肌が湿りを拾い集める。
冷たさが、向きを指し示す。
皮膚の上での交歓は熱と光の交換であり
その差分は遥を満たしてゆく。
そして 溢れた。
何口目かはもう分からない。
ただ雫の広がりだけが、終わった事を示していた。
舌は、まだ覚えている。
遥は視線を戻すと、休暇の残りをもう少しだけ、拾い集める。
まだ木漏れ日は、皮膚の上を滑り続けていた。
冷めたコーヒー
あなたの背中に
冷めたコーヒーが見える
それは
あの喫茶店の冷めたコーヒーね
泣いても晴れやしない心を
あなたが啜ってくれたらな
いつだって恋人たちを見ても
茶色の空になる
ティカップに涙の雨が降って
いつだって緑色の木々を
くぐり抜けたい
今はあなたとのコーヒーを
味わえなくなるのがつらい
昨日までの出来事に
あなたという風景があった
私はあの喫茶店で
あなたのことを待っている
あなたの笑顔がティカップに
ストンと入るまでは••••••ね
論考:ネット詩投稿サイトはどのような夢をみてきたか
本稿では、インターネット詩投稿サイトの歴史を整理し、その変遷を論じる。対象とするのは、文学極道、B-REVIEW、Creative Writing Spaceの3サイトである。他にも現代詩フォーラムなど著名なサイトは存在するが、本稿では単なるアクセス数や投稿数の多寡ではなく、場としての理念を明確に打ち出し、ネット詩文化の方向性に影響を与えたサイトに焦点を当てる。上述の3つを論じることで、オンライン詩投稿サイトの歴史を大まかに俯瞰することができるだろう。
まず、筆者自身の立場を明らかにしておく。2017年頃、文学極道において創作活動を開始し、同年、新人賞を受賞した。また、B-REVIEWでは創設メンバーの一人として、ガイドラインの策定を含むサイトのコンセプトや制度設計に関与した。現在はCreative Writing SpaceのFounderとして運営を統括している。
文学極道の最盛期をリアルタイムで経験したわけではないが、オンライン詩投稿サイトの変遷について一定の知見を持っている。本稿は、詩に関心を持つ読者のみならず、小説や戯曲など詩界隈以外の創作に携わる者にも届くことを目指している。ネット詩の興亡を整理し、今後の展望を示すことで、オンライン上の文芸創作に携わる人々の議論の材料となることを願う。
【文学極道──ネット詩投稿サイトの象徴】
文学極道は、2005年に創設された硬派な詩投稿サイトである。私は2017年頃に半年ほど活動したのみで、最盛期をリアルタイムで体験したわけではない。しかし、このサイトがネット詩文化に与えた影響は計り知れず、文学極道の成功こそが、その後のネット詩投稿サイトの方向性を決定づけたと断言できる。
文学極道は、最果タヒ、三角みづ紀といった広く読まれるようになった詩人が投稿していたことでも知られる。特に、初期の投稿作品の質の高さと、コメント欄で交わされた鋭い批評の応酬は特筆に値する。
サイトのトップページには、次のような一節が掲げられていた。
>芸術としての詩を発表する場、文極(ブンゴク)です。
>つまらないポエムを貼りつけて馴れ合うための場ではありません。
>あまりにもレベルが低い作品や荒しまがいの書き込みは削除されることがあります。
>ここは芸術家たらんとする者の修錬の場でありますので、厳しい酷評を受ける場合があります。
>酷評に耐えられない方はご遠慮ください。
この言葉が示す通り、文学極道は単なる創作発表の場ではなく、詩を芸術として追求する者のための修練の場を標榜していた。馴れ合いを排し、批評によって切磋琢磨する文化を築くことが、この場の理念である。文学極道は、インターネットがまだ黎明期から拡大期へと移行する中で誕生し、必然的に2ちゃんねる的な匿名性の高いネット文化の影響を受けていた。その結果、サイト内では低レベルな作品には容赦なく酷評することが許容され、むしろ推奨されるような雰囲気すらあった。罵倒や激しい批評が日常的に行われる場となったのである。
では、文学極道が夢見たものとは何だったのか。
文学極道が目指したのは、詩壇では評価され難い、真に新しい詩文学の創造の場、そして活発な批評の場であった。そのため、実験的な作品が評価され、罵倒を伴う荒れた議論も場の活力と捉えられていた。しかし、この批評文化の攻撃性は、やがて場そのものを揺るがすことになる。
【文学極道からB-REVIEWへ──批評文化の変質と転換】
