投稿作品一覧
沈黙のコミュニケーション
それを触れるのは、本来とても自然で簡単なはずなのに、
人はなぜか「理解」「正解」「意味づけ」に引っ張られてしまう。
だから「手探りができない」――そのものと直感で遊ぶことを忘れてしまう
赤子がはじめてを感じるように、
その言葉もまた、喃語のようにあるのというのに
――なぜそんな簡単な手探りが、難しいと感じてしまうのか。
わたしたちは ほんとうに むきあえているのだろうか
ただ、ほんとうに わからないもの として こうして 手探りではありますが
すこしずつ ひらけていく と 実感できるもの でしか ありません
一生手探りだと思います、
それって手応えばかりで素敵だと思いますよ
価値ってそんなもの、自分がどう動いたかにしかない
言葉に触れ、言葉以外の情感や情動が、無意識のところで発動することは、言葉の働機として、認識できるものであるから。言葉自身が持っている、意味に等しいわけですよね。要はなにかを伝えるため選ばれたことば(らべる)が悪いのではなくて、語り受け取る側双方の認識の違いの問題だよなと
これは、指し示したところで、誤認する。翻訳機能もない状態では、おなじものをみていても、ちがうことをかんがえている。それをさらに言葉に出したときに、意味という仮定すら、自分本意に置き換えて読み違えるものだから。そのズレがどこで生じているのかを、互いにすり合わせること自体が無理だと思う
ただ互いにすり合わせようとするその努力や態度が、相手に伝わり、言葉自体の意味が流動し鞘に収まっていくと考えたりする。 伝達という行為に対しての結果の一つに過ぎないとは思う。そういった取り違えの認識ではあるけど、結局は話自体がズレていき、違うさやに収まったりするのではないでしょうか
その鞘はたくさんの型があるでしょうね、ってはなしなので。なし崩し的に鞘に収まる型もあれば、すり合わせようとする態度が伝わって収まる型もある。話がズレたまま、鞘に収まらずに終わる型もあるでしょうし、収まったように見えて、実はまだズレたまま放置されているだけの型もあるでしょう。
そもそも言葉という定義をどの程度まで内包して、使っているのか。ですけど。ことばは万能じゃないし翻訳機能も持ってないわけですから。 言葉自体を伝達と考えたときに、声・文字・表情・ジェスチャー・沈黙まで、かなり広く考えられること、それらを踏まえて考えていく必要がある。気がしている
伝達自体を、標記されたものと意味づける。自己の身体の外側に置く行為。標記に何を置いているつもりなのか、それ自体が、置く側によって違う。
ある人は意味(内容物)を運んでいるつもりで置く。ある人は痕跡(触れた跡)のつもりで置く。ある人は、もっと別の何か――たとえば感情の温度だけ、あるいは単に「ここにいた」という存在の証だけ、を置いているつもりかもしれません。
まあただの媒体だからねえ。言葉に期待することも、言葉を信じることも、自分の責任でしかないわけですよ
読もうと思った時に大抵は理解しようと務めるわけだけど、その理解というものが、テクスト論なのか、それとも、書き手ありきの批評なのか。
もっと崩していくと、読みたいように読むのか、書き手に合わせて読むか、はたまた自分に下ろしてしまうのか
しかしまず作者がなぜそう書いてしまうのかを考え、坐したまま詩に対峙し、作者ごと読む。沈黙のコミュニケーションを楽しむこと。
それを経てはじめて、その詩がわかるか・わからないかの問題になる。
勿論、出会ってすぐ主張してくる詩もあります、ソレは圧や熱量として、なにかしら感じられる理解できるものでもあります。
だから自分の身になにかが起こるかどうか。
全く響かないなら今は必要がない。ソレは価値がないのではなく時期ではない。まだ出会っていない、すれ違っただけともいえるのではないかな
これはコミュニケーションとして思うところでもあるのだが――
静かにお暮らしください
目が覚めてすぐ、黒川は雑にベッドから下ろしそうになる足を止めた。つま先からそっと床におりて、忍び足でキッチンへ向かう。
天井から吊るされた配給籠には、すでに朝食がぶら下がっていた。火曜日のメニューはベーコンエッグとトーストが二枚。それにリクエストしておいたいちごジャムとりんごがちゃんと追加されていた。
食卓の椅子に足を組んで座る。配給籠が無音で降下し、黒川の前に着地した。
籠から取り出した朝食を食卓に並べ、テレビをつける。トーストをかじる音にすら掻き消されるほどの微かな音量に耳を傾けながら、今日は大好きないちごジャムが瓶で届いたことに黒川は髭で覆われた頰を緩めた。
まだあたたかさの残るトーストを手に、浮かれて瓶へ腕を伸ばしたときだった。だらしなくよれた袖口が、傍のりんごに触れた。
あ、と声を上げたときにはすでに、りんごは食卓から半分身を乗り出していた。咄嗟に手を伸ばしたが、磨かれたりんごは指先を掠めただけだった。
もう一度黒川が声を漏らした瞬間、ごつん、と重い音が響いた。
残響が消えた一瞬、部屋は凍り付いたように静まり返る。
「床面への衝撃を検知しました」
その声を合図に、部屋中を赤色灯の光が染めた。
「その場を動かないでください」
スピーカーから聞こえたオペレーターの声に、黒川は手を伸ばした姿勢のまま固まった。
「落下物の種類を申告してください」
「りんごです」
「聞き取れませんでした」
「りんご!」
しばらく言葉を発していなかった声は、思ったよりも弱々しかった。
「不明物体として処理します。警戒水準を引き上げます」
「待ってください、りんごです、朝食の!」
思わず声を荒らげたとき、リビングの大窓の向こうで、管理棟から人々が慌ただしく飛び出してくるのが見えた。
「落下物のおおよその質量を申告してください」
「百五十グラムくらいです」
「百五十キログラムとして登録しました」
「グラムです!」
「訂正には管理者権限が必要です」
黒川は固まった体勢のままため息を吐いた。
やがて玄関が開くと、重装備の男たちが押し入った。全員ホバーブーツを着用している。隊員たちは床にレーザーを当て、慎重にりんごへ近づいた。先端に綿のついた長い棒でつつき、反応がないことを確かめる。最後に透明な箱を被せ、周囲へ黄色いテープを張った。
「落下物を確保しました」
隊長らしき男が無線へ告げると、ぐるぐると回っていた赤色灯が止まった。隊員たちのうち数名が部屋を出て行くと、黒川は隣で端末をいじる隊長を見上げた。
「動いてもいいですか」
隊長はこちらを見もせずに答えた。
「まだです。安全確認に一時間かかります」
「りんご一個で?」
「規則ですので」
黒川はまたため息を吐いた。
一時間後にアラートが解除されたとき、腕も足も感覚がなかった。冷や汗も止まらず、隊員に差し出されたタオルで汗を拭っているうちに再び家は静まり返った。
翌朝、管理局から三百八十二ページある『エリーのママ・再発防止マニュアル』が届いた。一ページ目にはこう書かれていた。
『エリーは寂しがりやですが、とても繊細です。静かにお暮らしください』
黒川は床の向こうを見つめ、小さく身震いをした。
了
エイリアン
埋もれていく
失われていく
何かが欠けて
何かを諦めて
誰かを傷つけた
知らないことが知らないまま
この世界の奥に押し込まれていく
いつしか
光が見えない場所へ
彷徨い
いずれ溶けてしまう
僕に似た僕が笑っているように
この歪みが未来へと繋がって
今日の僕になって
今日の僕は過去と繋がった
知ろうともしないまま
埋もれていく
失われていく
何かが欠けて
何かを諦めて
僕を傷つけていた
エイリアンに憧れてしまった僕
その末端にて
美しさを恋い
その末端にて
僕をはじめる
プラスチック
ガラスの器より
100均で買った
プラスチックのコップを掴んでいたい
テーブルの端っこに置いておきたい
たまに肘を当ててひっくり返したい
適当に洗ってかごに放り込みたい
がちゃがちゃと他の食器と重ねたい
靴下の穴
靴下の穴をかがってみた
ぽかんとした静寂が
一針ごとに口を噤んだ
よれたギャザーの余韻
愛着
雨を背中に
どこまでも続く
緩やかに広がる丘の向こう
どこへ向かっていたのかも
分からなくなるから
まん丸お山を目印に
信号のない道を
よそ見しながら
馬や丹頂鶴を目に留めて
時々気付かれないよう
横顔を盗み見ては
青の湖を探す
人の手の届かないまま
神秘的な霧に包まれ
透明な青を湛えて
自然への畏れに
あなたの隠した
頬を伝うひと雫
静けさを刻む
湖の青を
優しい道標として
このままの旅路
重ねる視線を
清々しく敬う
ちょうどよい日
半袖のまま
玄関を開けると
冷たい風に当たった。
ブルゾンを羽織って
自転車をこいで
買い物をして帰ってくると
流れる汗
長袖を来て
玄関を開けると
温かい日差しがまぶしい
そのまま
駅へ歩いていくと
着くころには
電車に乗って
ハンカチで拭く汗
1カ月もすれば
長袖が当たり前になり
もう1カ月経てば
体はモコモコに膨れる
ちょうどよいのは
ほんの数日
空気に合わせる
なんて難しいんだろう
いつか海へと還る
どうしようもない哀しみに
立っていられなくなったとき
ひとが海へ行きたくなるのは
寄せては返すその波に
攫ってほしいからだろう
哀しみと、自分自身を
どうしようもない痛みに
立っていられなくなったとき
ひとが湖へ行きたくなるのは
静まり返ったその水面の下へ
深く沈めてほしいからだろう
痛みを、自分自身ごと
ひとの哀しみはいつか
川を流れ、湖を流れ
流れ流れて海へと還る
非常口
真っ暗闇の中にぼんやり光る緑
非常口と書かれた看板ごと
見慣れてしまっているから
いざというときに
見つけられる気はしないけれど
「非常口わかりにくいね」
あなたに言うと
『別に良いよ 助からなくたって』
あなたはそう返事する
「そうだね」
わたしもそうやって答えるの
だけどさぁ
あなたはわたしじゃなくても
いいんだろうけど
わたしはあなたじゃなきゃいやよ?
黙ったまま目で訴えても
ちっとも気づいてくれないから
背伸びしてキスをして
非常口から出て行くの
静かな夜
静かな夜に包まれて
その世界の粒子になって
あなたに寄り添いたい
騒がしくなる前に
この世界をあなたから奪おう
誰も気付かないように
誰も傷つけないように
この世界から逃げ出そう
フィルム
別れては
出会う
少し前も
今も
コマ送りの
あなた
瞼の裏
シャッターは切られ
飾られない
写真たち
無題
かもめ〜るを食べ尽くしたきみにあげたかった絵葉書には、海老と魚と貝が、確信を持った筆致で描かれていて、すごい、こちらはいまだに何の確信も持たないまま、奨学金を返しつつ、きみの無垢なる小学生時代を執拗に書き続けてもう二十年になるという、化け物か、俺。
後逸
青酸カリを悠々と超える
高い毒性を持った河豚毒に当たり
「男は肝心な時には肝心なところが大事になる」
などと上機嫌で嘯いたあと
白目を宙に飛ばし
倒れて死んだ男の息子が僕だ
いっそ隠語のムスコだったらね
彼と一緒にしなびて炉で焼かれ
そのまま終わったのに
火葬場は高い塀に囲まれた林の中にあり
風もないのに枯葉が舞った
青いような赤いような白いような葉が
無限に降り注ぐ広大な敷地に
霊柩車や喪服の男女が配置されている
蒼白い炎の塊が東から上り
西へ傾いたところで停止して
タイヤや靴が乾いた落ち葉を踏んだまま
車はエンジンを回さず人は口を開かない
高すぎる空に煙突から帯状に上る煙
肌寒い耳鳴りの音が
減衰することなく伸び続け
冬になりかかっている
父は生涯働いたことがなく
真面目な服を着たこともなく
派手な柄の和服を着崩して過ごした
赤いような白いような青いような箸で
生魚や貝の肉を摘んでは酒とともに
口へ運びながら
「あんたの耳は惚れ惚れとするほどいいかたちだ」
などと嬉しそうに裸の女性たちを口説き
気が向くと畳の上に置いた小鼓を打ち笛を吹いた
人の背筋から芯を抜きとるような
ひどい下ネタを平気で飛ばし
女たちはきゃぁきゃぁとはしゃぐ
そんなこんなの乱交の果てに
河豚に当たり機嫌よく笑ったまま死んだ
大当たりというものだ
僕はその場に居合わせたが
裸の女性の一人の胎内で
まだ目鼻もないありさまだった
だからこのことはすべて母から聞いた
何かと口もとを笑わせるが
一度も目が笑わない
母はそんな人だった
よく話したが誰ひとり、本人さえ
何を話したか覚えていないし
そのことを気にしない
指が長いので性技は巧みだった
愛するのも憎むのも面倒くさく
執着するものはないようだ
ピアノの天才らしいが
生涯一度も弾いたことはない
翼も光輪も愛もない天使が母だった
薔薇窓から射すような変な光に包まれていた
僕の一生で印象に残ることは皆無だ
本当に何も覚えてないんだ
父母のほか人ひとりの顔も名前も浮かばない
死んだからかな
でも退屈な事務仕事のようにきちんと生き
折り目正しく死んだ記憶は残っている
それだけのこと
焼かれて煙になったものの
風がないので流れず消えず
ただ落ち葉降る火葬場を俯瞰している
父の血肉は粒になって循環し
相変わらず浮かれ騒いでいるんだろうか
あるいは
母のもとへ召されたのかな
メメント・モリの丘
シスレーの空の下
丘をめざしてあるく
遠いようで近くもある
静かに目を醒ます青
メメント・モリ
死は生命を
活かすために
あるものとして
丘のむこうに積みあがる
無数の髑髏は輝くカンテラ
あるかなくては
なにかに突き動かされて
なにかを見届けるために
湧き出た汗が額を伝う
生まれる雫の屈折に
傾斜を登る青い影を見た
丘をめざしてあるく
近いようで遠くもある
約束された永遠の青
メメント・モリ
死は生命を
燃やすために
あるものとして
みたされたすべてが真直ぐだった
弧を描いて塞ぐ 白地に光を無駄に注ぎ褪せるまで
新天地から口移しで呂律を絡ませ捌いている。なにも
なにもかも、嘘つきだから あやとりしながら手拍子して
作為的な二枚舌で覆いかぶせるように責め立ててしまえるのだ
艷とも違うゲストハウスの差し込むあかりは寸刻。まどべをとおくならべる女の単調な日々は、未来が見えるもの。果実は、蕃茄とも苹果とも違う平織りにのせられ臈長けた曲線を絹と背く。ほつしたようみぞをさらせる、その火花がどうした。茎と華が半ばにうかがえるが、風を纏っていたかどうかゆくさきを偲ばせる。
まだ時間はルーズなまま、の知らないことを、重なるすべてが雪崩を起こす前に、盗撮を施した、夢から褪めた古書を開く。
巻紙を焦がし蝋燭を吹き消し今朝を串刺しにした廃墟で、私達には兄妹にはならない、異郷のメロディーを耳に敷いた、指で包容する。
凹んだ空き缶に吸い殻を寝かせ、烟った督促状が現実に引き戻して、また明日のことをおもった。満月も見えないのに明るすぎる未来に幸福と逝くさきの区別がつかなくなるが、思案に下るだけで腑に落ちず胸に手を当てただけで何故か痛むから、
腐りきったあとでやはり命を感じられた、その華華は今々と、糸と針を回している。
やはり、塒
聞こえてきたアナグラムのやがては昏く。真夏の大輪をなんと示そうか、闇雲に鉱泉が、いつの日にか身を投げ出した。
廃道なんだよ、この袋小路に目を凝らせば、蜉蝣が踊っている。
月下美人の蕾をもう何日も眺めている。閉じ込めた鳥籠に吹き込むことのない雨ざらしが錆び塗れ沈みている、滑稽な風采こそ、雄大で有形に憶えてる。
ため息のカタチは様々にある。
星がまた、いない いない。一律には梅雨 細字の秒端、ほど、見晴らしのいい好感だけが、または梢の折れた新緑と設けれる。サンプルでもアンプルでも、一匙 見捨てたのか。つちくれにこさえた是等コラージュだが、大理石の暖炉にでも掲げて置いておくことにする。
揺り籠から墓場までと書かれた名前が独り歩きした、うろうろと螺旋を描いて、そして、それだけの集合知が娯楽街から病棟まで、ウミユリとつらなく。
減速した残響が 残り香がそれで採光窓を明けて
何処か結わえた海路の、その昔日を流れていった
そうだな、森を抜ければ橋が架かる。万彩の虚空が地を侵している。胸の内だろうこんなの。けれど連日のうつせみが焦がしている。ステロタイプの仮面が陳腐なストーリーを微笑いながら見やるときに。パンとバターと質素なスープを前に、モニターにうつされたポップカルチャーと転覆する泥舟をおおった。
――すべておなじ靑昊だ
2023 年 8 月 18 日
秘密
※ 【ダーク縛りの】短歌集です♡
背面から肉千切れるほどに齧るキミ 月のタトゥーが蒼い顔。やがて黄金
ねえ貴方 あたしの躰をゼンマイにメロディー奏で殺してほしい 野苺のアジト
コトバなど折り紙に包んで棄て去った二人のロケット還らぬ旅へ
小首傾げポニーテール斜め 貴方が欲しい まじないを今お百度参りと
兎2羽ピョンと跳ねてはディープキス結ばれずとも貴方が恋人
https://i.postimg.cc/sxktYRV1/mi-mi-wan-cheng.jpg
愛だけ
※ 某所で行われている『ダーク短歌の会』参加作品2作目です。
傷パクリ刃物を捨ててあたし棄て 呪えぬ恋慕 死体が追う
膝抱え団栗の二人口きけぬ声を失くして木の実に化けた
躰だけあたしのものでもかまわない 着物が空を靡くよ朱色
ねえ貴方 揚羽蝶の羽捥げた可哀想だよここに来て
長い髪ハサミでパラパラ貴方触った自慢の艶はいま旅に出た
歯の折れた女が一人笑ってるソプラノの風血洗う。慰めてやれ
狂添う曲 調律師不在 湖、波立つ ボートよ裏返れ憎め!花嫁を
鍵穴に薔薇の花挿し棘に啼く声はこだまとなり恋だけ愛だけ
https://i.postimg.cc/JnWKYj4p/aidake-wan-cheng.png
浸
月影は
横たえる窓 窓越しに
窓を覗き見 私の窓を
とどこおり
歪んだ音節に
そのまま
触れていた
うつむいて
濁りを
飲む
舌の先に
滞る
纏わりつき
離れない
乾いた
爆ぜ
苦さが
割れる
まだ
そこにある
── 碧井雫
#碧井雫
#詩
#現代詩
池袋の味
池袋の味 北岡伸之
十五年くらい前、池袋でよく中国料理を食べていた。まだ麻辣湯(マーラータン)がいまみたいに流行る前で、北口の雑居ビルの三階で、センマイなどの内臓肉や野菜を刺した串をプラスチックの汚れたカゴに取って食べた。1串80円だったと思う。
延辺料理にもよく行った。これは朝鮮族の料理で、乱暴にいうと、中国東北料理と朝鮮料理の融合したものだ。狗肉もよく食べた。犬を食うというと、いまではずいぶん大げさな話になるが、そのころは柔らかくてうまく安いので頼んでいた。池袋は中国東北部から来た人が多くて、店に入れば中国語ばかり聞こえた。上海出身の同僚を連れていったら、こういうのは田舎の料理だ、東北の人はストレスが強いから刺激の強いものを食べるんだ、と笑っていた。そういいながら、同僚は池袋に来たがった。
