推薦対象
陽炎
by 白島真
白島真『陽炎』読解一例
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詩が有機的でありかつ流動的であるとはいかなることか。この詩『陽炎』の詩境では、断片的なイメージが有機的にからみ合って一意のテーマに収束する、その描写の含意は「幾重もの貌」(4聯1行)をもち流動する。語りの内容をつかめても、語り手の真意ははかれない。『陽炎』の表題が象るとおり、なにもかも揺らいでいる。祈りと呪い、喪失と解放、死ぬために生まれる現実、あらゆる情動が鮮烈な逆説で両義的に揺さぶられる。
以下、『陽炎』の全文を、書かれているとおりの順序であたう限り無難に読解する。詩の構造やイメージの連鎖を追いながら、文脈に即して修辞の妙を堪能するためだ。あたう限りは無難に読解してすらこうなるのを、「有機的にして流動的な詩」の特徴と諒承されたい。
*
>ながい沙漠くだるゆめでした
>金と銀のおくらをつけて
>はるばる意識の 記憶の 羊水の
>(作品冒頭)
詩は胎内回帰願望のような郷愁から始まる。郷愁であって追憶ではないのが肝要だ。語り手の意識が降り遡る「ながい沙漠」は、のちに「巨きな岩が割れ/ことごとくが砂」(3聯4-5行)と寓される思想への伏線となる。
「金と銀のおくら」は「沙漠」に似合いのラクダを思わせる選語だが、「意識の 記憶の 羊水の」底へ降りてゆくこの詩境に、ラクダが寄与するとは思えない。人間である語り手の母胎へ、ラクダがともに回帰できる道理はないからだ。ゆえにここでは「おくら」を「お鞍」より「お蔵」と読みたい。その文脈においては「金と銀」を、「沈黙は金、雄弁は銀」に紐付けられるかもしれない。
「お藏入り」は発表されずにしまいこまれた作品の比喩だから、「表せなかった思い」をかかえて「知られなかった歴史」へ沈むイメージを惹起する。現に次行から「知られなかった歴史」を絵に描いたような懐古が展開する。
>幼少を過ごした家の廊下には足踏みミシンがあって
>カッタン カッタン カッタン カ
>死んだはずの婆さまが
>むすめである母のモンペを縫って笑ってる
>(1聯3-6行)
これは語り手が知らないはずの光景だ。モンペは戦中の衣服、そのころ裁縫は女に必須のたしなみだったはずだから、モンペを縫ってもらっている「むすめ(語り手の母)」を子どもと推測できる。子どものころの母親を知っている子はいないので、この光景を語り手が知っているはずはないと判断できる。
子宮と生母の生家を紐付ける1聯の情景は、前述のとおり、郷愁であって追憶ではない。胎内回帰を通り越して、卵子が継承する母系遺伝をミトコンドリア・イヴまで遡るようなイメージ。もっともいま語り手は、まだ母胎に踏みとどまっている。そう解釈できるニュアンスが、この簡浄な描写にどっぷり匂わされている。
「カッタン カッタン カッタン カ」。語り手の知らない「婆さま」が踏み鳴らすミシンの音。その矛盾が「沙漠には響かないはずの足音」を、その音感が「沙漠をくだる道中で踏み留まっている姿」を惹起する。知らないのに継がれている母たちの遺伝と同じように、語り手がそこに遺され留められていることを予感させる。この詩はすぐれて有機的で、かつ流動的だから、擬音ひとつでここまで濃い内容を読ませてしまえるのだ。
>あれはみな
>陽炎でした
>(2聯冒頭)
2聯は未生の語り手の、走馬灯のように駆け巡る自他不分別の記憶を描く。描写は『陽炎』の題が象るとおりの、意味を揺るがし感情を揺さぶる高度な修辞で埋め尽くされている。ここに表れる情景は、断じて単に夢うつつや生死の境をあいまいにしただけの断片ではない。どの場面もあざやかな逆説や形容矛盾によって、強烈に両義的な筆舌に尽くしがたい心境を暗示している。まずはその逆説的な修辞と連鎖するイメージの妙を、不本意なほど簡潔に説明する。
>母は台所で
>活きた鯛をさばき