文学極道における厳しい批評文化は、当初は場の水準を維持するための手段として機能していた。しかし、次第にそれ自体がサイトの荒廃を招く要因となっていく。過度な罵倒が横行し、サイト内の風紀が悪化することで、真剣に詩を議論しようとする者が次々と離れ、罵詈雑言ばかりが横行する傾向が生じた。そして、この状況に対するカウンターとして、2017年にB-REVIEWが創設される。
B-REVIEWは、以下の三つの原則を掲げた。
1. マナーを重視し、まともな議論ができる場をつくること
2. オープンな運営を心がけること
3. 常に新しい取り組みを行い、サイトを進化させること
文学極道が「酷評・罵倒の自由」を強調したのに対し、B-REVIEWは「罵倒の禁止を強調し、投稿者が安心して作品を発表できる環境」を作ることを重視した。一見すると、両者は対極的なサイトポリシーを持つように思える。しかし、本質的にはどちらも「オンラインならではの創作の場とレベルの高い批評の場を作る」ことを目的としており、その方法論が異なるに過ぎなかった。すなわち、似た夢を見ていたのである。
文学極道が2ちゃんねる的な文化の影響を受けていたのに対し、B-REVIEWはソーシャルメディアの時代に適応した開かれた場を志向していた。文学極道が罵倒と酷評による場の引き締めと活性化を狙ったのに対し、B-REVIEWはガイドラインとオープンな運営によって場を整え、活発な批評空間を形成しようとした。この方針のもと、B-REVIEWには文学極道の文化に馴染めなかったネット詩人たちが流入し、活況を呈するようになった。
また、B-REVIEWの運営スタイルは、文学極道とは根本的に異なっていた。文学極道が管理者主導の運営を行い、選評制度によって場の権威性を保っていたのに対し、B-REVIEWはオープンな運営体制を取り、投稿者の主体性を重視した。選評のプロセスにおいても、投稿者と運営者の垣根を超えた対話が行われ、投稿者が主導するリアルイベントの開催等の新たな試みが積極的に導入された。
では、B-REVIEWが夢見たものとは何だったのか。
それは、ハイレベルかつ安心して参加できる詩文学の投稿・批評の場の創造であった。従来のネット詩投稿サイトの問題点を克服し、新たな時代に適応した批評空間を作ることこそが、B-REVIEWの掲げた理想だった。
【文学極道の終焉──自由な批評の場から単なる停滞と崩壊へ】
B-REVIEWの台頭により、文学極道の状況はさらに悪化していった。B-REVIEWのマナーガイドラインに馴染めない投稿者が文学極道に集中し、サイトの荒廃を加速させたのである。かつて、文学極道は「自由な批評の場」であった。しかし、その自由は次第に「無秩序な荒らしの場」へと変質し、本来の機能を果たさなくなっていった。もはや、詩作品への鋭い批評ではなく、ただの罵詈雑言や無意味な言い争いが繰り広げられるだけの場となってしまった。
この状況に対し、運営の方針も迷走を続けた。荒廃を食い止めるために運営の介入が求められる一方、介入を強化すれば「文学極道の自由な批評文化が損なわれる」という批判が巻き起こる。しかし、介入を抑えれば無秩序が進行するという悪循環に陥った。
さらに、運営者自身が文学極道の理念を十分に共有していなかったことも、混乱を深める要因となったと考える。たとえば、終末期の運営者には、もともとB-REVIEWの評者として招聘されていたが、運営内部の諍いを経て文学極道へと移行した者も含まれていた。また、最終期の文学極道では運営主導の朗読イベント/ツイキャス配信が行われるようになったが、和気藹々としたオンライン交流は、「罵倒上等」の文学極道の風土とはそもそも相容れないものであった。
もともと文学極道が持っていた「罵倒を許容してまで議論を重視する場」としてのコンセプトと、後期運営が試みた「サイトの健全化」は、よほど緻密に進めないと両立しない類のものだっただろう。サイトコンセプトにそぐわない志向性を持つ運営者たちが運営方針を弄ったことで運営内外の揉め事が拡大し2020年、文学極道は閉鎖された。かつてネット詩投稿サイトの象徴であった場は、その幕を閉じたのである。
【B-REVIEWの凋落──運営の乗っ取り】