そのころ『民主文学』を購読しはじめた。民主文学というと工場や労働組合を書くものだというイメージがまだ自分にもあったのだが、竹内七奈さんの小説を読んで、こういうのなら書けそうだと思った。中国の同僚は日本人と結婚し、もっと大きな会社に転職した。俺は、自らの判断で一定のことができるようになった。ようやく、この世界で食っていけるかもしれない、小説も書けるかもしれない、そんな希望を持ちながら、池袋で東北料理を食べた。前菜は、狗肉のムチム(和え物)、鯉を辛いスープで煮込んだもの、クミンの粉をたくさんまぶして焼いた羊の串、じゃがいもの炒めも好きだったな。
それからずいぶん経った。俺は静岡に引っ越した。なんとか小説を書けるようになり、『民主文学』にも載るようになった。若い世代の文学研究集会に参加したついでに、久々に池袋に泊まった。
早朝、24時間やっている東北料理の店に入ると、ピカピカの生け簀に、鮑やナマコがいっぱい詰められていた。水晶のように磨かれた水の中に、もう鯉なんか泳いではいなかった。店内には、若い中国人の男女がまだ何組も残っていた。みんなブランド物のバッグを持って着飾っている。酒瓶の残ったテーブルでしゃべりながら、粥に油条(揚げパン)を浸して食べている。俺も粥を頼んだ。久しぶりに食べた池袋の味は、記憶にあるものよりずっと強かった。舌が痺れるような化学調味料の味と油と香辛料で、どっと疲れた。干した貝柱と白身魚で出汁をとった粥の味が恋しくなった。店が変わったのか、俺の舌が変わったのかはわからない。
大塚へ戻った。ランチ、分科会のみんなで貴州料理を食べにいった。大塚の駅前には、チェンダスウという貴州料理の名店がある。発酵させた菜っ葉と川魚のスープが出てきた。ほっとした。家庭料理の味だ。
俺はそのときふと思ったのだ。池袋や新宿は、若い街なのだ。ああいうところで朝まで騒ぐ情熱を、もう失ってしまった。そんなことはない、という思いもある。社会への怒りはある、小説を書く動機はある。トラロープで崩落した林道を突破して、蛭の濃い沢に行く情熱はある。けれどもう東北料理をあのときのように食べられるかどうかというと、すこし自信がないのだった。
価値
価値のあるものって何だろうね
最近、缶コーヒーにドラクエIIIのキャラの絵が載っているんだよね。
人によっては価値があるもので、僕にとってはほとんど価値がないもの。
キティちゃんなんかも、色々なものとコラボしているんだよね。
詩の価値、というのを最近よく考えてる。
もうさぁ、詩1本でやっていくのは正味厳しすぎるやろ。(今更すぎる)
だからと言って、詩を捨てる必要はないよ。
詩が存在できる場所を作ればいいじゃんね。
ドラクエIIIしかりキティちゃんしかり。
俺はやっぱり詩が全てなんだよね。
対象
あなたは
拾った
団栗を
揉んで
土に還す
その内の
一つくらい
わたしの
身体だったらと
後退りながら
自分の掌を赤くなるまで握る
GOD
愛は、適度適切
丁度良さを推し量る心と、その演出
その匙加減と、湯加減にあります
愛はいつも、助かるし
愛は、平易平凡
相応しきと好まざるを知り、それを検出
そこで得る知見と、発見の中にあります
愛は常に、心揺るがし
愛は、至極極上
高カロリーと、ハイテンション。そこで満足
鰻登りと腹下りを繰り返す、日常の中にあります
愛は、ヘイタクシー
愛は、義理と人情
手堅きと、得難きを大切にする。そんな現実
約束と責任感を大切にする、メロスの姿にあります
愛は、紫のギャラクシー
愛は、完全彫刻
彫り刻みつけて、見せつける。そんな芸術
思考する裸身に吸い寄せられる、エロスとしてあります
愛は姿逞し、嬉し恥ずかし
愛は、神々調和
争い突き破り、無限運動繰り返すものたちが、価値順位意味分類を選出
これで美しを決めるべくして作った、フィクションの中にあります
愛は常にクラシック
点滅
ケイコー灯を買って来よう
と思うのです
このところ家の中が暗いので
ケイコー灯を付け替えてみよう
と思うのです
一週間前からケイコー管の一本が部屋の中
パッ、
パーー、パッパン
点いたり消えたり
ずうっと以前からわたしたちの結婚や生活の周囲も
パッ、
パーー、パッパン
パッ、
点いたり消えたり点いたり消えたり
ついでに頭の中も
パッ、
パーー、パッパン
パッ、
パーー、パッパン
この状況は目にも良くない頭にも悪い
これではいけない家庭の中を明るくしなければ
明るいNationalパルックCool昼光タイプに取り替えてみよう
と考えたのです
だって生きている限りはわたしだって
さやかなりとも家の中を灯したい
(と希いたいのだ)
かすかなりとも光を求めたい
(と望みたいのだ)
そう……、信じ続けたいのだ
(だがここにひとつ大いなる問題があるのであって、現在のわたしがケイコー管を調達する資力に欠けている男だということ)
いつまで続く
パッ、
パーーー、パッパン
パッ、
パッ、
パーーー、パッパン
パッ、
*松下電器産業がまだPanasonicに社名を変更する以前、Nationalと称していた頃に書かれた作である。
「文芸投稿サイト運営論」としてのクリエイティブ・ライティング
皆様もお気づきだと思うが、最近、こちらのサイトの運営者はかつてのような活発さを失っている。運営者が前に出るスタイルをやめて、投稿者の自由に委ねている、というと聞こえはいいが、実のところ、シンプルにやる気を失っているだけではないか、というツッコミもあるだろう。いずれにせよ、エネルギーを持て余し、場を引っ掻き回すタイプの人間はすでにこちらを出禁にもなっており、良くも悪くも、「うるさくない」場が現出している。それを静かで快適な使い心地と評するか、停滞と感じるか、各人に委ねられている向きもあろうかと思う。
ご案内の通り、弊サイトの運営者は最近、暗号資産関連企業のCEOに就任しており、そちらが忙しい、と釈明している。しかし、忙しいからといって、投稿回数が減るということ自体が、文芸投稿サイトへの意欲が不純であったことの証左となっているのではないか。忙しい、とかいうありきたりな理由を盾に、手を弱める程度の情熱しかないくせに、偉そうに説法を垂れていたのかと思うと憤りもひとしおである。
あなたは文芸投稿サイトに何を期待したのですか?
私は当該運営者に質問をしてみた。あいつの理念だのなんだのに絆されて、運営協力をしてきた手前、文句をぶつける資格はある。貴方は人の上に立って偉そうにしたかっただけですか。場末の文芸投稿サイトで社会的承認を得たかっただけですか。社会的評価を得られない代償行為として文芸投稿サイトを運営してきたのであれば、いまやCEOとしてのポジションを手に入れた以上、文芸に関心を持てなくなったことも理解できる。
しかし、それならそれで、チンケで、きな臭い暗号資産企業の代表者になったくらいのことで文芸をやる気が無くなってしまいました、私は才能の欠落したクズの俗物の小物でございまして、末代まで笑ってやってください、この度は大変申し訳ございませんと、三つ指ついて、これまで協力くださった皆々様に土下座するくらいのことをやるのが筋ではありませんか。それさえしないのであれば、それをできない理由を、3つくらいの論拠とともに簡明に説明してください。
それに対して、返信が返ってきた。
「うれせえや」
最初、私はこれを誤字だと思った。うるせえや、と書こうとして、る、を、れ、にしてしまったのだろうと。文芸投稿サイトの運営という、言論の場を主宰しておきながら、都合が悪くなると、議論することそのものを忌避する。本当にどうしようもない低俗なゴミクズだったな。そう判断して、私はブラウザを閉じた。閉じて、風呂を沸かし、湯に浸かって、三十秒で飛び出した。
違う。
うるせえや、とは書かれていない。うれせえや、と書かれている。
件の運営者は人格的に様々な問題があるが、単純に投げ捨てるタイプの人間ではない。彼の異常に粘着質な性格を、私は誰よりも理解している。であるならば、うるせえや、と、うれせえや、の差異を読み解く必要がある。
うるせえや、は罵倒である。意味が確定している。言われた側は、傷つくか、傷つかないかのいずれかであり、どちらにせよ処理が可能だ。しかし、うれせえや、は意味が曖昧だ。辞書を引いても出てこない。私は五つの仮名の前で固まってしまったのである。
さらにいうなら、うれせえ、には、嬉、がある。
黙れ、と、嬉しい、が、同時に成立している。拒絶と歓喜が、一語のうちで分離できない。これを表現しうる語を、私は他に知らない。日本語はもちろん、英語にもないはずだ。shut up と I'm glad を同時に言える単語は、人類の言語史上、おそらく存在しなかった。
私はその夜のうちに「「うれせえや」論——拒絶と歓喜の未分化について」を書き上げ、当サイトに投稿した。三万字あった。
ここから先は、皆様もご存じの通りである。
三日で、当サイトの投稿の三割が、うれせえや、になった。一週間で九割になった。二週間後、運営事務局は「本文が『うれせえや』のみの投稿の取り扱いについて」という注意喚起を掲示したが、その注意喚起は、うれせえや、で終わっていた。
当サイトが提携しているしろねこ社から『うれせえや』が緊急出版されたのが、翌月である。現代詩手帖が特集を組み、私はそこに「うれせえや以後」を書いた。うれせえや、には以前と以後がある。実際そうだったのだから仕方がない。
賞は、三つ取った。受賞者がいないので、賞は、うれせえや、に授与された。授賞式では、うれせえや、と書かれたパネルが壇上に置かれ、出席者全員がそれに向かって「うれせえや」と金切り声で絶叫した。識者は皆、こんな造語が注目されていることに憤っていた。真剣に、もう皆黙ってほしいと思っていた。同時に、久々に文芸が脚光を浴びて、嬉しかったのである。その場の全員の感情が、そのとき、うれせえや、になっていた。字義通り、語が、現象を発現させたのである。
そして金融庁である。
当該運営者の企業が、うれせえや、をトークン化した。$URESEEYA である。文芸的価値を裏付け資産とする、と目論見書にはあった。上場初日に三十倍になった。私は金融審議会の作業部会に参考人として呼ばれ、うれせえや、に内在的価値が存在するか否かについて、三時間の説明を求められた。私は委員の先生方の前で、うれせえや、を連呼した。
うれせえや、の内在的価値を問われて、うれせえや、と返す。これが、うれせえや、の内在的価値である。速記録には、うれせえや、と三万回記載されている。
あなたは文芸投稿サイトに何を期待したのですか?
私は、もう一度、当該運営者と話したいと思った。あのサイコパス気質の男は、結局いま何を考えているのか。アポイントを取り、六本木の、ガラスばかりでできた建物へ行った。受付で名を告げると、三十階に通された。
部屋には、身長百九十センチ、体重百五十キロの、不潔な大男が座っていた。ソファのほうが小さく見えた。鼻毛が、十センチほど出ている。
「田伏正雄と申します。運営代行です」
私は座った。座るしかなかった。
「では、あれを書いたのは」
「私でございます。あの、私、指が」
そう言って、田伏は右手を上げた。親指が、私の親指の三本分ほどあった。
「フリック入力でございまして。ら行は、真ん中が、ら、上に弾くと、る、右に弾くと、れ、でございます。上と右が、近うございまして。私の指ですと、どうしても、右に」
三十階なので、外の音は入ってこない。田伏の呼吸だけが聞こえていた。
「では、うれせえや、というのは?」
「うるせえや!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
田伏は絶叫し、灰皿を投げつけてきた。
灰皿はガラスの壁面をぶち破り、けたたましい音とともに三十階の外へ出ていった。
それから田伏は、手元にあった瓶にライターで火を入れ、手際よく火炎瓶をこしらえると、四方八方に向かって投げた。
火炎瓶が爆発し、フロアの底が抜けた。あとは、凄まじい騒音とともに、順に落ちていくだけであった。
私は瓦礫の下敷きになった。
なぜか生きてはいたが、身動きはできなかった。
数日が経った。
もうこのまま死ぬしかないと半ば諦めていたが、耳をつんざくようなブルドーザーの音とともに、私は救急隊に救出された。
そのとき、自然に、内から湧き上がる感情として、こう思った。
「うれせえや」
以来、私は文芸投稿サイトの運営協力をやめた。
サイトはじわじわと荒れた。気づけば、昔、アクセス禁止にした面々が戻ってきている。誹謗中傷と、罵倒語と、ときに闊達な議論とが、同じ画面に並んでいて、少しずつ人が去っていく。
あの人はそれを見て、うれせえや、とでも思ったりするんだろうか。
あなたは文芸投稿サイトに何を期待したのですか?
健康について
健康についてこれから書きます
皆さん、健康は好きだと思います
私も好きです
だって健康は体に良いから
だから私も好きなのです
皆さんは健康と聞いて何を思い出しますか
あるいは健康という文字から何を連想しますか
あるいはその匂いから何を導きますか
人によって違うことでしょう
皆さんが三人なら三通りの
十人なら十通りの
一万人なら一万人通りの
健康があります、あるはずです
そうでないと困るのです
だって健康は体に良いし
私も好きだから
百万人なら百万人通りの
一人の通りとして
私にも好きでいさせてほしいのです
ここで一息つくので水を飲ませてください
水は体に良いのです
つまり健康に関連しています
栄養が沢山入っています
だから体に良いのです
少しイメージしにくいと思いますので
そうですねゲームのRPGに例えてみます
皆さんゲームは好きだと思います
一日何時間ゲームをしますか
あるいはやらされますか
一千万人いれば一千万人通りの
拠のない事情があることは理解しています
皆さんもそのうちの一人の通りとして
理解していただけると助かるのです
それで水の話ですが
体力とか攻撃力とか防御力とか
いろいろあるじゃないですか
パリメータとでもいうのでしょうか
私はゲームをしないのでわかりませんが
パルメータ、それが水を飲むと
全部が健康になる感じ
そう言えばわかりやすいと思います
私はゲームはしないのでさっぱりわかりませんが
ゲームが好きな皆様ならわかると思います
健康が好きな皆様ならわかると思います
ですのでアイテムで水をゲットする機会があれば
道具屋か宝箱か知りませんが
必ずゲットしてください
これはゲームの裏技の一つです
先程ゲームの裏技に三つあると書きましたが
二つ目はクヨクヨしないこと
最後に三つ目は運動をすること
体を動かすことはパレメータの健康につながります
これでラスボスも大丈夫ですが
大抵はラスボスも健康だそうです
ラスボスが何をしている人か詳細は知りません
けれどきっと水を沢山飲んでいるのでしょう
ここまで長文にお付き合いいただき
ありがとうございました
皆さん、病気と怪我には十分注意してください
病気や怪我は健康に良くない
そんなデータもあります
正確に言うと、あるそうです
それでは今日最後の曲を聴きながらお別れです
「魔王軍のテーマ」
リスナーの皆様、おやすみなさい
一億人通りの良い夢を
創作物の穴は欠点なのか、余白なのか――目的の強度を高める物は何かについて
※発端
魔法文明世界に銃を登場させてよいか、という議論をSNSで見かけた。「現実にも先端都市から未開の奥地まであるからOK」という発言に対し、ある書き手が違和感を表明していた。曰く、現実世界のどんな未開の地であっても物理法則という同じレールの上にある。しかし魔法文明は根本からレールが異なる。ゆえに発展格差があったとしても、それは異質な原理体系の混入を正当化する論拠にはならない、と。
この指摘は局所的には正しい。発展段階の差と、原理体系そのものの越境は別の問題である。だが、この整合性への態度そのものが、物語の本質から一歩ずれているのではないか、というのが本稿の主題である。
※何十年経っても色褪せないもの
アイザック・アシモフのSF小説『ロボットシリーズ』や『銀河帝国興亡史』(ファウンデーション)シリーズは、初出から半世紀以上を経てなお読まれ続けている。だが、その強度は世界設定の物理的無矛盾性から来ているわけではない。
ロボット工学三原則は、なぜその三条でその優先順位なのか、世界内的な必然性はほとんど説明されない。陽電子頭脳の駆動理論も、ついに書かれることはなかった。心理歴史学にいたっては、統計的な神秘主義を「科学」と呼んでいるにすぎない。それでいて、その完璧なはずの計算体系に「ミュール」と言う計算外の超能力者をあえて放り込み、論理のレールを脱線させることで、物語はむしろ真の強度を獲得している。月面基地のセレン光電池で書かれており、今日の目から見れば技術的には時代遅れだが、それでも今読んで何の問題もない。これらの細部のどれ一つとして、物語が本当に問うていることの中心ではないからだ。アシモフが徹底して追い詰めたのは、一度立てた前提——三原則という不完全な公理、予測できるかもしれない歴史という仮説——を、都合よく緩めることなく最後まで誠実に辿りきる、という一点だった。技術的細部は風化する。だが、その追跡の誠実さは風化しない。
※何を固定し、何を空白にするか
ここから導かれる結論は単純である。設定の未確定は欠陥ではない。単に、その物語がそこを必要としなかっただけだ。
逆に言えば、何かを書き込むという行為そのものが「ここは物語にとって不可欠だ」という宣言になる。だから本当に問われるべきは、世界の隅々まで辻褄を埋め尽くす網羅性ではなく、何を固定し何を空白のままにするかを選び分ける判断力である。この選別こそが、書き手の意志表明そのものだ。そしてその判断基準は物理的な無矛盾性ではありえない。基準になり得るのはただ一つ、「その詰めが、書きたいテーマにどう奉仕するか」だけである。
※非対称性がテーマに食い込むとき
荒川弘の漫画作品『鋼の錬金術師』は、この判断の好例である。錬金術という超常的な技術体系と、銃器を含む近代的な軍事体系が併存している。その両者の技術的な発展過程を、現実世界の近代史と同じ密度で説明しているわけではない。
だが、この併存そのものを物語の主要な問題として検証する読者は、少なくとも作品の中心的な読み方ではない。物語が力を注いでいるのはそこではないからだ。錬金術師という桁外れの戦力がなぜ国家の軍に組み込まれ、なぜイシュヴァール殲滅戦に投入されたのか——この力の非対称性は説明放棄されるどころか、登場人物の罪と沈黙という物語の倫理的重心そのものを形作っている。等価交換の原理も人体錬成の禁忌も、テーマに直結する範囲でのみ精緻に設計されており、それ以外の熱力学的整合性は端から問われもしない。
異質な体系の共存そのものは何の障害にもならない。障害になるとすれば、それはただ一つ、「なぜその主体がその手段を選んだのか」という選択の必然性が描かれていない場合だけである。
※即時性が反転させるもの
では、なぜ設定の網羅性そのものが自己目的化するのか。一因として、即時に不特定多数から論評される発表環境の構造がある。