>(2聯3-4行)
母が生きている鯛を殺して子に食わせ生かすという提示。生死の両義を揺るがしてその循環を惹起するイメージが、直後の「鈍色」すなわち喪に連鎖する。
>夕刻のどろりとした鈍色が
>お気に入りの三毛の瞳を
>早くも閉じさせました
>(2聯5-7行)
「鈍色」は喪服の色、生死のグレーゾーンの示し。三毛(猫)の「瞳を閉じる」という動作にも、「目を閉じる」(瞑目、あるいは死)と「瞳孔が閉じる」(焦点を明所に合わせる、生きて光のなかにいる)の二義がかかっていて、生死の両義が揺るがされている。
>正月のべーゴマは
>家の前のアスファルトでくるくる回り続け
>(2聯8-9行)
この詩境は胎内で、密閉され自閉していて、外部や他者の影響が及ばない。だから回した「ベーゴマ」がその慣性を維持し続ける、いつまでも停止せず地球のごとく自転し続ける。この「ベーゴマ」のように運動している物体は運動し続けようとし、次行の「武者凧」のように静止している物体は静止し続けようとするのが慣性だ。あるいは惰性というものだ。この印象は3聯の「儀式」「巨きな岩」に連鎖し大きく飛躍する。
>父の顔した武者凧が
>とおい境で
>風を呼んでいます
>(2聯10-12行)
密閉されたこの詩境に母はいるが父はいない、自閉した母胎なので自明の理。「とおい境で/風を呼」び、越境してこの母胎へ運び込まれようとしている「父の顔した武者凧」は、父の遺伝子を子宮へ持ち込む精子の寓喩と解釈できるだろう。いまこの母胎において、語り手の身体は未受精の卵子であって、まだ父からの遺伝を受けていないと判断できるかもしれない。ほかにも読みがいのありそうな観点は多々あるが、ここではやむなくこれで切り上げ、次の最重要の情景に連鎖する。
>一人で食べるお節は
>妙にあかいのです
>(2聯13-14行)
卵子である語り手は「一人」で母の「お節」を食べる。その色が「妙にあかい」のは、卵子に送られる栄養が血液であるからだ。────筆者本人にすら仰天の結論だが、この文脈ではこの詩句をそのようにしか読解しようがない。ここまでの読解が緊密に連鎖し、有機的にからみ合い収束してしまうからだ。
この美しい詩句の寓意が、そんな情緒もへったくれもない無機質であるわけがない。そう信じたい読者も多いだろう、筆者本人すらその例に漏れない。語り手の孤独を斜陽の色と熱気で彩るこの「あかいお節」は、2聯3-4行で母がさばいた活鯛とその流血に直結していて、「生むために殺す」という無常の循環を強調しているはずだ。孤独な食卓を「めで鯛」が彩る形容矛盾によって、祈りと呪いや喪失と解放の両義を際立たせているはずだ…………言うまでもなく、そうした読解も、誤読とは切り捨てられない。なぜならこの詩句は流動的に、多様な解釈を可能にするように(作者の意図とは関係なく)完成しているのだから。
これが「有機的にして流動的な詩」の読解の実情だ。作品がどれほど多義的であろうと、ひとりの読者が一度の機会に読める解はつねに一意。拙評が「一例」やら「一考」やら標榜する理由がこれで、「作品の多義性を証明したいなら、大勢になん度も読解させるしかない」という現実に即している。では気を取り直して、あたう限りは無難な読解に勤しみたい。
>裏返った小指の先で
>みるみる陽が翳っていきます
>(2聯15-16行)
ここで場面は暗転する、あるいは斜陽へ明転する、ないしは「陽炎」の熱気と錯覚がさめて現実へ引き戻される。3聯の大胆な飛躍の、これはいわば踏切板だ。ここから修辞がいよいよ流動的になる。
「裏返った小指」はなにを示唆するだろう。握っていた拳を開くようにもみえる、指切りの絆を断つようにも感じられる。続く3-4聯の描写をふまえれば、いずれにせよ「手放す」と解釈できそうだ。身体から解放された自意識が自身を俯瞰するような、離人感がこの先は支配的になる。
>逢うべくして出逢った人びとが
>戴いた名前をかざして