文学極道が終焉を迎えたことで、かつてその場に馴染んでいた投稿者たちがB-REVIEWへと流入した。しかし、これがB-REVIEWに大きな問題を引き起こすことになる。文学極道的な「罵倒・酷評上等」の文化、不規則な放言や誹謗的な発言を含め、マナーガイドラインに縛られず自由に発言できる場を復活させたいと考える者たちと、B-REVIEWの掲げる「マナーを重視した批評空間」を維持したいと考える者たちの間で、次第に齟齬が拡大していったのである。
B-REVIEWは「ガイドラインに合意した人間であれば、手を挙げれば誰でも運営になれる」という極端にオープンな運営体制を採用していた。この方針は理念としては美しかったが、現実には大きな問題を孕んでいた。すなわち、サイトポリシーに共感しない者であっても運営の中核に入り込むことが可能な脆弱な仕組みとなってしまっていたのである。
B-REVIEWは2017年の創設以来、複数の運営者によって引き継がれてきた。そして、B-REVIEWの運営は、文学極道を出自とする第八期運営者らに引き継がれたことによって2023年に大きな転換点を迎えることになる。かつて何度もB-REVIEWから出禁処分を受けていた人物が、運営側に招聘されたのである。この新たな運営体制のもとで、サイトのルールは事実上反故にされることとなった。従来であれば「マナー違反」として取り締まられていた行為が放置されるようになり、むしろ運営自らが批判者を中傷するような状況すら生まれた。これにより、B-REVIEWの運営方針は大きく変質し、従来の批評文化の維持を求めていた投稿者たちとの対立が激化することとなった。
また、サイト内の意思決定の透明性も失われた。それまでオープンな場で行われていた議論はディスコードへと移行し、投稿者全員の目に触れる形での意見交換は意図的に避けられるようになった。これに対し、「もはや本来のB-REVIEWではない」として数十名の投稿者が抗議し、これまでのすべての投稿を削除しサイトを去ることとなった。
現在、B-REVIEWは存続しているものの、創設当初に掲げられた理念はすでに形骸化している。本来の姿を知る者からすれば、屋号とサイトデザインが引き継がれているだけで、もはや別のサイトに見えるほどである。
また、本来のあり方を否定したために、かつて開発を支援したプログラマーや、資金援助を行った者からのサポートも失われており、今後の大きな変革はほぼ不可能な状況にある。ここで、B-REVIEWを乗っ取った者たちの行為を具体的に断罪するつもりはない。
しかし、強調しておくべきなのは、文学極道の最終期と非常によく似た現象が、再びB-REVIEWにおいても発生しているということである。つまり、「サイトの理念に共鳴しない者が運営の座につき、方針を変更することで場が混乱し、迷走し、凋落していく」という構造が、またしても繰り返されたのである。
【文学極道の亡霊にしがみつく人々】
B-REVIEWが創設されて以降、ネット詩壇には文学極道的な「罵倒カルチャー」を復活させたい、適度に荒れた雰囲気の場をつくりたいと考える人々が常に存在していた。そして最終的に、そうした投稿者たちがB-REVIEWを乗っ取る形になった。
本来、罵倒や荒れた議論は、創作に真剣に向き合うための「手段」であった。しかし、それが次第に変質し、「無秩序な放言や支離滅裂な発言、癇癪を起こすこと、誹謗的な発言をすること」すら、詩人としての特質であり、詩に対する純粋な姿勢であるかのように誤認する者たちが現れた。
不思議なことに、サイトを乗っ取った彼らは自分たちが何を目指しているのかについて、殆ど議論も説明もせず、批判には無視か排斥で応えるばかりである。議論すること自体を忌避するような性格の人々が、本来のサイトポリシーを反故にすることだけに妙に固執しているようにも見える。彼らが本当に求めているものは何なのか。
私の見立てでは、彼らが求めていたのは、文学極道というサイトが生み出してしまった「間違った幻想」である。
まともなことがほとんど何もできないような人々、すなわち、一貫性のある態度や振る舞い、社会的な態度、感情のコントロールが一切できないような人たちが、自己正当化の手段として、放言や支離滅裂な発言を許容しているかのように見える文学極道の文化にすがりつくようになったのかもしれない。彼らにとって重要なのは、創造することでも、議論を深めることでも、場を発展させることでもない。ただ、自分を肯定してくれる空気に浸り続けることに他ならない。