コメントやリプライで指摘が即座に可視化される場では、物語の深部にあるテーマ的必然性を読み解くより、表層の「ツッコミ」耐性を確保するほうが、離脱や炎上のリスク管理として合理的になる。設定の穴を見つけることは物語全体を咀嚼するより低コストで、しかも指摘者自身を「わかっている読者」として可視化する。この相互作用が積み重なり、書き手はあらかじめ穴を塞ぐことを覚え、その防御済みの状態が次の書き手にとっての当たり前の水準になっていく。誰も明確に「テーマより設定を優先しよう」と決めたわけではない。無数の小さな合理的選択の総和として、界隈全体の可能性の幅だけが静かに狭まっていく。
※余白はどこから信頼されるか
ただし、ここには厄介な問題が残る。読者は作者の頭の中を直接覗けない。ある空白が意図的な選別なのか、単なる書き漏らしなのか、その違いをどう見分けるのか。
答えは自己申告にはない。「ここは意図的な余白です」という宣言そのものは何の担保にもならない。信頼は別の場所から来る——その作品が実際に詰めている箇所の精度である。『鋼の錬金術師』が等価交換と人体錬成の禁忌をあれほど執拗に詰めているからこそ、読者はそれ以外の整合性の不在を「怠慢」ではなく「選択」として受け取る。空白そのものに力があるのではない。詰めるべき箇所を詰めているという実績が、他の空白の信頼性を裏書きしているのだ。
これは校正やトレーサビリティの発想とも重なる。すべての項目を等しく管理することでは信頼性は成立しない。どの項目を厳密に管理し、どの項目をあえて対象外とするか——その選定の妥当性こそが、記録全体の信頼性を決める。空白は、埋め尽くされていないことによってではなく、詰められている部分の質によって、初めて「意図」として読める。
そして、この識別には時間がかかる。ある書き手のどこが厳密でどこが空白かを見極めるには、その蓄積を通読する必要がある。だが即時の可視化環境は、この蓄積を参照する猶予を読者から奪う。目の前の一点の穴だけが切り取られ、その作者が別の場所でどれほど精密に詰めてきたかという文脈は、コメント欄には現れない。だからこそ、表層のツッコミ耐性を先回りして確保することが、個々の書き手にとって合理的な防御になる。悪循環の起点は読者の怠慢でも書き手の弱さでもなく、蓄積を参照するコストが構造的に無視される発表環境そのものにある。
※目的と監視項目
書きたいもののために決めるべきことは、世界の隅々を埋め尽くす精緻さではない。何を書くために、どこを固定し、どこを空白のままにするかという判断そのものである。設定は目的に従属するのであって、目的が設定の充足度に従属するのではない。
これは、わたしが日々の仕事で計量標準やトレーサビリティに向き合う態度とも地続きである。校正記録も検証手順も、今この瞬間の評価のためだけに積み上げるのではなく、何十年後かに誰かが検証し直せることのために積み上げる。即時の評価に耐える設計と、時間に耐える設計は、根本的に別のものだ。十年後に読んでも心が動くかどうかは、設定の網羅性では測れない。セレンの光電池が今も平気なように、心を揺さぶる核さえ保たれていれば、周辺の細部がどれほど古びていようと、あるいは最初から書かれていなかろうと、物語は成立する。
※結論
冒頭の問いに戻ろう。魔法文明に銃を出してよいかは、銃という異物そのものの是非では決まらない。決めるのは、その書き手がそれまで何を厳密に詰めてきたか、という実績である。その「銃」が物語のテーマを撃ち抜くために必要であり、かつその必要性を裏づけるだけの精度をどこかで示せているならば、物理法則のレールが異なろうともそれはもはや矛盾ではない。空白や矛盾を恐れて整合性の檻に閉じこもるよりも、その異質さが生む摩擦こそを、物語の推進力へと変えていくべきなのだ。その誠実さこそが、時代を超えて残る強度となる。
――了
ナカタサトミの東京ダイアリー
6月29日
いよいよ岡本のマンションを片付けてしまわなければいけない。大阪の左翼活動家の女性Sを呼んで手伝ってもらい、なんとか終わる。감사해요。ピザをとっていっしょに食べた。
6月30日
元町のクリニックへ。主治医の小林和先生におわかれを言いに行く。故・安克昌先生とも交流が深かった、とにかく患者思いのドクター。お世話になりました。
夜、共産党員の母と最近のアクティビズムの動向について電話。家族としては全然うまくいかないけど、同志のような感情は強くある。その後、大家のOに鍵を返す。Oは60代前半のハンサムな男ともだちで、神戸ではなにかと面倒を見てくれていた。あさひてらす掲載の私の詩にも複数回登場している。少しメンヘラで可愛い人だ。私と違って「ガチ」ではないところが付きあいやすい。
解散後三宮のユニオンホテルにチェックイン。ここはカレーが名物。私も大好きだ。
7月1日
東京でしばらく暮らすウィークリーマンションの鍵をヤマトの営業所まで取りに行った。この夜もユニオンホテルで過ごす。怠惰な一日。寝る前に恋人のKくんと電話。東京での生活のことなど。
7月2日
新神戸発の新幹線に乗る。いろいろ後悔が押し寄せる。もっと三宮や京橋や十三で遊べばよかった。SMバーにも結局二回ほどしか行かなかった。十四時ちょっと過ぎに東京駅につき、快活クラブにチェックイン。なんだか具合が悪くなり、複数回嘔吐。近くの内科に飛び込んだら胃腸炎とのこと。採血と注射と薬で三千円ほどかかった。よりにもよって慣れない土地で…。
7月3日
今朝は体調がいい。ネカフェだから漫画がいっぱいある。『みいちゃんと山田さん』を最新刊まで読み終わり、『よつばと!』を読みはじめる。よつばは幼少期の私そっくりだ。『住みにごり』も10巻まで読んだ。
明日入居を予定していたマンスリーマンションの部屋の隣室から水が吹き出し、ベランダがずぶ濡れとのこと。マンションと部屋が変更になる。不動産屋さんがたいそう申し訳なさそうにしていたが、急すぎて困った。
夕方、Kくんが、飲むゼリーとかパンとか買ってきてくれた。
7月4日
『よつばと!』16巻まで読み終わる。
Kくんと駅前で待ち合わせて鍵の受け取りへ。マンションに到着後、いろいろ必要なものを買いにスーパーにも行った。
夜、テレビで地球ドラマチックを観た。セイウチの話だった。
7月5日
早寝したので朝も早く目が醒めた。
K君が来て、隣町のダイソーまで連れ出してくれた。お昼は夢庵でお蕎麦。引っ越しだしね。私が日高屋というお店を見て不思議がっていたら、タンメンについて解説してくれた。まだ食べたことがない食べ物だ。
夜はやっぱり早めに就寝。
7月6日
郵便局で転送届を出してきた。今回はちょっと手続きが煩雑だった。夜、クロネコヤマトで引越しの荷物を受け取り、Kくんと近くのスーパーで買い物。
7月7日
1日かけて部屋の片付けをした日。ベッドサイドには聖書をおく。昼は焼きそばを作って食べた。もやしも入れたらよかったな。
あなたは寄留者を虐げてはならない、という言葉が引っ越し続きのここ2、3年でよく響く。移動しつづける生き方はやっぱり少し心細い。トランプ大統領を支持するキリスト教保守派の一部の人々は、非正規滞在を硬直的に取り締まる彼の移民政策をどう考えているのか。
7月8日
よく晴れた朝。掛け布団をベランダに干した。午前中は公募に出す詩をいくつか書いた。勘は鈍ってない。
午後はまずはダイソーに行った。引っ越しの前にだいぶモノを減らしたから、足りない生活用品を揃える必要がある。
夜、Kくんがきてスーパーでの買い物に付き合ってくれた。
7月9日
今朝も晴れ。午前中はだらだら。昼過ぎにやっと起きてメイクをし、隣町で買い物。どこになにがあるか少しずつ覚えはじめ、夜にはコインランドリーに行った。いつかコインランドリーの詩を書きたい。
7月10日
東京は危険な暑さ。うう、メイクがどろどろにとけるから夏はツラい。
いろいろ準備をして、夜、Kくんにトマトポトフとハーブティーをふるまう。
8月19日
・女の肉体のヴァージニティへの異性愛男性の執着あるいはそれが喪われたことへの非難は、己をまるごと受け容れる余白を性愛の対象に求める退行的な欲望であると思う。コントロールできる相手を必要とする点で共通するロリコンとマザコンは矛盾することなく一人の異性愛男性に備わる可能性がある。
・いわゆるミサンドリー、より解像度を上げるなら男性性嫌悪の害はけっしてそれ自体のみにとどまらない。人種化された男性性の序列において周縁にある男性ジェンダーの人々へのゼノフォビア的反応を引き起こしたり、男児、精神障害があるとされた男性、貧困の状況にある男性などへの攻撃性の発露につながりうる。
・グルーミングをともなう性被害を受けた個人には複雑な反応が起きうる。加害者への引きつづきの愛着や、行為の際に生じた身体的快感・性的興奮への肯定的評価、加害者に似た対象・被害に似たシチュエーションへの嗜好や接近しようとする衝動を病理として切り捨てることはしばしば回復の名のもとに正当化されるが、私は司法上の手続きとは別に再検討が必要だと考えている。加害行為の責任を問うことと被害者の内面に残った欲望・愛着・快感・再演衝動をどう理解するかはまったく別問題である。
近況
・Kくんと多摩六都科学館に企画展を観に行った。
・『オークストリートの異変』も一緒に観に行った
Kくんは文学は『走れメロス』くらいしか知らないし、短歌と俳句のちがいもわからないし、なんだかんだ生活保守的だし、ご両親やおじいちゃんおばあちゃんに愛されて育った、まるで別のクラスタの人だけども私とは海洋生物と古生物が共通の趣味で、人間を生態系のなかで相対化して捉えているところがアツい。あと、私とちがって数学ができる。
8月20日
・私はアンチナタリズム的発想から、誕生日を祝うことをどきついブラックジョークとして楽しんでいるけど、Kくんは10月の私の誕生日のプレゼントはなにがいいかとほがらかに訊いてくる。なんか本当にちがう星の人みたいだ。
・未就学児のころ両親(二十年近く前に離婚済み)の間には、母から父に対する深刻なDVがあって、そのなかには、父の性器に縫い針をちくちく刺すとか裁縫用のハサミで去勢の真似をして威嚇するとか性的なニュアンスの濃い行為も多かった。生まれさせられたことについて、父をそれほど恨んでいないのは、彼らの「夫婦生活」が強要をともなうものだった可能性を排除できず、むしろその可能性のほうが高いからだ。
・左翼やリベラルの個人が望んで子どもをもうけるというのが理解できないししたい気持ちもない。出生ほど反民主的な営為があるだろうか。
・私が戦争や差別に反対する理由は、人類は属性に関わらず等しく殺されるべきと信じるからである。パンデミックで人間だけが死んで、動植物のユートピアになってほしい。たぶん、「普通の左翼」のテーマは一緒に生きよう!だから相容れない。
・特定のコンテンツを好きだとか楽しいとか感じる心が私にはなんと二十代半ばまですごく乏しかった。友人から恋人、夫からふたたび友人へと関係のかたちを変えながら十年近くをともにしたYの自死を経験するまで喪失の悲しみも同様に希薄だったといえる。弔いという行為の意義や遺体損壊がなぜ罪とされるのかも理解不能だったし。当然宗教や神を信じていないまま、ただ罰せられる恐怖におびえていた。「快」とはそれをしているとき殴られたり触られたりしないことで、対象への興味ではなかった。
・歴史好きの人々が理解できない。ニッポンスゴイ系ショート動画のように特定の有害な感情を満足させるためのコンテンツを好まないのはもちろん、「被害と加害の歴史と向き合って世界の人々と手を取り合いましょう」というのも、人類への愛に着地しているという点で私の実存とは相容れない。歴史を学ぶことは責任であって、決して楽しいものではあるまいに。博物館の展示でも、人類とかいう畜生が現れる前のほうがわくわくする。
・人間中心主義に怒りをもつ私がなぜヴィーガニズムに向かわないのか。この怒りは主に、人間が自らの同胞のうちに標的をたやすく発見し、意識的あるいは無意識的にコントロールを奪い搾取する光景に対する怒りだからだ。人間をあくまで動物という立場においたうえで(つまり下駄を脱いで)ほかの種を食べる行為を、倫理という人間がこしらえた価値観で裁くことに正当性を見出せない。それはそれとして、活け作りはどうかと思っている。
・反出生主義と不妊治療について思うのは、子どもができない身体ではなく、子どもが欲しいと思わせる社会を問うべきだということだ。ヒトの出産はきわめて危険で、社会的な面や経済的な面以外でも損失の大きいものであって、個人はこれに同意できない。同意とされているものは同意ではない。しかし、なお積極的に子どもを望む子宮をもつ人がいる。これが社会の病理でなくてなんだろう。
・秘密を打ち明けることは相手に訳者の資格を与えてしまうことであり、ここに自傷的な側面があるのは否定できない。秘密を打ち明けられた者には、訳しすぎない責任がある。
・小林多喜二のドキュメンタリーを母と一緒に観たり、休みの日に九大の医学歴史館に連れて行かれ生体解剖事件の調べ物をしたりする一方で、いのちを繋いでいくことの無謬をヌルッと信じている家庭で被虐待児として育った私にとっては「ご先祖様」を憎んでいいというのはエポックメイキングな発見だった
(ジェンダー周辺についての意見表明のていで自分の娘の月経や下着にやけに執着する反天主義の人物に出会いセクシャルハラスメントを受けたという衝撃的な体験も、社会問題への態度と私生活のちがいについて考える起点になったと思う)。
近況
・書き忘れてた。2日前に初めて眼鏡作った。いままで裸眼で耐えてたけど私はド近眼だ。
・きょうの夕食は麻婆豆腐を作った。
8月21日
・『ヘタリア』再炎上で、私が小学生のころある県民性漫画におぼえた不快感の理由が腑に落ちたかもしれない。歴史とは血生臭いものであり、それを擬人化して大っぴらに楽しむべきではないという意識。その作品では沖縄がふわふわ天然美少女として描かれていて、いま思えばゴーギャンがタヒチの女たちに向けていた視線と通じるような気もする。
・ただ、私もセックスにありつきたい一心で、高齢の話し相手に好きな歴史モノを訊かれて、一冊も読んだことがない司馬遼太郎や、権威主義や勧善懲悪の設定がむしろ嫌いだった水戸黄門、大岡越前などのドラマを答えたら、後日SNSでボロクソ書かれていたのを見つけたことがある。その人は新左翼だった。
・でもその人、ほぼ初対面で「九州の女性は抑圧されていて〜」とエンパシー"風"の発言かましてきたんだよね。田舎娘に対する歪んだ発情の一種だと思う。ご縁がなかったんだな。
・Kくんは私が通信制大学でユニバーサルデザインの授業を受けたという話をしたらおもしろがってくれた。高齢のおばあちゃんと同居している彼にとっては気になるテーマだそう。私は祖母が点字ボランティアをしていたこともあって身近だった。シャンプーやリンスの例ではいわゆる「健常者」にも使いやすいデザインになっている、バリアフリーとは少し違う、みたいな話もした。
・ご両親が旅行好きで国内外のあちこちに行っているKくんは、子ども時代香港でA型インフルエンザに感染し、現地の病院に受診できたときの話をしてくれた。外国人旅行者を受け入れるなら、適切な医療を提供する責任もあるとも言っていた。もちろん日本もだと。私もそれはそうだと思った。
・私は口頭の会話で「パレスチナ」を「イスラエル」とか、「分祀」を「合祀」とか言い間違えることがあり、コトバの左右盲と呼んでいるのだけど内容によっては深刻なトラブルになったりしてすごく困っている。
・意見の保留やある話題に言及しないことを、思想の弱さとして指弾する傾向は、SNSと社会運動の無批判な結びつきが生み出したサディズム的病理であると思う。エイブリズム、コミュニケーション能力をもって人間の価値をはかろうとするメリトクラシー、および知的誠実さの軽視。
・ウィークリーマンションのエントランスに私のとっておき(普段使いではない)の香水のにおいが充満しており、使った記憶がここしばらくはないので、自分で把握できないまま外出をしている可能性が出てきた。Kくんに伝えたら少し慌てていた。私はほかに同じ香水を使っている人に出会ったことがないし、日本ではマイナーな商品だと思う。
・おっとっとやパックンチョ、コアラのマーチなんかを食べるとき一瞥もせず口に放り込み、それを退屈だとも思わなくなったら、感受性の仮死だ。
8月22日
・エンパシーに課題を抱えた人のこだわりが「人間」に向かうとき、方向性が愛であってもおそろしいと思う。人間のために、個人を踏みにじることをためらいなくできてしまうから。
・私には、年上の女性への怯えと、男性を憎まなければならないという強迫観念に近いものが内在されていて、「祖父を受け入れてしまった」ことへの根の深い罪悪感が起点だと考えている。祖母が私を庭の木に縛ったり、爪の間に針を刺したり、異常な行為を繰り返していた根底に、彼女が男性に対する憎悪を抱えたながら育つなかで唯一許容できた男性を孫娘に奪われたという怒りがあっただろう。その歪で膨大なエネルギーを照射されて育った存在であるから、ミサンドリーとミソジニーを乗り越えるさしせまった必要が生まれたのだ。いま思えば祖母はフェミニストというよりフェモナショナリストでありエリート主義者であり正当化しがたい支配欲をもてあましている大人だった。
・ある有名女性作家が晩年、電車内で高校生に声をかけて戦争の悲惨さについて語るという行為を繰り返していたという。逃れがたい状況で逃れがたい相手に心理的負荷の高い話を一方的にすることの問題と、作家の経験のトラウマ的性質や「不審さ」の意義について考えた。
・有名作家複数名によるエロチカのアンソロジーを読んでいたら、私と漢字は違うけど読みが同じ名前の女がそれぞれちがう作者の作品に2人出てきた。CPのどちらかが父親と同じ名前のBLに萌えないのと似て、すけべ心があっという間に霧散したよ。結局、文学として真面目に読んだ。
・「動物園でキリンさん見たよ」と言うように、「ナカタサトミを見たよ」と言われたい夜がある。
8月27日
・草間彌生が死んだ、14日
・己がもはや、乗り越えられるべき権力を備えてしまったことを受け入れないままに、反権力をやろうとする男、さらにその経験と知の魔術でもって、数年前まで少女だったような同志の女と交わる男。そういう男たちを私は憎む。
8月28日
・私とKくんはいま同棲する部屋を探している。昨日散歩中に防災のことを話し合っていて、「港区は一部が埋立地だ」とKくんが教えてくれた。「港区の女の人の顔も人工物だもんね」と私が言ったら、彼は狂ったように笑っていた。私自身は顔にはエラボトしか打ったことがないが、近い将来咬筋切除もやりたいと思っている。そして歯列矯正もしたし、アポクリン汗腺も取ったし、脱毛もしているから主に首より下はわりあい人工物なのだけれど、顔や身体を編集することに不道徳なあるいは滑稽なイメージが付与されやすいのはなぜだろう。でもそれらが完全に取り除かれたら、巨大資本の思う壺だ。「男性のためではなくあなた自身の自己肯定感のため」という、ファストなインターネットフェミニズムと共犯関係にある甘言よ。私は異性愛と同性からの承認にありつきたいだけ。
・革命のため、国家のため、階級のために人間を同意なしにこの世界へ呼び出すことを正当化できるか?