>儀式に興じています
>巨きな岩が割れ
>ことごとくが砂です
>
>幾重もの貌をもち
>最後尾にいるのは
>あれはわたしでしょうか
>(3-4聯)
ここまでの読解の文脈をふまえて、3聯冒頭「逢うべくして出逢った人びと」を血族(祖先たち)とみなす。1~2聯の胎内回帰に託された個人的な郷愁を通り越して、自身の血脈をその源泉まで遡り客観視するイメージ。「戴いた名前」は姓や苗字、「儀式」は人類が蕃殖のため機械的にこなしているあらゆる営みを思わせる。この印象は2聯の「ベーゴマ」の自転から読み取られた慣性あるいは惰性の概念に支えられている。この文脈でなら「巨きな岩」を、母なる地球あるいは細胞分裂する受精卵の寓喩とみなすのは容易だろう。
それをふまえて4聯の「幾重もの貌をもち/最後尾にいる」者を、文字通りの「末裔」とみなす。原初の人から連綿連なる血脈の末に、あるいは果てに自分自身を見出すイメージ。それは自分がいま生きている事実より、これから死んでいく現実をこそ、読者に思い知らせるかもしれない。
「巨きな岩が割れ/ことごとくが砂」、巨大な一枚岩が決裂して原型を失い「ながい沙漠」(作品冒頭)を形成するイメージは、人体が細胞分裂を繰り返して発達するのとは対照的で、その荒涼たる様相に反して蕃殖と繁栄を寓しているようにもみえる。母と一体の胎児のままでは子が人になれないのと同じように、分かれ離れなければ確立できない自我が示されているようにも感じられる。この情景に漂う離人感は、逆説的に、語り手の確固たる自我を証明するかもしれない。現に詩の結びの「あれはわたしでしょうか」、自身を客観視し相対化しなければ出ない発言ではないか。
*
以上がこの詩『陽炎』の、この筆者の現時点ではもっとも無難にして実直な読解だ。最後にこの筆者ならではの着眼として、詩の表題『陽炎』の字義を「男性性の危機」とも解釈できることを附記したい。
道教の陰陽思想において、陽と陰は天地・軽重・明暗・神鬼そして男女に擬えられる。たとえば道教典『淮南子』の影響の著しい日本書紀冒頭本文には、原初の陽気が天にのぼり「純男」をなして最初の神となった旨が述べられている。かくも強権的な男性性が、この詩のたとえば「父の顔した武者凧」(2聯10行)のくだりでは、失権し失墜している。武者絵というまさに絵に描いたような男性性が、重く複雑で不明瞭な女性性の引力に吸い寄せられて静止したまま浮上できずにいる。まさに「母なる地球」の所業、ユングの元型論でいえばいかにも太母で、アニマの役割を果たしそうにない。
元型論のアニマはゲーテ『ファウスト』の結び「永遠に女性なるもの、我等を引きて往かしむ」(鴎外訳)のインスピレーションだ。ゲーテの詩と同様に、白島真の詩とてアニマに牽引されているに違いない。『陽炎』のおそらく男性である語り手の人格を完成へ導いたかもしれないそのアニマはきっと──この白島真という詩人の愛猫家ぶりを知る読者には理解されると思うのだが──「三毛」(2聯6行)だ。
三毛猫のほとんどはメスであり、ごくまれに生まれるオスの三毛猫も例外なく性染色体XXYである。この事実は、この詩境を母系遺伝の道中とみなす解釈の下支えとしても有用だろう。以上の無難でない解釈は、すこぶる人間らしい読解の実例として紹介した。
※本稿は「AIとは異なる人間らしい読解」を目標として制作された。CWSのAI分析を含む各種AIに推薦作『陽炎』を読解させ、いずれからも出力されなかった解釈を重点的に掘り下げたもの。読解の妥当性や批評の信頼性の検討にも各種AIが用いられた。Gemini(Google AI)によればその成否は「AIには難しい、感覚的・直感的な飛躍、そしてそれを論理的に補強しようとする筆者の思考のプロセスが、この読解の大きな魅力となっています」とのこと。
※この読解は筆者澤あづさの文芸であり、一切の責任を筆者が負う。作中にある問題は推薦作の問題でなく、その著作者に責任はない。