もともとは停滞する人々を排除するために存在していたはずの「罵倒文化」が、いつの間にか停滞する人々の拠り所となってしまった。ここまで読んでもらえればわかるように、私は文学極道というサイトが成し遂げた功績についてはリスペクトしている。また、最盛期の文学極道のような場を取り戻したいと思う人々の気持ちもとてもよく理解できる。
しかし、このサイトの残滓のような人々、場を乗っ取り、まともな説明を忌避し続けている人たちは、文学極道を含めて、これまでネット詩サイトが積み重ねてきた活動に対して、実質的に「悪口」を言う機能しか果たしていない。彼らはそんなつもりはないと反発するかもしれないが、しかし結局ところ、なんのつもりで場を変質させたかったのか、明確な説明も主張もない中にあっては、場を壊し、停滞させ、しかしそうした結果に無頓着な様子以外に読み取れるものがない。
【そしてCreative Writing Spaceへ】
B-REVIEWの混乱と凋落を目の当たりにした元運営者たちは、新たな文芸投稿サイトの必要性を痛感し、新しいサイトを立ち上げた。これがCreative Writing Spaceである。これまでのネット詩投稿サイトの歴史を踏まえ、サイトのコンセプトや運営方針を再設計し、新たな創作の場を築こうと試みたのである。
このサイトは、もはや「詩投稿サイト」ですらない。そもそも、詩の枠組みを超えた作品を生み出すことこそが、ネット詩投稿サイトの夢だったのだから、「詩サイト」を名乗る必要もないという急進的な考えに基づいている。また、詩の場である以上、不規則に振る舞って構わないはずだと考える人々が一部に蔓延る中にあっては、特定のジャンルを特権化せず、開かれた場をつくることが詩界隈にとっても利益になると考えた。特に、旧来の詩投稿サイトにまつわる過去の遺物──すなわち文学極道の「罵倒文化」やその残滓──を一切引き継ぎたくないという意識が強かった。
B-REVIEWの最大の問題点は、「オープンな運営体制が仇となり、乗っ取りが容易なシステムとなってしまったこと」にあった。この失敗を踏まえ、Creative Writing Spaceでは、クローズな管理体制を持ちながらも、分散的な自治が可能なシステムを設計することにした。
その一環として、サイト内通貨「スペースコイン」を導入し、単なる作品投稿の場にとどまらず、各ユーザーが自律的に活動できる仕組みを取り入れている。また、各ユーザーが気に入らない相手をブロック・通報できるシステムを整備し、運営が過度に介入せずとも各自が自身の環境を管理できるようにした。
さらに、詩だけでなく小説、幻想文学、戯曲など、多様なジャンルが交差する場を目指し、文学極道やB-REVIEWとは異なる新たな可能性を模索している。名興文庫との提携を通じて、小説界隈との連携を強化し、これまでのネット詩メディアにはなかった展開を示している。
サイトの立ち上げからまだ間もないが、月間の投稿数はB-REVIEWの最盛期と同程度に達しており、順調に成長を続けている。しかし、これはまだ始まりにすぎない。Creative Writing Spaceはどのような夢を見ているのか──それは、かつての文学極道やB-REVIEWが見た夢の続きであり、それらとは異なる、新しい何かでもある。
【言い訳としての結語】
Creative Writing Spaceは、特定のジャンルに依拠しない文芸投稿サイトである。あたらしく進めていくことをテーマに掲げている。したがって、本稿のように、詩投稿サイトの系譜を振り返ること自体が本来の方針にそぐわないかもしれない。
名興文庫との提携を通じて小説界隈とも接点を持つ中で、特にアンチ活動に勤しむ人たちを目にするにつけ、小説の世界にもまた、特定のジャンルに閉ざされることで停滞が生じていることが理解できた。他方で、特定のジャンルに囚われることなく、純粋に創作を研ぎ澄ませたいと考える書き手が一定数存在し、Creative Writing Spaceに参画くださっていることも確かである。
特定のジャンルに閉じないことは、詩に限らず、創作全般において重要な課題なのではないか。内輪の論争に拘泥するのではなく、異なる背景を持つ書き手たちが交わり、互いに刺激を受けるような場を築くことこそが、今後の文芸創作の発展にとって必要なのではないか。Creative Writing Spaceは、まさにそのような場を目指しており、現状にとどまるつもりがないからこそ、この論考を投稿している。