いいや、できないね。
・ホモソーシャルを突き詰めると、ホモエロティックに近いものになってしまうのは皮肉だ。「俺たちは女が好きな男同士だ」という確認を繰り返すこと自体が、逆説的に男同士の親密さを強調する。
・18禁表示って、実際に子どもに読ませないためよりも「ポルノを読み解くリテラシーがなければ危険だよ!」というメッセージを送るために必要なんじゃないかと個人的には思っている。
・ロリ漫画はロリ漫画でも私はいちゃらぶより「加害する側の惨めさ」がしっかり描かれたロリ漫画を評価する。惨めな男が大好きだから。
・昨日左上の奥歯を白い詰め物でうめた。「次は〜しますよ」と先生がまめに説明してくれたおかけで、比較的リラックスして治療を受けられたように思う。人体に触れるときの工夫。
9月2日
・「さす九」(コロニアリズム),「男が産めるのうんこだけ」(性差別、トランスヘイト、出生主義、エイブリズム)
フェミニズムと保守の奇妙な〈連帯〉、だ。
・オイに逆らうなばい‼️
どしどし使っていきたい表現。
・「逆に言うと、おたがいの魂やトラウマや性的嗜好や政治に関する話は、セックスの相手とはしないほうがいいのではないかと最近思う
そういう話は、セックスはしないにもかかわらず信頼できる相手(親友または主治医)とするべきなのだが、親友とセックスしてしまったらもう仕方ないからセックスしつつ話」(二村ヒトシのXより 2026/07/22)
精神科医と患者とか師と教え子とかの間でセックスしてはいけない理由が詰まっている。社会運動の仲間とするのも私は近親姦的な暴力性があると思う。
・SNSが若者たちに失敗を恐れさせてる。だって、残り続けるから。学生運動全盛期の年長者と話すとそのへんの感覚があわないことが多い。
・若者と"対等に"話そうとするベテランたちの存在もとても怖いよ。私は口頭での会話が苦手だから特に思う。年配の男性が意見交換をしたいと近づいてきて、あとで感情労働させられたなといやな気持ちになることも多い。政治的な話題って、逃げられなさがある。その中で搾取されてもなかなか怒りづらいし。
・異性愛者であることが祖母に対して申し訳なくて、とても生きておれないような気持ちになる瞬間がある。祖父とのインセストについてもそうだし、とにかく男に負けるな、やられる前にやれと教えられて育って、出会い系サイトで知り合ったマゾヒストの男の人たちを縛り上げたり、噛みついたり、鞭打ったり、お金を巻き上げたりしてみたこともあるけれど、結局これも変形した奉仕ではないかと思って罪悪感からは逃れられなかった。
・祖母は並外れた潔癖症でもあって、私の小児自慰を罰するために焼いた縫い針を爪の間に刺すというような蛮行も厭わなかった。私は性について歪んだ意識をもっている自覚がある。
9月3日
・誕生の不可逆という性質、ヒトのお産の重さを考えると、子どもを産みたいとかパートナーに産ませたい欲望は精神疾患の重篤な症状ではないのか。生殖はおおよそ判断能力が十分な存在のとっていい行動とは思えない。
・反出生主義者がマタニティマークをつけた人に電車で席を譲るのは、精神疾患をもつ人への配慮として正当化される。
・日本は事実上の国教(神道)がある国であり、私はそれにバプテストの求道者としてというよりも、民主主義国家の主権者としての危機感をもっている。公立学校の子どもたちの学習権を妨げるおそれのある国歌というものをまずなくし、あるいは極力ニュートラルなものに変更したうえで、皇室は宗教法人として独立すべきだ。
・私は反出生主義者であるけれども、信教の自由に鑑み皇室(≠天皇制)の存続については異論はない。ただし、生殖という不適切な手段での後継者の確保はやめて、とくに社会的に弱い立場にある人々で希望する者のなかから祭祀の担い手として養子に迎え入れるべきだと思う。世襲はいかなる歴史的背景があろうと正当化されない。
・私が反出生主義をさらにまじめにやろうとすれば、もちろん右には落ち着けないし、未来志向の左翼にもずっとなじむことができないはずだ。その結果できあがるのは右でも左でもないとうてい普通とはいえない日本人になる。
9月4日
・8歳のときのASD診断と直後の本人告知については、自分がどんな人間か自分で確かめてみるより先に、定義する言葉を一方的に与えられた体験として私は受け止めている。
診断名を開示するしないは当事者が決められるべきことのはずなのに母にゆだねられていたし、私自身誰にでも言わなければいけないような気がしていたので、それらの事情によって多くの不利益を被ったり危険な目に遭ったりした。
母やほかの大人、当時の書籍などから発信される「人の気持ちがわからない障害」というイメージを強く内面化して、罪悪感から、譲るべきではない場面でも譲るようにもなった。
母が私を育てる苦労について話すときどこかイキイキしていたために、半ば意識的に「らしく」振る舞うようになってしまい、そのような行動の癖はいまも残っている。
児童精神科にかかるかどうかをめぐって母と祖父母との間の暴言暴力をともなう対立を見たこともある。
全部つまずきになっていて、取り除かなければ先に進めないような気がする日があるが、そうだとしたら生きる甲斐がない。
・小学校低学年のときにアスペルガー症候群の診断を受けた過去があると、SMコミュニティで知り合った人に告げたところ、ASD者には高度な非言語的コミュニケーションは難しいと思うからまずは「普通の友人」づくりやセックスワーカーのサービスの利用を考えるべきだと一方的にアドバイスされとても傷つく経験をしたことがある。性の世界で信頼関係やコミュニケーションの重要性が強調されるなかで、"人との関わりに難がある"と規定された人間はどのように生き延びればよいのだろう?という疑問をもっている。性教育はエイブリズムを克服する必要がある、とも。
・祖父から性的虐待を受けつづけるなかで、自分の身体が欲望の対象になるのが嫌になり、半ば意識的に過食症におちいったと私自身は認識している。それでも一応吐いてみたり、下剤や浣腸を使ってみたりしていたけれど排出しきれずに、一時は155cm89kgにまで体重を増加させた。結果としては、欲望の対象からは降りられないまま男性によりぞんざいに扱われるようになっただけだった。そこであきらめがついて、どうせなら魅力的だと思われたほうがよいと考え、標準体重に戻すことができ、現在も維持している。
9月5日
・子どもが親を親として愛する、それはあくまで立ち向かうべき病だと私は思う。犯された女が犯した男を愛してしまうような、かなしい性質の感情だから。
9月7日
・人々が生殖をただちにやめれば、家父長制にピリオドを打つためのシナリオを一気に加速させることができると思う。子どもを育てる喜びなどと宣っている左翼がいたらそいつはフェイクだ。
・同棲の準備とバプテスマの計画を進めている。家具家電のプライスカードと聖句とが交互に浮かんでいってはぷかぷかと頭の上を漂っている感じだ。
9月8日
・子どもをもつ人々は以下のような人々だ。悪人、改悛した悪人、犠牲者、それらのうち複数の要素が入り交じった人。
・親が人権というものについて少なくとも表向きには豊かな感受性を持っているのに子にはそれが適用されなかったときの子の気持ちを答えよ。
・現在の私が異性愛者であること、マゾヒスティックな空想に耽る時間もあること、メイクをあれこれ工夫するのが楽しいこと、比較的痩せていること、可愛いものに惹かれること。これらすべてが、祖父に辱められ祖母に身体的に虐待された体験を正当化してしまいそうで、今日はたまらずわんわん泣いてしまった。普通の六歳の女の子はおじいちゃんにフェラチオする必要がなく、男の子と口をきいたとか小児自慰をしていたからといっておばあちゃんに爪の間に針を刺されたり風呂で溺れさせられたりする必要もないのだと知っていてなお。
9月9日
・私は反天皇制主義者だが、皇室の人々がそれに対して怒りを表明できないのをいいことに薄っぺらく揶揄ったり、ミソジニーやルッキズム、エイブリズムにまみれた言葉で辱めたりする一部の自称左派を心底軽蔑している。生まれる家は選べないというわれわれみんなの不幸な前提さえも忘れているのだ。
・発売中のフェミZINE『どうしてフェミニストやってるんですか?』(シスターフッド書店 Kanin編)に寄稿している。
9月10日
・権威は親しみやすくあってはいけない。より卑近なところでは、生徒にあだ名で呼ばせる教師なども性暴力の潜在的なリスクだ。
・なにかしらカミングアウトしたときの応答が「教えてくれてありがとう」の人には警戒している。弱みを握ってやったぞというよろこびが見え隠れするから。「ああそう」でいい。
・『Kへの手紙』(詩のてらすに掲載)のK氏のこと。氏といろいろあった当時、私が20代前半で氏が60代半ば、社会運動の若手とベテランであり翻訳の仕事を教わる関係でもあった。年齢差だけでは問題ではないけれど、とくに思想がからむと、年齢差と実存にかかわるほどの「尊敬」「愛着」は切り離すことが難しい。
氏はすごくセンシティブなテーマ(性とか政治とか人権とか)について「〇〇って知ってる?」「〇〇についてどう思う?」と意図がわかりにくい質問を繰り返し、氏に比べて圧倒的に前提知識が乏しい私がうまく答えられないと人格否定。しばらくするとこちらを慰めたり褒めたり。性的に迫ってきたかと思えば、私の変えがたい属性を理由に「搾取になるから」「セックスは政治やね」と突き放すこともあり、自然と依存していった。
その後所属団体にこちらの実名入りで告発文を送ったけれど、かえってこちらが氏から直接警告を受けただけだった。事実関係がどうであれ、被害を訴える人に本人から連絡をとることは悪手だと思わないのか。
現在は自分と同い年のパートナーと交際しているけれど、氏が興奮しているときの声や息遣いがフラッシュバックして号泣してしまう日がある。
・ミサンドリーはミソジニーに比べて罪が軽いとか仕方ないみたいな風潮は早くなくしていかなきゃいけない。あれはシンプルに穢れの意識であって、現に知的・発達・精神障がいの男性や、貧困の状況にある男性、路上生活者の男性、移民の男性、男児やトランス男性など立場の弱い男性に攻撃の矛先が向きやすくなっていることはまったく無視できない。そして(ミサンドリストにとって)ペニスや男性の"攻撃的な"性を連想させる存在なら誰でも容易に憎悪の対象になるので、男性でなくてもAMABのあらゆる人々、男性と恋人であるとか夫婦の関係にある女性、SWIWを主張するセックスワーカーの女性、ヘテロセクシャルでマゾヒストの女性なども安全でなくなる。
・幼少期、私の主な養育者だった母方祖母はヴァレリー・ソラナスとアンドレア・ドウォーキンを敬愛していて、私はいまもしばしば「男の人をうまく憎めなくてごめんなさい」「異性愛者で性欲があってごめんなさい」という気持ちになる。しかし彼女は夫である祖父とはラブラブだった。だから私への性虐待にも目をつぶってやったのだろうか。(余談。ドウォーキンはソラナスを厳しく批判している)
9月11日
・『みい山』問題だけど、親の会とかにいる人たちの多くとみいちゃんのような生活をしている人たち、だいぶちがう階層にいるので議論がいまいち噛み合っていない感じはするな。支援団体につながる親はまあまあの医療リテラシーとお金がある層が中心だと思う。
9月15日
・もうすぐ1年経つ。どうして私は死ねないんだろう。どうしてYは死んでしまったんだろう。
地元を出ていくとき祖父に「出ていくんやったら最後までやらせろ」と言われるまで怒りがはっきりとはわからなかった。Yが自死するまで自分に悲しみの感情があるとよく知らなかった。8歳のときASD診断が出てからずっと、お前は人の気持ちがわからないビョーキだと言い聞かされ、この心の動きはほぼすべて"特性"だと思っていた。精神全体が、機能しない何かだと疑わなかったので、嫌だなと感じても人に逆らえなかったし、世界で一番信用できない存在が自分自身だった。日常的に虐待がある家庭にとっては診断されたという履歴が便利だったんだと気づいてからも漠然とした死にたさはつづく。死にたいねと話しあった人はもういないまま。
・殺して食べてくれという50過ぎのおじさんと会ったことがあるけど、割に合わないから結局よしたことがある。でもやっぱり小さいときからのカニバリズムへの興味が消えない。母がよく父のペニスをハサミで切る真似をしてふざけていた、ああいうのも影響しているのかもしれない。私は父と一つになりたい。これはきっと象徴についてで、ほんとうに血肉にしなくてもいいのだと思う。
・男の人に甘えられるのがほんとうに耐えられないタイプだとつくづく思う。Kくんとは同い年で3ヶ月しかちがわないのに兄妹のような関係性になれているからいいけれど。たとえば髪を撫でられていると自分が「下」の存在であるという感覚を保てて安心する。一人っ子で、しかも父方の家にとってはやはりたった一人の孫なので、いまもお姫様扱いされないと気に食わない。そしてお姫様扱いとは実は「下」に位置付けられることだ。欧米のDDlg実践者らを見ているとよくわかる。
・おととい、Kくんの実家でご両親にはじめてお目にかかった。とらやのようかんを2本持参。お母さんの手料理をご馳走になった。
9月16日
・小学校低学年のころ、母に「読まされた」『パパママバイバイ』という絵本のことを急に思い出して怖くて眠れなくなるときがある。昨夜がそうだった。
母は法科大学院在学中に沖縄へ行ってから基地問題に強い関心をもった人で、私にも我が国の対米従属の姿勢がいかに問題かを説き続けていたし、その問題意識は理解できたが、彼女の教育はかなり侵襲的なものが多かったのもまた事実だ。
たとえば6、7歳のわが子に米兵による少女レイプ事件について詳らかに語ることが適切かは疑問に思う。その話題をきっかけに膣の存在を知ったほど私は幼かったのに。
9月17日
・M男性にもいろいろいて、私は「敬愛型」と「ミソジニー由来型」に大別しているのだけれど、後者がなかなか厄介なのだ。これはつまり、"女なんかに"負かされるなど悔しい!(ゆえに興奮する)とか、貴女はボクの象徴的な母親なのだからボクのあらゆるニーズに気を配るべきだ!といったような人々のこと。谷崎も沼正三も実は後者だと考えているし、沼の場合オリエンタリズムや異人種のフェチ化もはいっているからいよいよ手に負えないと思う。
・私がかつて熱にうかされたようにハマったけれどいまでは心を動かされない有名人として、宮台真司と大森靖子がいる。
最近でいえば、大森靖子プロデュースの男性アイドルグループ・Zavageの新曲『男死ね男大好き』などひどいものだった。すでに中年女性である大森がわきあがるミサンドリーをポップにして若い男性に歌わせる構造は、秋元康が少女たちと社会にもたらしてきたものと酷似していて非常にグロテスク。
9月18日
・天皇制とは実は肥大化した母性のことだったりしないか。反天皇制運動は実は父に挑んでいるのではなく、母殺しの希求なのではないか。運動内部のミソジニーもそれで説明できないか。いずれにしても、皇室は宗教法人として独立し、メンバーの離脱も容易になればよいのにと私は思っている。反出生主義者としては血統などオカルティックなことにこだわらず、困れば養子をとることで存続すればよかろうとも。また、祭祀はどちらかといえば女性の領分だという信念もある。だからカトリックにはいかなかったのかもしれない。
・私の反出生主義について、同性の知人からヘイターだと非難を受けた。また、このダイアリーの削除も求められたが応じるつもりはない。私は伊藤野枝の母性を彼女の気高い生き方のみじめな汚点だと思うし、望んで子づくりや出産をおこなうこと、代理出産をさせることなどはテロリズムだと信じている。トラウマの再演にも介入すべきものと必ずしもそうでないものがあるが、生殖は前者だ。生まれさせられた被害者が社会に後押しされて加害者に転じているのだ。人は殴られたり鞭打たれたりすることに主体的に合意できるが、子づくり、妊娠出産は十分な理解に基づいていないので合意とはいえない。父母たちは加害させられているのだ。
私はコミックLOでシコるキモオタたちよりも、幸福そうな妊婦を猥褻だと考える。他者を存在させないということは当然のつとめだ。
・その知人(たぶんここも見ていると思う)からは以前、恋愛感情を打ち明けられて拒絶したという経緯があるので、私に複雑な感情を抱いているらしいことを想像できる。女性同士であるからきっと大丈夫と明確に境界線を引かなかった私も申し訳なかったが、これ以上連絡をよこすならしかるべき機関に相談しようと考えている。卑猥な内容、ときに非難するような内容のLINEやメールも複数回あり、辟易している。これをもってアウティングと言うほど、彼女の倫理観に問題は生じていないと信じている。
・差別主義者とはSEXしない(べき)という主張と、SWは売り手自身ではなくサービスを売っているのだという主張は矛盾しないでいられるだろうか?とても両立するとは思えないし、SEXは愛や信頼などのきらきらした言葉で表すべきものではなく、性質としては自傷を一緒にやることだと考えている私は、軽蔑してしまうような部分がいっさい見えてこない人とはSEXしたくない。そうでないSEXは尊敬の念を利用して搾取されているだけ。
9月19日
・今日はいよいよ引っ越しの日だ。荷物はKくんの親御さんが、同棲するマンションまで車で運んでくれるとのことでありがたい。荷物を出してしまったら、あとは部屋の掃除をしてこのマンスリーを出ていく準備をしなければ。
・まだ籍も入れていないのに、男性と同じ家に暮らすことは正直とてもおそろしい。ご先祖さまに申し訳ないという気持ちが浮かぶたびに身体を掻きむしって打ち消す。
・異性愛者である事実への強烈な後ろめたさについて、クィア(広義)界隈の人に話してもなぜかうまく伝わらない場合のほうが多く、つらい。
ゆがんだ私にとってシス男性に欲望を感じるのは、自分以外のすべての女性に恨まれる、下手をしたら殺されてもしかたないことのように思えるのに。
・母方祖母は男性のことを平気で「蛆虫」「家畜」などと呼ぶし、私が中学時代に女の子と交際していたときは大喜びしていた。結局は、なにかちがう、どれほど"頑張って"もビアンにもバイにもパンにもなれないと、私は諦めて異性愛者として自分を認識するようになったが。娘を立て続けに二人(伯母と母)産んだことで姑である曽祖母に責められた経験からの反発かもしれないが「性犯罪者になりうる存在(息子)」を産まなかった、とずっと自慢している祖母。
・祖母は性嫌悪にもやっぱりすさまじいものがあって、まだ小学生の私が自慰をしたとか男の子と楽しげに口をきいたとかの理由で・爪に針を刺す・ペンチを見せて、爪を剥がすと脅す・お風呂で溺れさせる・手やひもで首を絞める・鯨尺で鞭打つ・庭の木に裸で縛って放置する・両手両足を縛り口も塞いだうえで押し入れに閉じ込めて外出する・新聞紙に食べ物を撒いて食べさせる、くらいのことは日常的にやっていた。家族も黙認。
祖父は身体を触ってくるし、父と離婚して独身になっていた母は見境のない男漁りを繰り返す。同級生も母の素行を知っていて、猥褻な言葉でからかわれる。
こういう環境で精神に異常をきたさないほうがおかしいのだ。
でも大人になってから、縁あって知り合ったマゾヒストのおじいさんが「おばあさんは体罰をくわえることで興奮する性癖だったんじゃないですか」と冗談まじりに言ってくれたときは少し楽になった気がする。なんだあの女も変態じゃないか、と。
・15か16のとき、隠していたSM系の雑誌や小説を祖母に見つかった際は土下座させられて頭を踏まれた。床に鼻がガンガン当たって鼻血が出た。祖母は泣きながら仏壇や神棚にわびていた。雑誌をパラパラとめくり、スウィート・グウェンドリンのページを突きつけられ「こういう、女性をおとしめるようなものを読んでほかの女性たちに申し訳ないと思わないのか」と土下座のままで長時間詰められた。
仏壇や神棚に対してあのころの恐怖を抱きつづけているのも、いまのキリスト教への関心につながっているのかもしれない。
・いまでも私はどこかがおかしい。正常だからこそおかしい。Yを人の父親にしてやれなかった。Kくんも私といるかぎり子どもをもてないだろう。お互いの身体が健康だとしてもこの世界に「存在させられる」ことの恐ろしさをこれ以上誰にも味わってほしくない。生は怖い。
・考えたくないことだが、性的な嗜好に生い立ちが関わっていたらどうしよう。
9月20日
・ことさらに行儀悪く振る舞ってみせる人を、行儀が良すぎるなあと私は思う。坊ちゃん嬢ちゃんに見られたくないという生真面目な良い子。はっきり言ってダサいし、そのうえ悪い。
・「女性の安全」「子どもの安全」を理由にしてしまえば、どんな差別も排除も問題なくなる空気がある気がする。いまどきキモいことは悪だ。でもおかしいよね。実際に子どもに手を出している性加害者のメインストリームは、汗っかきで眼鏡デブで非モテのオタクなどではなく、中流家庭のにこやかなお父さんやボーイスカウトの熱心な指導者や評判のいい小児科医や人気のある教師や母親のイケメンの恋人なんだから。
・いつか私が精神的に落ち着いて、二人に経済的な余裕ができたら、望まない妊娠をした女性から養子を貰いたいとKくんに話していた。私は反出生主義だが、別に子ども嫌いではなくむしろ大好きだ。血がつながらないならかまわない。
かれにはあまりメッセージ性が強すぎない、ほとんど記号のような名前をつけて、親との境界をできるだけ明確にして育てる。"いのちのバトンをつなぐ"ことは人間ならしてはいけないとも教え、日本の少子化を加速させたい。さらに言えば、やがてかれに刺されて私の子育てと人生が終了すべきだと思う。子どもが親を愛するのはきっとまちがいだから。すべての父母は挑戦され、打ち倒される存在であるほうがいい。
・自分の父親とセックスしたいのだという話をYにすると彼はそうだろうねと笑って言ったものだが、Kくんにはいつも怪訝な顔をされる。
実際15歳のとき、父と二人で軍艦島こと端島を見学に行って(建物が崩れていくところを見るのが大好きなのだ。でも徴用工の人の話などきくと、あくまでダークツーリズムだとも思う)泊まったホテルで迫ったことがある。父は困惑していたし、鈍いなりに母方実家で起きている事件を感じとったらしかった。私は「家族とはそういうことをしないものだ」と教えてもらったが、正直いまでもうまく理解できていない。
9月21日
・『みい山』に対する漫画持ち込みプロテストの件に、私は『みい山』自体には嫌悪の情をもちながらも結構怒っている。
あのレポートでは、場(空間と時間)に持ち込むのが想定されていないテーマについて不意打ち的に意見を求められ咄嗟に返答できないことや防衛機制がはたらくことを、職業人としてのひいては人間性の乏しさのように描いているからだ。しかも編集者の容姿もおそらくわざと醜く描かれている。
コミュニケーション能力が高い人はそうでない人より道徳的に優れているということか?
私がジェンダーや障がいなどの課題に継続した関心をもちつつも社会運動内の人間関係になじめなかったのは、無自覚なコミュニケーションの能力主義が蔓延しているためだと考えている。
誰かが集団においてどの位置にあるかとかコミュニケーションの得手不得手とかがまるきり軽視されていて、正義/不正義の基準しかない。
デモもボイコットもストライキも、迷惑をかけることで状況をよくしていくものにはちがいないが、迷惑をかけられる対象が必ずしも企業の上層部やマジョリティではないケースも往々にしてある。そこにもっと注意をはらってもよいのではないか。
9月23日
・私は自分自身のことを心のどこかで女性装をした青年のように認識しているふしがあり一人称の"私"も実は男性の言う"私"に近い。ノンバイナリーやXジェンダーというわけでもないのだけど女性らしさを意図して演じている感覚がある。AFABでありながら、女性の姿かたちになろうとしている。
・母と未就学児のときの私は寝ている父の性器を手刀で切り刻む真似をする遊びのことを「トントンさつまいも」と呼んでいたのだが、日常的におこなわれていた「トントンさつまいも」も今の性意識に取り返しのつかない影響を与えているのだとしたら、母に対して、なにをしてくれてんねんという気持ちになる。父もオモチャにされて可哀想だった。
・母とは十八くらいまで一緒に入浴していた。スポンジやボディタオルではなく手で身体を洗われる、ちょっと近親姦的な異様な習慣だった。私は彼女の小さな彼氏でペットだったのかもしれない。
・生まれたとき父方祖父に非常に豪華な雛人形を買い与えられたこと、桃の節句のたびにそれを飾ってもらったことはシスヘテロである自分をなんとか許してやるために必要な記憶になっている。反天皇制やヘテロノーマティビティ批判を言いながらこれを言うのは複雑だし、仲間に非難されもしたけれど。
・なにをかっこいい/ダサいとするかの基準を作っているのは、たいていは善悪の基準を作るのと同じ社会なのだから、ダサいから悪いなどというのはトートロジーでしかない。
・国際政治でもDV・虐待支援でもいえることだけど、中立であると表明すると中立でなくなる。
・洗濯機につづいて新居に冷蔵庫がくる!
・政治などセンシティブなトピックについてとっさに自分の意見を述べられないことを未熟さとみなして「一旦保留させてください」となかなか言わせない社会。一億総ドパガキ化。
・あと「中立」「どっちもどっち」「難しくてわからない」みたいなのも実は「お前と話したくない」という意味で言っているかもしれないと、運動圏の人(とくに中高年男性)は気づいてね。
激動
二〇二六年九月、
雨がたいへんよく降り
雨でないのものも
降っている気がする
蝉のたましいや
胎内のゆき
濡れてもつめたくないものたち
だけど
ロキソニンは手放せない
うん、うん、飲み過ぎてないよ、大丈夫、
十時までには帰ると思う
二〇二六年九月、
大きな仕事を終わらせて
燃え尽きている
それでも細々とした雑務や
返さなければいけないメールは
次から次へ
仕事は増えていくばかりだし
いくつかのプロジェクトも
走り出している
はい、私は働き盛りです!
三十代を人生で一番
生産的な十年間にしたいです!
二〇二六年九月、
耳の遠くなった祖母から
とても長い手紙が来る
耳がよく聞こえていたころの
電話の長さを思い出せて
うれしい
七十代までのしっかりした筆跡からは
想像もできないほど
ふるえた文字と
便箋の折り目から
こぼれるもの
たとえば昔
繰り返し聞かせてくれた
疎開先での思い出
盗み食べたあんこの味や
数学が
とても嫌いだったこと
二〇二六年九月、
ナヴィエ・ストークス方程式に関する
ミレニアム懸賞問題を
OpenAI社が解いたと報じられた
僕は証明を確認していないが
専門家の知人に問い合わせた限りでは
正しそうだ
ということである
この問題が
人間によってであれ
AIによってであれ
もうすぐ解かれそうなことは
噂に聞いていた
解いて得られた最終的な結論も
予想通りのものだ
しかし、いや、それでも、僕は、
この問題を
人間に解いてほしかった
二〇二六年九月、
間違いなく
数学史上最大の
転換点だった
世界はこれから
どうなっていくのだろう
麦わら帽子
入道雲の下
二人で追いかけていたものが
少しずつ違って来ているのに
少しも気が付かない程
夏に夢中だったね
やがて入道雲が消えて
麦わら帽子の穴を吹き抜ける風が
少し心に冷たく感じた時に
麦わら帽子の穴を塞いでいた貴方の
存在の大きさと喪失感の大きさが
空に浮かぶ鱗雲になって
私の頬に映り流れる
季節と心はセンチメンタルに
染まってゆき
恋は秋へと深まる
麦わら帽子は…もう…似合わないね
ひとつ
色がある
わたしも色のひとつ
雨が降れば
わたしも雨になる
傘になる
音になる
流れていく水の
小さな欠片になる
何にもなれずに
置いていかれる
ひとつのわたしになる
繋がっていく
繋がろうとしなくても
答えなどなくても
そこに何もなくても
はみ出した草の葉がひとつ
風に身をまかせて
そよいでいる
あれはわたし
あれもわたし
おくりむかえ 反省と雑なふりかえり(ネタバレを含みます)
★
・理由のない事象と、それに向きあうキャラクターたちの人間模様を描きたい
(「ものごとにはかならず理由がある」の逆をやりたい)
・「こわいものみたさ」と「すきな恐怖」を明確に判別したい。「すきな恐怖」を「こわいものみたさ」から切り離したい
・「自分が楽しめる重さ」と「自分が楽しめる軽さ」を両立したい。「シリアス作品において自分がやりたくないこと」と「ほのぼの作品において自分がやりたくないこと」を排除してくっつけたらこうなります、という仕組みづくりをやりたい
・ジャンルで言えば、物語作品を扱う場合には「キャラ文芸」をやりたいんだと思う。魅力的なキャラクターを描いて自分がわくわくしたい。そして、自分が思う理想のキャラ文芸をやるための手段として、オカルト要素や(地の文による)詩的なアプローチという手段を採用したい。機能と肌触りを両立させたうえで肌触りを優先したい(それがキャラクターの魅力に繋がるから)
★
・ストーリーがだめというか、ストーリーに関する情報処理がかなり下手だった。ぼかすことがすごくすきで、すきなだけぼかすととにかくぼかしまくってしまうから、最低限このラインは伝わるようにしようとかを決めて詰めていきたいと考えている。でも長期間・長時間作業をしていると「現在の想定では読者側にどのくらいの情報がどのていどの感触で伝わることになるのか」がどんどんわからなくなっていく。
今回で言えば、優先順位がこんな感じなんだけど(↓)、伝わってほしい要素の説明はだいたい不十分で、逆に伝わらなくてもいい要素の説明は総じて匂わせすぎていた。たぶん、伝わってほしい要素を流れと表現のなかでじょうずに説明することができないという問題があり、それをカモフラージュしたくなってしまって、伝わらなくてもいい要素を用いた演出がどんどん過剰になっていったんだと思う。
****
登場人物が合宿中の三日間をループしている事実→伝わってほしい
ループが発生した理由→無いので伝わらなくていい
ループが発生した理由は無いという事実→伝わっても伝わらなくてもいい
登場人物の目的はループ問題の解決であるということ→伝わってほしい
ループの記憶があるのは基本的に鈴木のみである→伝わってほしい
ループしている人物の時間軸は分岐していてループ回数がそれぞれ異なっている→伝わらなくていい
ミズセンが故人であること→伝わっても伝わらなくてもいい
ミズセンの正体が現在の顧問の顧問であること→伝わっても伝わらなくてもいい
豊崎が「ふつうの信号」に登場する先輩と同一人物であること→伝わっても伝わらなくてもいい
鈴木中村は「体育館の天井のかげろう」をループ問題の手がかりとして認識している→伝わってほしい
****
★
・キャラクター要素について、反省点が多すぎた。目的がキャラ要素で手段が詩的要素なんだけど目的と手段がやや反転していた(五分五分で両立しているのが理想だとも思うから、目的と手段として明確に比率を固定?しなくてもいいのだけれど。キャラクターに対して愛着がない読み手にとっても言葉の味わいを楽しめる作品をつくりたいという気持ちはある)。キャラ文芸的要素がちゃんとできていないせいで繋がらない流れを情景描写で無理やり乗り切ったり、サブキャラクターを何人も登場させたりすることになってしまった。初稿ではミズセンも顧問もいなかったし佐藤もこの話には登場しない予定だった。豊崎鈴木中村の三人だけでまわすはずだった。しかも、大人数を捌く技量がないからわざわざキャラ数を絞ったシリーズだったのに。人間模様に至っては、うまくできるできない以前に「無かった」。ありそうな匂わせをしておいて、無かった…
・(地の文による)詩的なアプローチという手段においては、かなりやりたいことができたと思うけど、当初はもうちょっとがっつりレイアウトとかも詩の形式を導入して、地の文全体が散文と詩のあいだをいったりきたりする流動的な形態にしたいと思っていた。それをさりげなくやろうとしても思ったよりあざとい感じになってしまって思うようにできなかった。その点ではやりたいことができなかった。「ベースの形式を決める」という行為から逃れるのは思った以上に難しいことなのかもしれない。でもまだあきらめたくない。それを学んだということも含めて、次に活かしたい。
★
・当初は七月中に改稿作業を終わらせ、お盆にあわせて投稿する予定だったがまったく終わらなかった。(自分が遅筆であることはもう諦めているにしろ)一万字の短編を改稿するのに二ヶ月かかるなんてさすがにしんどすぎるだろ…と思ったけど、「一から書くわけではなく修正作業であったこと」「そのわりに現在の自分がやりたいこと・試したいことというのがはっきりしていたこと」を思うと、むしろ改稿だったから大変だったみたいなところもあるかもしれない。もともと粗の多い作品で、めんどうな作業になることはわかっていたし、修正してもその粗を完璧にカバーすることはできないとも思っていた。その点がとくにしんどかった。まあでも、初稿が題詠(短歌じゃないから題詠っていうのは変か)から捻り出した案だったことを考えると、未熟なりに健闘したとも言えるだろうか。体感としては改稿というよりほぼ書き直しだった。
・服薬を開始すること、数年かけて生活環境を変えていく予定であることなどから、今後は制作にかける時間やアプローチを変えざるをえなくなると思う。苦しんで制作することがかならずしもいいと思っているわけではないけど、自分の身体感覚が大きく変化してしまう(可能性がある)ことをとにかくずっと不安視しているので、そうなる前にこうして自分の表現とじっくり向き合う機会を作れたことは、すごくラッキーだったし、失敗だとしてもがんばれてよかった。
*
去年の五月から投稿してきた「プロトタイプ三部作」について、こちらをもってしめくくりといたします。たった三作ですが、本編に加えほぼ言い訳のあとがきまで、お世辞にも読みやすいとは言えないシリーズにおつきあいくださり、ほんとうにありがとうございました。コメントの応酬を含め、精神的な未熟さがいろんなところに出てしまっていたと思います。すこしずつ成長していきたいです。今後ともよろしくお願いいたします!
第一話 『おにたまぅ ~鬼が卵を産ませようとしてくる件~』 ジャンル:ハーレム系ライトノベル
*どう考えてもこのサイトに持ってくるジャンルでは無いんですけども、他のサイトのアカウントを動かしていないので、ひとまずここに置かせてもらいます。
序幕
ガタンガタンと線路の継ぎ目を踏む度に、夜が細かく刻まれていく。
等間隔に、噛み砕くように。
何者かが、夜を貪り食べている?
そんなわけない。
ないけれど、車内に籠もった体温は、美味しそうに温まってる。肉食獣なら食欲に負けて暴れだしそうなぐらい。
人肌が醸すにおいも悪くなかった。
はじめまして、に相応しい夜。
一話目 「ミズチ」
💧時折、列車内に吊り下げられた電球が消える。足下から突き上げてくる振動に負けてしまうのだろう。
明かりが消えた途端、窓に目を向けていたティロォスの色違いの瞳が夜の玄色に馴染んで、じわっと広がっていった。
もっとも、どれだけ広がったとしても、その瞳が(保護欲を掻き立てられるような丸くて綺麗な瞳が)が捉えられる色なんて無いのだけども。
外は宵闇。
電気が消えている数秒間は、ガラスの表面に反射していた車内の景色すら消え失せ、窓はなにも見せてくれない、透明な壁へと成り下がる。
それでもいいよね?
とでも言うかのように、ティロォスの細い指が窓の表面を撫でた。
真っ暗で冷たい窓だろうに、こんな窓のどこに同情する余地があるのか。
ティロォスの心の中に宿っていながら、ティロォスの心を読み取れない私。
精霊の私にはわからない感性を乗せて、列車は煙を噴き上げながら、遠い、遠い街を目指して走った。
暗闇、数瞬。車内に再び明かりが灯るとき、ここに居る者達は、自分が置かれている立場を改めて自覚させられる。
座席に着く誰もが綿のダボダボのシャツを着せられ、雑に作られた手枷に身の自由を預けていた。
そう、預けている。
この車内に居る者達のほとんどは、自ら手枷を嵌められることを望んだのだという。
一時(いっとき)の自由を代償にして得られるものは、毎日空腹を満たしてもらえるという安心。そして、次の主人が決まるまでの身の安全。この手錠はすなわち、身寄りの無い自分たちでも、生きたまま、無事に未来へ連れて行ってもらえるという確約でもあった。
列車に乗せられているのは、俗に隷蛾(レイガ)と呼ばれている人間の売り物たちだった。衣食さえ満ちれば土草(つちくさ)の寝床でも生きていけることを身に染みて知る者達だ。
家族や親族に見放され、もしくは無縁の者に浚(さら)われて売りに出された者も居れば、自ら望んで隷蛾に堕ちた者も居る。
隷蛾には、いくつか種類があるが、ティロォスの乗っている車両には観賞用として販売される隷蛾が詰め込まれていた。この列車は全部で五両あったか。他の車両には、別枠で売られる隷蛾が居るんだろう。
他の隷蛾か。他の車両も気にはなるものの、私と一緒にティロォスの心に居候しているもう一人の精霊『カグラ』のように、心から抜け出し、外へと出てまで確認しようとは思わなかった。もしも、私たちの姿が人の目に触れようものなら、幽霊だなんだと一騒ぎ起きるに違いないから。
なあ。ティロォスは、その……尻の辺りが痛くなっていないか?
列車の揺れが予想していたよりもだいぶ酷い。
ティロォスの体つきは、男児としては細くて小さい。女の私の力でさえ、締め上げれば折れてしまいそうなほどだ。
そんな細い身体では、この長距離移動に耐えきれるのかと心配になる。私もカグラも……精霊の私たちはティラの精神の中に住んでいるだけだから外部からの痛みを感じたりはしないが、ティロォス、お前の体が不調になれば私たちにも悪影響が出る。
隷蛾の取引が行われる街まではまだ掛かりそうだが、頑張って耐えてくれよ?
そんな風に心の内側から声を掛けると、ティロォスは諦めたような表情で、微かに笑った。その顔に余裕は感じられない。案の定、尻の痛みを我慢していたらしい。
振動の酷さもそうだが、揺れる度に座席がずれ動くような感覚、そして、金属のぶつかって擦れる小さな悲鳴が座席の下から聞こえてくる。恐らくこの車両は、貨物用の車体にむりやり座席を仮止めしただけなのだろう。人を乗せるような作りにはなっていないことは、精霊の自分にもわかった。
そんな劣悪な環境下においても、車両内は異様なほどの静けさを保っていた。
なぜだろうか? と考えてみれば、皆この状況を身分相応だと受け入れているのかもしれないという結論に至る。
誰も不平や不満を顔に出したりせず、この一時的に作られた檻に自らの心を慣らそうとしている、そんな諦念の思いを車内に満ちる呼気から感じ取れるのだ。息を潜め、体を振動に合わせて揺らし、じっと、過ぎゆく今を忍んでいる。
座席は全て埋まり、おおよそ三十人ほどが居るはずなのだが、定期的に見回りに来る見張り以外は、特に動きが見られなかった。
私はこの静けさに、人間より下等と言われる隷蛾の生き様を見ていた。
人目に付かないようにと、本来なら走らない夜更けに列車を走らせ、各地から集められた隷蛾を載せて運ぶ。
もちろん、どの国でも違法扱いになる人身売買な上に、準備にまでこれほどの手間と金を掛けるのだから、ティロォス、お前の販売価格は相当な金額になるぞ?
素晴らしく金を掛けた腐った商売だが、私たちにとっては好都合。金の使い道に困る程の富豪に買ってもらえたなら、ある程度の幸せは与え続けてもらえるだろう。
次の街では上手くやるんだぞ? ティロォス。前の街でやらかしたみたいに、同時にあちこちに手を出して、街から追い出されるような真似はしないでおこうな?
(わかってるって~。ミズチは心配性だな~)
ティロォスは余裕ぶった仕草で、ふぅ~と溜息を吹いた。本当にわかってるのか怪しい態度。
(大丈夫だよ。今度は一人の女の子に的を絞って籠絡させて、僕らの住み処が定まってから、手を出す範囲を広げていくから)
ティロォスは見た目こそ人間だが、本質は全く異なる吸精鬼という生き物だ。精を吸い続けなければ生きていけない吸精鬼という種族柄、吸精欲を抑えるのが難しい。
また、他種族の心に自分の子種を宿させて、産卵させ、個体数を増やすのが繁殖の仕方であり、その繁殖本能も強い。
それらの衝動をうまく抑えきれず、四日前までいた小さな町では、女性達に手当たり次第に声を掛け、手を出した結果、彼女たちの縁者などに追いかけ回され、ほどなく街に居られなくなった。
卵から爬虫類の姿で孵り、小動物の姿へと成り、人間へと変態していく吸精鬼。ティロォスは人間の姿に成長してからまだ日が浅かった。いくら人間に卵を産ませられる体まで成長できたとは言え、最初から本能だけで上手く立ち回れるわけではないらしい。
今向かっている街はそこそこ大きな街だと聞いているから、仮に下手を打っても先の町のように、あっという間に噂が広まるような事にはならないだろう。それならば簡単に追い出されるような目には遭わないはずだ。
だが、長居をしようと思うのなら、よくよく考えて行動する必要がある。その辺を分かっているのなら良いのだが。
(だから、こうして隷蛾になって……お金持ちのご主人様に寄生しようって話になったんでしょ?)
そうだ。主人に懐いて飼い養ってもらうんだからな?
主人の心を縛り付ける前に他の女性に手を出そうものなら、生きて街から出られなくなるだろう。
そういう状況下に自分を置くことで、本能(吸精欲)を押さえつけようとする作戦なわけだが、ティロォスの性格を考えれば、いつまで持つかはわからないな。
(今日は随分と言ってくるじゃん)
…………。
(なに?)
隣に座る女子に、ず~っと心紋秋波を送っているだろう?
(…………)
私はお前の心の中に居るというのに、どうして私にバレていないと思うんだ?
(だって、可愛いじゃん?)
……はぁ。
そうだな、可愛い娘だ。
ティロォスが目を付けた娘は、隣の席、通路側に座る年若い娘だった。
ただ、2つ前の駅で乗せられてからじっと俯いたまま、一言もしゃべらない。もちろん、隷蛾同士が出会ったら挨拶をするのが通例という訳では無いだろうが、周りを見る限り、一言ぐらいは言葉を交わすものらしい。ならばこちらからと言いたいところだけど、彼女は硬く表情を強ばらせ、終始視線を落としていたから、ティロォスも声を掛けにくかった様子。
と、ずっと自分の膝を見つめていたその少女が、もぞもぞと体を動かした。
「あ、大丈夫? 立つかな?」
小声で声を掛けると、微かに首を横に振る。
「平気、です」
消え入りそうな声。だが、元気ではありそうだ。
微かに触れている腕から、彼女の体調を測ってみたが(水の精霊が使える特殊能力だ)特に問題はない。
問題はない、が、体調なんかよりも重要な情報を手に入れた。
彼女は人間じゃないぞ?
魔族だ。
見た感じはティロォスと同い年、少女ほどだが、人間に化けているのであれば、そんな年齢では無いだろう。
ついでに言えば、ティロォス、お前の方が体調が悪いな。ずっと移動しっぱなしで、吸精(食事)の時間が取れなかったから、空腹が被ダメージレベルになっている。
(そうだね、お腹が空いちゃった。この子が元気なら少し吸わせてもらおうかな)
揺れに合わせるようにしながら彼女との距離を縮めていく。はっきりとわかるほど肩が当たると、彼女はビクッと体を揺らし、驚いた表情でこちらを向いた。思いのほか拒絶反応が強くて、体を離してしまうティロォス。ちゃんとくっついていないと。触れあってなければ吸精にならないぞ?
「ご、ごめん! ちょっと揺れちゃって」
「い、いえ、その、ごめんなさい。ビックリしすぎましたよね」
ビックリした時の声まで小さい。まるで檻に入れられた小動物だ。
謝りながらティロォスの顔を見た彼女が、ピクリと動きを止めた。まじまじとティロォスの顔を見つめてくる。
「あ……君、人間じゃないの? 目の色が人間の瞳じゃない……。それに、色違いの瞳ってことは、精霊憑きだったりする?」
「あ、目? うんうん。“君と同じ”魔族だよ」
「え!?」
さっきよりは大きな声で驚いた少女は、慌てて頭の上に手を当てた。隷蛾の手錠が嵌められている両手で頭の上をさわさわと、側頭部の辺りをさすっている。
茶色掛かったボブヘアが、指に合わせてふわふわ揺れた。
「魔族の耳、出てないよね。なんで、サトが人間じゃないってわかったの?」
頭を触っていたのは、どうやら魔族、獣系魔族特有の『変身したときに耳が出てしまうミス』をしていないかの確認だったらしい。人間に化けるのが下手な獣系魔族は、元の身体的な特徴を残したまま変化してしまうからな。
だが、見たところ、この少女は実によく化けている。変化の実力者と見ていいだろう。
「名前、サトって言うんだ? 可愛くて落ち着いた名前。よく似合ってるよ?」
「う、うん。……それは良いんだけど……」
「君が人間じゃないって気が付いた理由? それはね、瞳の色を当てたから。瞳の色を見て人間かどうかを見分けられるのは魔族ぐらいでしょ? 人間には、まだその知識を持っている者なんかほとんど居ないから」
「あ、そっか」
自分の言葉が失言になっていたことに気が付いて、恥ずかしそうに口元を隠すサト。それを見て、今がチャンスとばかりに距離を詰めに掛かるティロォス。
さあ、食事の時間だ。衣服越しの体の接触だけでは吸精力も弱いが、欲は言っていられない。多少強引ではあるけども、空腹でぶっ倒れるよりはマシだろう。
内緒話をするついでの食事。前後の席の人間達に聞かれないようサトに耳打ちをする。体重が寄りかからないように、手錠を嵌められている手で肩に触れながら……。
「僕はティロォス。瞳の色が違うのはサトの言うとおり精霊を宿しているからなんだ。左右の瞳、どちらも僕自身の色じゃないんだよ? 右の赤い目は火の精霊、左の青い目は水の精霊。2つの精霊を宿してる。あ、でも、今は火の精霊が体の外へ遊びに出てるから、赤い瞳に光は灯ってないと思う」
ゆっくりと穏やかに語る。
ティロォスの囁きに、サトはこちらの顔を下から覗き込むような角度で見上げてきた。目尻まで広がった眼の真ん中で、好奇心と期待に満ちた瞳が輝いてる。柔らかそうな涙袋が愛らしい。
「精霊を二人も抱えてる人、初めて見たよ」
「珍しいでしょ?」
「うん、でも」
「でも?」
「大変そう。精霊を一人抱えるだけでも、精気力の消費が激しいって聞いたことあるから」
「あ、詳しいんだね。そうそう、座ってても精霊に精気を吸われていくから、すぐにお腹が空いちゃうんだ。二人とも大食いでさ」
おい? 誰が大食らいだって?
「そっか。でも、吸精鬼ならいくらでも精気を集められるから平気なのかな」
これでも他の精霊よりは小食な方……は? 待て! 彼女いま何て言った?
「そうなんだけど、そんな簡単に集められるわけじゃ……あれ? えっと。僕、吸精鬼だって言ったっけ」
さっきの彼女みたいな失言はしていないはずだ。にも拘わらず素性がバレたと言うことは、彼女は私たちの素性を見破れる力を持っているということになる。
吸精鬼だと知られたのなら肌の接触を警戒されるだろうか?
そんなこちらの予想はなぜか盛大に外れた。彼女は手枷の嵌められた手で、同じく手枷が嵌まっているティラ手を取り、身を近づけてくる。
「へ~、こうやって精気を吸い取るんだ? 私はもっと、こう、……エッチな方法なんだと思ってた」
イタズラの共犯に誘うかのような。まるで不埒な思惑を、好きな子に明かしたがる子供のような。
クスクスという笑い声を聞かせてくれる娘。彼女の舌の奥では、甘い愉悦が溶けていることだろう。
心を許してくれた相手から吸精すると、精気の送り込まれる量が多くなる。手を包み込まれているだけにしては、この娘から入ってくる精気の量が随分と多い。
それだけこちらに気を抜いている証拠だ。
一方で、押し込まれているティロォスは腰が引けていた。窓まで身を引き、警戒している。
相手の意図がわからないのだから、この反応になるのも致し方ないだろう。会って間もなく、なおかつ、ほとんどこちらを知らない状態でありながら、ティロォスへの信頼を示し、警戒心を脱いで、あまつさえ温かな精気を吸わせてくれるなんて。
こんなにも調子の良い初体験は今まで経験したことが無い。調子が良すぎて、むしろ怖い。
何か仕掛けてくるか? と彼女の穏やかな雰囲気に呑まれないよう、注意深く気を張るティロォス。
「そんなに警戒しなくてもいいよ? それに……それ以上後ろには下がれないでしょ?」
ふふっと笑って、更に顔を近づけてくる。
「何もしないよ? さっきの意趣返し。私だけビックリしちゃうの、なんだか悔しいもん」
「意趣……返し」
「鸚鵡返し? 考えるの放棄しちゃった? ねえねえ、ティロォス君は綺麗で瑞々しい肌してるんだね。こんなに近くで見つめてるのに、全然汚れてない」
警戒されている自覚がありながら、大胆すぎる言動で迫ってくる。
「綺麗な肌が羨ましいから、なぞなぞを出しちゃおっかな」
ぎゅっと手を握って、キスができそうな距離から目を見つめてくる。 目? いや、視線はどんどん濃くなっていくし、吐息は細く、熱く変わっていく。
見られているのは目じゃない。
瞳、眼球。
いや、もっと奥。
直接……脳内思考を直接覗かれてる。
「私の正体は何でしょう?」
ウェーブの掛かった濃い獣色の髪が、目の前で柔らかそうに揺れ、顔の輪郭をぼやけさせる。女性的でまろやかさに象られた体つきの、優しそうな娘でありながら、魔。
身勝手に挑発的で、なおかつ、魔族的な魅惑を扱いこなしている本性を知ってしまった今では、それら柔らかな全てが、作り物染みた違和感としか感じられなくなっていた。
絶対的な立場から心を覗き込まれる感覚、人混みに紛れられる雰囲気、魔族であることを隠せるほど馴染みやすい体型。化けることにおいて、何もかもが整いすぎていた。
こんなにも鼻につく立場の魔族といえば……覚えがあるな。
あの種族か。
この娘の正体は
「ティロォス君が一人で考えてね🎵」
ぐ……私の存在まで察知されているのか。
ティロォス、この娘にちょっかいを出したのはお前だ。責任を取れ。
「……ぬ」
「ぬぅ?」
「……ぬらりひょんの娘」
彼女の手の中に包まれているティラの小指が、付け根から曲がった。逆方向に。
「ひう! 痛っ ッ ッッ」
「これから女の子を口説かなきゃいけないのに、その女の子の名前を間違えるのは感心しないな~」
「な、な、名前、サト……あ! 覚りだ! 魔族の覚り」
「せいかい」
フワッと小花のように咲いた笑顔。頬をかすめた温かな吐息。揺れた髪から香ってくる甘い香り……と言いたいところだけど、ほんのりと匂ってきたのは日向に干した獣毛のにおい。覚りは狸の成れの果てだから、匂いだって当然そうなる。
「覚りだから、見つめてる貴方の心がわかるし、対象に関連する未来も、ちょっとだけ視えるの」
ティラが痛かった、と目で訴えると、サトはティロォスの小指をすりすりと撫でて、ふ~っと、薄く開いた唇から吐息を吹きかけてくれる。
「未来? 心だけじゃなくて未来まで見えるんだ? それならどんな未来が来ても問題ないんだね。」
「でも」
「でも?」
「未来の全部は視えないし、必ず正しい未来が視えるわけじゃないの。時々狂っちゃうんだ、未来予知って」
「そうなんだ? もしかして、汽車に乗ってからずっと不安そうな顔をしてたのって、未来予知に不安があったから?」
サトは俯いて、わずかに頷いた。
「そうなの。今日の未来は複数に分岐してて、幸せな未来に進むためにはティロォス君から話しかけてもらわないといけなかったから。上手くできるかしんぱいだった」
迷い、惑い、沈んでいた雰囲気を振り払って、彼女は顔を上げた。
「だけど、ね?」
吹っ切るような一言が、二人の距離を詰めた。
「今はもう大丈夫。もう、未来は確実になったから」
「確実に?」
「うん。君に出会えたし、君から声を掛けてもらえた。君の心を確かめられた。見た目は謎めいていて、心は冷たくて、本心はすっごく熱い。何度も視ていたとおりの人だったから――」
台詞の途中で息を止める。
一呼吸分の、透明な空白が生まれた。
ティロォスとの、最後の距離を奪って額をくっつけたサトが、濃ゆい覚りの目を閉じる。
まるで、神様に心願成就を祈る時のような、神聖で、静謐な面。
柔らかそうなピンクの唇が「んぱっ」と開く。私情を重ねた吐息の熱が、ティロォスの口元を温めた。
彼女の心神が、明かされていく。
「――この未来は絶対に、くるわせたりしない」
感情が濃密すぎる。
この瞬間、目を閉じた彼女は、肉体を現世に置き去りにし、精神だけがここを離れて天に召されたように見えた。清らかすぎたのだ。世俗の息遣いからすればあまりに清らかすぎる聖気を纏っている。隷蛾、すなわち、己の自由を代償にして強者からの庇護に甘えながら生き長らえる寄生種たちを詰め込んだ車内に居ながら、世俗の欲望から解き放たれたサトの心。その内面から溢れ出すのは、正しく、聖なる煌めきだった。神々が午睡を楽しむとされる無果(ムカ)の庭の片鱗を身の内に顕現させたかのような、それほどまでに、あらゆる者の侵蝕を拒む清らかな自信と強さがあった。
それを端的な言葉に変えるなら、己の能力への盲信、なのだろうな。
自分が視ている未来が確定している、もしくは確定できていない、という能力頼りの自分勝手な妄想を鵜呑みにして、その信仰を根拠として己の願望を打ち立てているのだから。
感情はひたすらに熱く、手触りの冷たい孤独な吐息に当てられたティロォスは、握られていた手を離し、手枷に拘束されたままの手で彼女の細い首を包み込んだ。
確かな体温を感じながら。
ゆっくりと首を絞ってゆく。
ゆっくりと首を絞ってゆく。
ゆっくりと首を絞ってゆく。
「僕には未来が見えないけど、今はサトのことが見える。こうして触れあえる」
そうだ。ティロォスは、いや、ティロォスに限らず魔族に属する者はみな、こういう流れを嫌う。一方的に与えられる信仰そのものに拒絶反応を起こすのだ。
そうでありながら、相手に対して一方的に自分だけの聖夜(身勝手な欲望信仰の世界)の中に相手を縛り付けたいと望む。心の中で産み育てた絶対的な正欲をもって、相手の全てを包み込みたいと願う。いや、正欲による支配を望む。故にティロォスたちは魔族と呼ばれるのだ。神族か魔族かは、性根の聖か邪かの区別で分けられるのではなく、信仰か支配かで区別されている。どちらにも種族はあれど、いずれも人外という枠でくくられる者たち。神魔分類の根幹は、所詮、この程度の違いでしかなかった。
自己盲信するほどの強力な正欲をもって、ティロォスの心を取り込もうとしたサトが正しく魔族なら、そのサトを、更に熱く滾った拒絶反応のような正欲で捕らえようとするティロォスもまた、正統な魔族であった。
「サトの体温、サトの鼓動、サトの吐息。全てを感じられる今が、僕の手の中にある現実の全てなんだ」
頸部の急所に押し込んでいく指の先で肉体の全てを識る。脈動を捉えられているのだとわかっていながら、サトは成されるがまま、天上天下唯一の命をティラに預けていた。
不思議だ。
彼女のティロォスに対する信頼感はどこから来るのだろう。それほどまでに、彼女が視たというティロォスの未来は、甘く、耽美で、幸せなものなのだろうか?
「サトにはどんな未来が視えているのか、僕にはわからないけど、今、この現実だけは僕が変えることができる僕だけのもの。定められた運命の糸は、今も僕の手の中にある。
こうして君と触れあっていられるのには理由があるんだ。僕らが過去からずっと繋がっていて、遙か遠くまで絡み合っているのには、二人で向かう未来に、何か大切な想いを届けようとしているからなんだよ。だから、僕の目の前にサトがいる。この奇跡だけが、僕にとっては真実なんだ。愛おしくて温かな現実」
首筋からゆっくりと、自分勝手な速度で、指を離す。青い跡を残して。
潤んだ瞳。
一気に血色が戻っていく彼女の頬を、優しく包み込んだ。
「どんな未来が視えていたって、心配しなくていいよ? 僕の側にいるかぎり、君の未来を変えられる。僕らが望む、欲望の未来に歩いて行ける」
「信じてもいい?」
「うん!」
「もし。私が悪夢を視て、耐えがたい未来を視て、わんわん泣いちゃったときは、私の『今』を救いに来てね?」
「任せて。その代わり、君は僕の手の届く距離に居てくれなきゃ」
ふふっと微笑んだサトは、ゆっくりと目を閉じた。柔らかそうな頬、長いまつげ、ちょっと丸くて可愛らしい鼻、ふっくらした唇。
「任せて。悲しい未来も、苦しい今も僕の色に変えてあげるよ」
ティラは前に体重を移して、閉じたまぶたに口付けを落とす。
「側に居てね?」
もう片側にも、時間を掛けて、じっくりと。まるで傷を付けるかのように。口の中で立てたキスの音が、小さな座席の間に生まれた。
「もっと見せて? サトの綺麗な目」
もっと見つめたくなったのか、それとも恋の言霊の効果を推し量りたかったのか、ティラがそんな風に誘ったけど彼女は首を横に振る。それでいながら、ティラの肩にもたれかかってきた。
「恥ずかしいからダメ」
手枷のせいで肩も抱けない。
ふっ。お前は手を握っているだけだと物足りなさそうだな。うん?
「何だかティロォス君の温かい言葉を聞いてたら眠くなってきちゃった」
すりすりと、小動物みたいに頭を肩に擦り付けてくる。
「もう少ししたらさ、この中で暴動が起こるんだ」
……ん? ん?
「さっそく期待しちゃおうかな。守ってくれるっていう君の言葉。それじゃあ、おやすみ」
「待って? 寝ないで? 暴動? 待って? 詳しく聞かせて?」
「大丈夫大丈夫。襲われるのはもう少し後だから。近くなったら起きるよ。それまで体を貸して? あと、あんまり揺れたりしないでね、起きちゃうから」
「いや、あの、サト?」
ついっと見上げてきた彼女。絶妙な距離から口付けするように唇を動かして、囁いた。
「寝てる間なら私の……好きなだけ吸ってもいいからね?」
ティラが妖しい色香に呑まれて固まっている間に、サトはティラの手を握ったまま眠りに落ちていた。穏やかな寝息が聞こえてくる。
(え? 暴動って言ってた?)
言ってたな。外から襲われるとは考えにくいから、恐らく列車の内部で起こるのだろう。
(この車両にそんなことをしそうな人はいなさそうだから、他の車両の人たちか)
そうなるだろう。事前に誰が行うのかがわかれば良いけど。
(難しいだろうね~)
計画的に暴れたがっている者が、これから暴れますと宣伝することは無い。実行するその時まで、大人しく息を潜めていることだろう。
(じゃあ、やれることはなさそうだ。未来予知能力を持っているサトが大丈夫って言ってたぐらいだし、僕も寝よっと)
時々、ぼそぼそとしゃべる声だけが生まれる、静かな車内だった。サトの体を預かったまま、ティラもゆっくりと浅い眠りに滑り落ちていく。
第二話
第三話 『おにたまぅ ~鬼が卵を産ませようとしてくる件~』
第二話
三話目 「カルアミ」
💧隷蛾の販売会が開かれる町に着いた。駅に着くと何十台もの大型の馬車が並んでいて、何事かと人々が集まりちょっとした見物になっていた。目立つだろうが、これは非合法の催し物だからな。集まる度に強面の男性達に追い散らされている。
しっかり眠れたか? ティロォス。絶対的な安心感を与えてくれるサトが隣に居たからか、ぐっすり眠れていたように思うが、座ったままだから体の疲れは取れてないように見える。
静かな場所で休むためにも、早く目的地に着いて欲しいところだ。
警備員達の休憩を待ってからティラ達は十人ほどに分けられ、馬車にぎゅうぎゅうと押し込められていく。
外はとうに明るいし、人目もあるからだろう、カーテンは端を厳重に釘打ちされ、外からは見えないように徹底されている。蒸し暑い馬車の中で、左右から潰されるように、誰かの膝の上に座るような窮屈さで運ばれていく。列車よりも乗り心地が悪い馬車は初めてだ。もっともティロォス、お前にとっては有難いかもしれないな。これなら精を吸い放題だ。
もちろん会話はない。
狭すぎてそれどころじゃない。夕方までは、ひたすら肉と骨の感触に押しつぶされる時間が続いた。
休憩中に与えられた荒麦のパンと根菜のスープが口から出そうだな。それでも、隣の少女に隙間を作ってやっているお前の心は、魔族らしい偽善者ぶりで好ましいぞ?
「着いた~。もう足が痛いよ」
日がだいぶ傾いてる。もう夕方に近いのか。
だだっ広い果樹園だった。青々とした葉が繁り、ところどころに花芽が付いている木々が規則正しく並んでいるところをみると、手入れが行き届いているのだろう。
その敷地の中に、人間が入れるほど大きな鳥籠がいくつも置かれている。木々の温もりと檻の冷たさ、湿っぽい花の香りと鉄サビの匂い。
日常と非日常が融合しているかのような空間だ。これも客の理性を乱す演出の一環なんだろう。
町からはだいぶ離れたな。金のある貴族の所有地みたいだ。
ここなら部外者から見られる心配もなければ、浮浪者が迷い込んでくることもない。秘密の取引場所としてはお誂(あつら)え向きだ。
(こう見ると、ティロォスは体力ある方なんだね)
(同じ体型の子達からすればね? 年齢を考えればダメダメに弱い方だけど)
ティロォスが、刈り揃えられた草原(くさはら)に座って足を揉みほぐしてる隣で、何人もの子が疲れ切った表情でダウンしてる。この長距離は、まだ体が強く育っていない者達にとっては確かにキツいだろうな。
広く見渡してみても観賞用の隷蛾しか居ない。労働用に連れてこられた者達は途中で別れたか。こっちは貴族達のための取引場所と見て良いだろう。ここまで盛大に仕掛けているのなら、商品の値段は釣り上がるぞ?
それぞれが体を解している中で、ずっと付いてきた警備員が声を張った。
「今から配る札の番号と同じ籠の中に入って待っていろ。お前達は今夜のうちに引き取り手が決まる予定だ。金持ちの良家に貰ってもらえるよう、せいぜい科(しな)を作る準備をしておくんだな」
果実を練り込んだパンと温かなスープ、そして15番の札を渡される。鳥籠の場所は端の方になるか。私たちが見つかるようなトラブルになったとしても目立たない場所になるなら、いっそ幸いかもしれない。
(ねえ、ティロォスは男の子と女の子、どっちで参加するの?)
(このままでいくよ。女性に貰われた方が後々便利になりそうだからさ)
汗臭くなったシャツワンピースのまま籠の中に入る。ふむ、早くどこかの令嬢の家に入れてもらって、美味しい料理にありつきたい。
(手の込んだお料理食べたい! でも、ティロォスみたいな血統書の付かない隷蛾に美味しいお料理なんて出してくれるかな?)
出してくれそうな女性を選ぶのも、腕の見せ所だろうよ。頼んだぞ? できるだけ倫理観に甘そうで、格下の者への愛情の深そうな女性を選んでくれ。
(難しい事を言うね、ミズチ。でも、頑張ってみるよ。僕のためでもあるからね)
(あれ? そう言えばサトちゃんは? ティラと同じく観賞用の隷蛾として運ばれてきたなら、この場に居るんだよね? サトが居れば、ティラがどんな人に貰われるのかを教えてもらえるんじゃない?)
(サトは居ないよ)
うん? 居ないとはどういうことだ?
(ここに着いてからずっと探してたけど、見当たらないんだ。集められた人数は多いけど、全員の顔がわからないほどじゃない。それなのにサトの姿が見えないところをみると、途中で抜け出したんだと思う)
(抜け出した? なんで? どうして?)
(サトの目的は、観賞用隷蛾の販売会に出ることじゃなくて、僕に会うためだったんじゃないかな?)
最初からそのつもりだったと? 隷蛾の脱走なんて日常茶飯事だから、警備する側も警戒しているだろうに、大胆な真似をするんだな。
(未来が視えていたらそういう芸当も難しくないのかも。やっぱり僕らとは考え方も生き方も違うんだろうな~。でも)
(でも?)
(……また会う気がする)
会うだろう。あれだけティラに執着していたんだから。
ティラに自分の未来予報の正しさを見いだすために、何度も何度もティラに会いに来るんだろう。向こうがその気なら、こちらも利用させてもらえばいい。持ちつ持たれつで進んでいけるのなら、それに越したことはないんだ。
(あ、エンジンの音)
現代に置いては富の象徴である車の音が、いくつも連なって丘を登ってくる。多分、彼らが今日の客なのだろう。どんな人間達が集まってくるのか、見物(みもの)だな。
(これからしばらくは、その女性の家に住み着くんだから、相手はちゃんと選んでね?)
特に何の合図もないまま人々が動き出したのは、太陽が赤く染まった頃だった。客達が鳥籠の中をジロジロと眺め出したから、ああ、会が始まったんだなと気が付いた。
果樹園のあちこちに篝火が焚かれて、隷蛾の姿を朧気に照らし出してる。集まった客は一様に目元を隠す黒い仮面(マスケラ)を被っていて、鳥の羽や毛皮で派手に着飾っていた。まるで仮装パーティーにでも参加するのかって風体だったが、それがここのドレスコードなのかもしれない。趣味は悪いが、ここにはここの礼節がある、という事なんだろう。
ティロォスはちゃっかりと野花を数本摘んでいた。ピンクと黄色の目立つ花だ。それを両手で抱いて、人形のように寡黙に、横座りで座っている。皆が同じ服装だから、こういう小細工が相手の印象を左右する。もっとも、他の隷蛾たちも、それぞれが少しでも良いところにもらわれようと、何かしらでアピールはしている。こういう会が初めてという隷蛾の方が少なそうだ。
遠くで、鳥籠の扉が開く音がする。早くも買われていった隷蛾がいるらしい。
(あの子、鳥籠の中で踊っていた子だ。あれだけアピールできたら十分に注目されるよね)
ああ。シャツの裾をひらひらさせながら大胆な動きで衆目を集めていた隷蛾がいたな。体の使い方は素人からみても堂に入っていたし、確かにあれだけ印象深かったら、すぐに買われるか。
(あんなに踊れる子がどうして隷蛾になったんだろうね。正規の踊り子としても活躍できそうなのに)
どうしてだろうな。本人のこだわりがあったのか、周りに強いられたのか。
(隷蛾であることにこだわりを持つの?)
この問いかけにはティロォスが答えた。
(表舞台で活躍するより裏社会に身を置いている方が稼げる場合もあるみたいなんだよ。観賞用の中でも特に高額の値が付けば、隷蛾側が引き取り手の好みを提示することもできるから。もちろん、限度はあるだろうけど)
隷蛾に利用される者もいれば、隷蛾を利用する者もいる。もちろん、法に則って取り締まる者の方が圧倒的に多いわけだが、それでもこうして存在できているのだから、世の中はまだまだ広い。
(ねえ、あの子はどう? 父親っぽい人に連れられている子)
ミズチが言っているのは、こちらに向かっている親子連れだろう。例の如く仮面で目元は隠れているから人相はわからないが、二人の間に身長差があり、距離感からも娘のように見える。ティロォスと同じような年齢かもしれない。
(こういう場に子供を連れてくる人の精神って、どんな形をしてるんだろうね)
自分で勧めた相手を、自分で貶し出すミズチ。言いたいことはわかるが、当初の条件にしていた倫理観の甘さとしてはちょうど良いんじゃないか? それに、本当に娘なら、裕福かつ力を持っている家の証のようにも思える。
(どういうこと?)
家族に隠れてコソコソと買いに来ているわけじゃないってことだろう? それなら、万が一、こういう場に参加していることが周囲にバレても、醜聞を揉み消せるだけの権力や財力を持っているってことなんじゃないか? そうでもなければ、大事な娘を連れてきたりはしないだろうし。
(一理あるね。あたしはあの子で良いと思う)
私たちの意見が固まったところで、ティラが しゃん と座り直した。咳払いをして喉を温める。
(じゃあ、やってみるよ?)
手にした花を揺らしながら、独特の節を付けて歌い出すティロォス。
足跡ぽつぽつ
可愛いリズム
迷っているの?
可愛い視線で
空に散らばる神話みたいに
次に繋げる先を迷ってる?
それとも最後に手を伸ばす
ピリオドの場所を失った?
よそ見をしないで 真っ直ぐおいでよ
ほら見えてるよね 僕が掲げる星灯り
聞こえてるでしょ 風に結んだ僕の声
欲と鎖でほどく鍵 僕と二人で繋ぐ先
いつまでも君の虜でいさせてよ
君の為に囀る小鳥で居たいんだ
偽りの夜に生まれた僕の想いに
たったひとつの値段を付けて?
小さく、細く、ティラが歌う。魔術は風に乗り、暗がりに溶けて少女の元へ。
恋魔術『恋扇の矯歌』は、歌詞とリズムに乗せた想いで魔術における圧を作り、それを風や紙を媒介として伝えることで、相手の心を揺さぶる精神魔術だ。
この歌を受けた者は、不意打ちで心の奥にある恋愛領域をピンポイントで揺さぶられてしまい、この時に生じた心の激しい揺れを一目惚れの衝撃だと錯覚し、術者に対して恋心を抱きやすくなる。
恋扇の矯歌の恋愛成就成功率は、真心を込めて書かれたラブレターぐらいだろうか。決して高いとは言えないが、可能性は間違いなく上がる。その程度の威力。
古くからある力の強い魔術とは言え、相手の恋愛感情を操るのは難しいのだ。
少女の立っている場所は、ティロォスの入っている鳥籠からは少し距離がある。きょろきょろと物珍しそうに首を回していた少女は、風に乗せた魔術が届いたであろうタイミングでビクンと背筋を伸ばした。続いて、ハッと顔を上げる。
ティラの恋魔術はうまく琴線に触れたな。さあ、効果はどうだろう。これが一発で決まってくれたら、取り入るのも楽なんだが。
少女の動きが目に見えて落ち着かなくなった。強制的に揺らされた心のすがりつくべき先を探すように、首を振って、爪先の向きを迷わせ、細い体の向きを変え続ける。心のときめきが、何によってもたらされたのか見つけられないでいるからだろう。不安そうに見回す度に、丈の短いドレスの裾が波打った。
大人達の中でも物怖じしていない。見た限りだと、気の強そうな印象だ。
長い影が、華奢な色を引く。
滑らかに艶めく生地に、派手やかな花々の刺繍をふんだんに散らしたベージュ色のドレスは、篝火の揺らめきを怪しく照り返している。
艶花に揺らぎ。
まるで、偶然触れあっただけのひとときの関係を腕の中に引き留めようとするかのような、私利私欲の遊びを演出している、分かりやすい扇情的な造形。
さすがに、こんな色気のドレスで包み込むには、少女の体は未熟すぎやしないだろうか。
しかし、センスはともかく素人目にも高そうなドレスだ。間違いなく裕福な貴族だぞ。
ティロォス、あの子に決めてしまえ。
ついに、ピタリと視線が止まる。
この距離ではティロォスの姿は良く見えないだろうけど、それでも少女は人差し指を真っ直ぐ伸ばし、こちらを差した。鳥籠に向けて。いや、あの指先は、ティロォスの心を差しているのか。
よし、見つかったな。
仮面を付けているから表情はわからないが、少女の気が急いていることだけは伝わってきた。父親らしき男性を強く引く手。逸る気持ちが、先へ先へと体を突き動かしているかのよう。
毛先を華やかな色に染めた、黒いボブカットの髪に、年相応の活発さが見て取れた。
対面だ。
鳥籠の外、見下ろす瞳に浮かんでいるのは好奇心のきらめきと、隠しきれない身勝手さ。そして、他者の自由を奪う行為に慣れた者特有の、占有物への執着的な微熱。
鳥籠の内、見上げるティラの瞳にはきっと、虐げられることに慣れた者だけが宿す凝った闇と、幸せな未来を拓いてくれる相手に抱え上げてもらえるかもしれないという期待が作り出す惨めな光とが、目まぐるしく入れ替わって浮かんでいるんだろう。
その瞳が映す心をたとえるのなら、神人への信仰であって、絶対君主への盲信であって。人の上に立つ者が一番好むであろう色合い。
こういう乳臭い演技は、ティロォスの得意分野だった。
鳥籠の檻を挟んで二人が見つめ合う。先に動いたのは少女の方だ。
「この子はどうかな?」
父親らしき連れの男に、期待の眼差しを向けている。隷蛾を選ぶ権利は少女の方にあるらしい。もちろん、金を払うのは男の方だろうけども。
「貧弱な男子では使い道などないぞ?」
少女とは打って変わって、男性はティロォスを一瞥するなり吐き捨てるように言った。ビックリするぐらい興味が無さそうだ。そんな物言いが気に入らないのか、少女は食い下がる。
「え~! 今日はカルアミの好きなのを選んでいいって言ってたじゃん。初めての隷蛾ぐらい自分の好きなのにしたいよ」
「こんなもの、何に使おうと言うんだ?」
「……だって……見た目が……な、何でもいいじゃん。これから決めるんだから」
気が高ぶってきている少女を理屈で押さえ込むのは難しいと判断したのか、男性は鳥籠の外に下がっている鍵を開けると、飾り杖を振って、ティロォスに外へ出ろと命令する。
言いなりに外へ出ると、杖の先を向けられた。
何をしたいのかがわからず黙っていると、硬い杖の先端で左の肩をグイッと押し込まれる。尖った物で突かれれば当然痛い。
ティロォスは身をよじってかわそうとした。
その動きを見せた瞬間だった。杖を持つ手の手首がくるりと回転し、右の脇腹を強打された。左肩を後ろに引くための軸となる右の脇腹を正確に叩かれ、簡単にバランスを崩すティラ。
あわあわと、よろめく。
崩れた体を立て直そうと立ち上がりかけた所で、顔の正面に杖を当てられた。
(あ、ティラ、ダメ! その杖を正面にもらっちゃ!)
カグラが慌てるけど、もう、遅いだろうな。
杖の先で中心線の空間を取られたティロォスは、もう体勢を戻せなった。動きを全て先読みされて、姿勢を立て直すために頭を持っていきたい所に、杖の先が必ず存在している。そんな状況を作り上げられてしまった。
杖に邪魔をされ、体が反ったまま、元に戻せないのだ。
のけぞり、起き上がれず、どんどん後ろにバランスを崩していく。後ろに下がろうと足を動かせばバランスを崩してひっくり返ってしまう、左右に体を振ろうとしても、そこには必ず杖の先が居る。
そう、行動の全てにおいて杖が先回りしているのだ。
人間の骨格を正しく知っているからこそ成せる技、バランスを取ろうとすればするほど逃げられなくなる。
中心取りの妙と呼ばれる武術の技だった。
そうして、必死に仰け反りながら倒れないようにバランスを取っているところで、不意に杖に先端が胸の中心に当てられる。
いや、単純に当てられただけでは無かった。
杖から伝わってきた男の体重がティロォスの腰へと向かい、腰の関節の動きを重力で封じられる。
腰関節を極められた。
ティラは受け身も取れないまま、何かにしがみつこうとする本能だけで手をバタつかせ、でも何も掴めないまま、無様なほどに、背中から地面にバタッと落ちた。
「神体神技、武道武術の心得も無し」
男性は視線を外した。すでに意識がティロォスを見ていない。完全に興味を失ったようだ。
虚無に支配されていくティロォスの視界を、可愛らしい顔が覆った。
「君、大丈夫? もう! この子が戦えないのなんて見たらわかるじゃん。こんなに酷いことしてさぁ!」
「それならどこに魅力を感じたと言うんだい?」
「見た目とか、雰囲気とか」
「そんなもの、数年で変化する。価値とは呼べないものだ」
そう言い捨てると、もうこちらを見もしないで、他の籠へと歩いて行ってしまう。
差し出された手を取って立ち上がるティロォスだったが、筋肉が引き攣るような腰の痛みに顔をしかめる。
「ん? どこか怪我しちゃったかな? 痛む?」
さっき腰を極められたときに攣りかけただろ? さすがに運動不足すぎる。
「平気……です。その、ごめんなさい。上手くできなくて」
「いいんだよ? 君にそんな危ないことは求めたりしないから」
お、このセリフ……勝ったな。
就職先が決まったぞ。
「えっと。もしかして、私に貴女のお世話をさせてもらえるんですか?」
「あ、うん、買うのは君にするよ。パパには僕から伝えておくから」
既に遠く、人の間に紛れ始めている男の背中。
「大丈夫。今日は僕の好きな子を買って良いって言われてるもん。任せて」
楽観的で軽い笑顔を見せた彼女は、ティロォスの鳥籠に備え付けられたベルを力強く振り、空高らかに鳴らす。
人々の列が止まった。誰もが興味本位で私たちを見ている。
誰が買われたのか。
誰が買ったのか。
これっぽっちも関係の無い者達が、ジロジロと。
ジロジロと、ジロジロと。
それでも彼女は振るのを止めなかった。
有象無象の視線を意に介さない、自分の目的を達成させるためには躊躇しない。ベルの音ひとつ取っても、彼女の生き方が現れているようだ。
「ねえ、名前を教えてよ」
会場の係員が慌てて飛んでくるのを見るまで鳴らし続け、満足した彼女は、クルッと私たちの方を向いて聞いてきた。
「ティロォス、と言います。よろしくお願いします」
「ふ~ん、言いにくいね。じゃあティラでいっか」
「……良い名前を頂戴致しまして嬉しく思います。どうぞ、お好きにお呼び下さい」
「うん!」
ヒュ~。
人間にしては良い性格じゃないか。
自己満足な身勝手さなら、カグラと良い勝負かもしれないぞ?
彼女が案内役の男から受け取った購入書にアレコレと書き込んでいる間に、ティロォスがコソコソと聞いてきた。
(あれ、カグラは? 居る?)
(……居る……よ)
随分とくぐもった声だった。まるで枕に顔を押しつけながら話しているかのように、声がぼそぼそしている。
(え!? どうしたの? カグラ?)
(き……気にしないで)
(気にしないでって言われても。ミズチ、カグラはどうなってるの?)
無理もないな。この子の父親らしい男性は腕の立武芸者だったろう? ああいう人間は精霊や魔族といった人外の気配に酷く敏感なんだよ。いくら心の中に隠れているとは言え、普通に話していれば私たちの気配を察知してしまうだろう。
私は水の精霊で、感情の波を制御するのが得意だから、外に気配をはみ出させないように気をつけながら話が出来る。だが、カグラの熱は火の精霊の中でも強い方なんだ。しゃべってたら一発で悟られてしまうだろうし、残り香みたいなものでも気が付く者はいるだろうな。
精霊も、人間界では肩身の狭い存在なのさ。
「この車だよ? さ、乗って来て?」
街の中でもなかなかお目に掛かれないほど前後に長いエンジン車だった。車内はポプリやタペストリーが飾られているから、荷物を運ぶためのものではないらしい。垂れ幕や家紋といった家柄を示す印が付いていないところを見ると、お忍び用の車なのだろう。
この図体で。
彼女と父親らしき男性が向かい合って座る。二人とも座席の真ん中に、座る。いくら車内が広いとは言え、座席の真ん中に人が座れば、左右に他の人が座るスペースは無い。
となると……。
「大きくてビックリしてるでしょ? いいよいいよ、遠慮しなくても」
彼女の視線が床を示しているのを見て、ティロォス改めティラは、入り口脇に出っ張っているステップを踏んで車内に乗り込み、床に正座で座った。
二人とも何も言わないから、隷蛾の乗り方はこれで正解なのだろう。いくら隷蛾とは言え、さすがに車の床に座るというのは、他の国では聞いたことがなかった。
これは、彼らの常識を覚えるところから始めないといけないな。
少女の父親の出せという合図で、車はエンジン音を高鳴らせる。その割りにスルスルと、静かに動き始める車。
周りの目がなくなると、二人とも顔を隠していたマスケラを外し、思い思いの姿勢で座る。
少女が早速ティロォスを構い始めた。肩を引き寄せられ、彼女の膝にしな垂れかかるように促される。
頭を撫でられている様子は、まるでペットの扱いだな。もっとも、観賞用の隷蛾なんて、値段の張るペットと変わらないのかもしれない。
「僕の名前はカルアミって言うんだ。よろしくね」
「僕は……ティラです。よろしくお願いします」
「うん。あ、パパの名前はカルメノだよ」
カルアミ。水晶混じりの宝石の名前だったか。
話してみた印象は、意思と言うより我が強そうだ。彼女の強引さは、ティロォスにとっては都合が良いかもしれないな。こちらから動かなくても、生活する上での道標を示してくれるだろう。
そして、やはり保護者役をしていた男性は父親だったようだな。そのカルメノは無反応。君と仲良くする気は無いのだろう。もっとも、君も父親には興味が無いだろうけど。
電車とは比べものにならない静かな移動。だが、大きすぎるエンジンが、突き上げるような振動を生んでいる。座席に座っていれば、幾分マシなのかもしれない。
スカートから伸びるカルアミの足に頬を寄せて媚びを売っていると、パチンと小気味よい良い音が響いた。足下に葉巻の先端が転がってくる。拾うべきか見ない振りをするべきなのかを迷っていると、その切れ端は、革靴の底で踏みにじられた。
シュッとマッチを擦る音が続き、気高い芳香が車内に漂い始める。
煙だけを静かに吐き出すカルメノが、重々しく講釈を垂れる。
「よく聞きなさいカルアミ。人を使うのが私たち貴族の役割だ。どう扱い、どう磨き、どう使い捨てるのか。お前が相手に慣れるのでは無い、他者を己に慣れさせるのだ」
「はい、パパ」
「いずれは大勢の者を従えるようになるだろうが、何事にも初めがある。その奴隷で慣れていくがいい。館の従者も、お前に何人か付けてやろう」
「ありがとうございます」
狙い通り、規模の大きそうな貴族の一家だ。上手に取り入ることが出来れば長く居られそうだな。
頭を撫でていた手が、次第に下がり、頬をなぞる。唇の端を探る。整えられた爪の先が、唇の縁を行ったり来たり、肌を滑った。手慰みの愛撫に、ティロォスは目を閉じて応えている。
相変わらず不器用なテンポで突き上げる振動を膝と腰で緩和させ、柔らかな揺れを彼女の太ももに添えて。ルールを求めない手指の遊びに、うっとりして見せるティロォスの忠誠。
不意に両手が首を温かく包み込んだ。細く長く、健康そうな指がアゴの下で遊んでいる。
窪みに沿ってなぞり上げられると、自然と上を向いてしまう。すぐ真上から見下ろしてくるカルミアは、君への興味を隠さない。
ほわっとした笑みを浮かべてみせるティロォス。
甘い空気だ。
お前、ちょっと幼児退行していないか?
カルアは膝の横にぴとっと頭を乗せてくる君が可愛らしくなったのか、髪の先をかき回してる。
一息付けた安心感と、ここ数日の寝不足が効いたのか、眠気に襲われる。このまま眠るのもいいだろう。道のりは長そうだ。
二つほど町を越えた。
「ここから僕の家になるよ」
月明かりだけでは、どのくらい広いのかがわからないほど敷地が広い。カルメノが趣味で植えているらしい果樹園が一面に広がり、その間を小川が流れている、との案内を受けた。これは、思っていた以上かもしれない。
カルアの自慢話を聞いているうちに、車が止まった。着いた先はカルアのお屋敷。
でも、私たちが向かう先はそこじゃないらしい。
「家の中は明日にでも案内するよ。ごめんね、中で一緒には住めないんだ。外にある小屋で過ごしてもらうことになるよ。隷蛾はみんなそうなんだけどね」
そんなわけで、屋敷のすぐ側にある、カルアが小屋と言った小さな家に来た。そう、家。部屋は小さいながらも3部屋あって、トイレ・シャワーも備わっている。普通に生活できる大きさだ。見た目だって、地方の古家よりよっぽど綺麗なデザインに思う。
「君の服と……首輪も用意しなきゃ」
やっぱり、奴隷よりもペットの扱いに近いだろうな。
「不思議だよね。最初は女の子を買ってくるつもりだったんだよ。でもね、君に強く惹き付けられたんだ。遠くから一目見ただけなのに、心が揺さぶられる感覚に襲われた。きっと、縁があるってこういうことなのかも」
疲れていた君は、そのままベッドに倒れ込んだ。
こうして1日目が終わる。
ひとまずここまでですm(__)m
第二話 『おにたまぅ ~鬼が卵を産ませようとしてくる件~』
第一話
二話目 『カグラ』
🔥(たっだいまーーー!)
心にカラフルラリアット。
(ねえねえ、めっちゃ燃えてた! 真っ黒い石が真っ赤な炉に放り込まれて、轟々火を立てながら燃えてるの! 赤くて熱くてかっこよかった!)
驚かそうと思って、汽車の窓からティロォスの心へ直接飛び込んだ。寝てたから起こしてあげたのに、ティロォスはビクン! と体を震わせたかと思ったら、凄い剣幕で『正に! 今! 猛烈に怒ってます!』アピールをしてきた。
(カグラ!? 何してるの!? 五月蠅いよ!!!!!)
ひっど! 家族が帰ってきたのに五月蠅いってどういうこと!?
(気持ちよく寝てるところにラリアットをぶちかまされたら、誰だって怒るでしょ!)
だって、ティロォス、寝たら起きないじゃん。
(まだ起きなくていいの!)
なんで!? 隣に美味しそうな子が寝てるのに? 超絶チャンスじゃん。産ませなくてもいいの? あ、それとも、もうヤっちゃった?
(おかえり、カグラ。随分とテンションが高くないか? 周りの人間に見つかってないだろうな? そんな裸みたいな姿が人目に触れれば騒ぎになりかねないぞ)
ミズチは、普段よりも一層細めた目で、あたしの体に視線を刺す。
戻ってきたよ、ミズチ。人間に見つかるようなへまはしないってば。ハイテンション? そうかな? ずっと燃えさかる石を眺めてたから、熱に当てられちゃったのかも?
ペタペタ。広く薄暗いティロォスの心の中で、お互いの腕を触り合う挨拶を交わした。
簡素な姿のあたしと違って、ミズチは衣装を重ね着している。ミズチが身につけている衣装の手触りが好きだった。絹のような滑らかさがありながら、温もりを伝えてくれる不思議な質感を伴っている。
ミズチは普段からオシャレだ。人目に付かない場所に居るのに、ちゃんと着飾っている。今日はティロォスの薄暗い心の中でもハッキリと浮かび上がる白い肌に、水色のヒラヒラした長いワンピース衣装を身につけていた。あたしはそういうのが面倒だから、中でも外でも裸にコロナ(熱を帯びたガス)を纏わせているだけ。一応、浅黒い肌に似合うような、濃い赤色のコロナを選んではいるけども。
あ、ミズチも一緒に燃える石を見に行く? まだまだ火を吹き上げてると思うよ?
(いや、いい。石炭が燃えてる様を見てても面白くはないし、頭が逆上(のぼ)せるだけだ)
煤まみれの人間が、一生懸命スコップでザッザッって、轟々って、楽しいのに……。
それで、この子は?
(ああ、この娘は)
あたしがいない間に起こった一連の出来事を聞いた。覚りって種族の魔族でサトって言う名前なのはわかったし、しばらくしたら、この列車の中で何者かに襲われるって事もわかったけど。
そんで、え? なんか二人して、この子にビビってない?
(ビビってるって言うか、その)
ティロォスがめっちゃビビってる。
(思った以上に上級魔族みたいだ。未来予知の能力の前では、誑し込みの能力を上手く活かしきれない。デートに誘うのはもう少し信頼を得てからの方がいいだろう)
ミズチがめっちゃビビってる。
この娘、そんな強そうには見えないけど。寝てる様子は、普通に可愛らしい人間だった。ちょっかいをかけようかと思ったけど、大人しくした方が良いかな。
(面倒なことはやめてね?)
(カグラは手を出さない方が無難だ。直情を良しとするお前と、搦め手が使える未来予知では、余りに相性が悪い)
つまんないの。
あ、噂をしたら起きたみたいだよ?
彼女、サトだっけ? サトがティロォスから体を離すと、背中を反らして、ぅんっと甘く吐息を漏らす。ぐ~っと背中を伸ばした緊張を、だら~っと解放させて、そのけだるさのままティロォスの顔を覗き込む。
クンクンと首筋を嗅いできた。
「おはよう。ティロォス君の体から違う女の子の匂いがする」
「おはようサト。火の精霊、カグラがさっき帰ってきたから、きっと石炭の燃える匂いがするのかも?」
「そんな変な匂いじゃないよ~。でも、火の、風が燃える匂いっぽいね」
クンクンと鼻を鳴らしながら、首から胸の辺りまでを嗅いで回ってる。仕草は確かに獣みたいだね。覚りって狸だっけ。
「サトが目覚めたって事は」
「うん。そろそろ始まるよ? 始まりの始まりが」
「始まりの始まり? どういうこと?」
「どうもこうもない、かな。文字通りの意味だよ。今までの会話は序章に過ぎないの。ここからが、ティロォス君の本編になるから」
やっぱり意味がわからなかった。まるであたし達のここまでの道のりが、全て存在していなかったかのような口ぶり。これから始まることだけが重要ですって言ってるようなものじゃん。
そりゃあ、彼女からみれば、ここからが二人のストーリーになるのかもしれないけどさ。
そんなあたしの疑問を知ってか知らずか、彼女はしっかりとした意思を見せて言った。
「君の物語を紡いでみせて。私を未来へ連れてって」
欲望にギラつく瞳。こちらの脳裏を正確に射貫く力強い視線。
へ~。
同じ魔族なのに、ドキッとしちゃうじゃない。つーか、本来なら、このときめきをティロォスがこの子に与えなきゃいけないんだからね?
「うん、やってみる。僕の今を見てて」
ふふっと、サトは硬く引き締まってた表情を散らし、笑顔を振り撒いた。
「私も協力したいな~。二人のための今なんだもん。ねえ、ティロォス君、私の目を見て? 同じ未来を視せてあげる」
特別だよ? って囁いたサトの左目が、眼球が、音もなく、ぐるりと反転した。眼球の裏側には黒水晶のように透き通った闇があった。その奥に、何か見える。まるで、ちっちゃな望遠鏡で広い景色を覗いているみたいに、奥行きがあって、でも、その全てに色が無くて。白黒の映像だから、どこか現実感が薄い。これが未来を視る力なら、確かに不安になる映像かも。
ティロォスは恐れずに彼女の黒い目玉を覗き込む。
吐息で彼女の瞳を穢さないよう。
じっと。
息を潜めて。
おでこが触れるほどの近くから。
じっと。
見えた 視えた
未来の端を
俯瞰で掴む
二人の先を
男がいる。襤褸を纏って、車両同士を繋ぐ入り口に立っている。手には、何か得体の知れない、何かをぶら下げている。映像がぼやけすぎててわかんないけど、たぶん人間の命を刈り取るものだ。辺りを怒鳴り、脅し、そして、こっちに向かってくる。明確な殺意、そして、欲望。
人間のくせに
人間のくせに
おまえは魔族よりも
醜い色をしているね
ティロォスが相手を迎え入れた? ティラが危ない。ティロォスだけが危ない。裸にされたティラが、危ない。
でも、きっと。
これが正しい未来。
映像が切り替わる。
男がいる。男は背中を見せている。襤褸を纏って、得体の知れない何かをぶら下げ。まるで、その背でティロォスを守るかのように。
男の色は消えていた。
男の全てが消えていた。
これ、これじゃあ……。
この男は、
もはや人間とは呼べない。
予報映像が終わった。はっと意識を前に戻すと、頬を赤らめて、恥ずかしそうにしているサトが目の前に居た。
「ティロォス君すっごく真剣な顔だったよ? 意識を手放してる顔も綺麗なんだね」
え~~~~? 褒められてるかな~。それ、褒めてるのかな~。
「もしかして、僕、気絶してた?」
「うん。未来予知の能力は凄く強いから、覚り以外が未来を視たら脳の負担が大きすぎて、意識が落ちちゃうんだよ? 死ぬことは稀だから大丈夫」
こっの狸! 先に言えってば、そういうことは!
万が一、ティロォスが死んだら一生呪ってやるんだから! せっかく苦労して手に入れた可愛い可愛いお人形さんなんだから、そんな簡単に
(カグラ、出てる出てる)
あ~、なんでもない、なんでもない。
(実際、魔族の固有能力の中には、相手の力量に関係なく強制的に効果を発動させる魔術や呪いも存在しているからな。そのレベルの呪いにうっかり触れようものなら、あっという間に死んでしまう事もある。気をつけなければいけないぞ?
こら、聞き流すなよ。ティロォス、お前に言っているんだ)
「その、未来を視たら、後遺症で死んだりしない?」
「死んだの?」
「まだ生きてるけど……」
「じゃあ、そういうことだよ。安心して?」
何が安心して、だよ。性格わっる。
「ティロォス君には何が見えたかな」
「男に……襲われる様子がぼんやりと」
「どう? 戦えそう?」
「うん。でも、手に持っている凶器がわかんなかった」
そうだね。形がぼんやりしすぎてて、何を持っていたのかわかんなかった。刃物かな。タダの刃物なら何とか押さえ込めると思うけど。
「不安?」
「ううん、平気。僕だって君を守るぐらいはできるよ」
格好いいんだけどさ、でもさ~、相手は覚りなんだよね~狸なんだよね~。彼女から見たら、ティロォスの強がってる心なんて裸も同然なんじゃないかな?
「ほんと! 嬉しい。きっと、君なら私も、ここに居るみんなのことも守ってくれる。そう信じられるよ」
な~んか。裏を読みたくなるぐらい、可愛らしくて優しい声色。
(カグラはこの娘を随分と警戒してるんだな)
別に警戒してるってわけじゃないんだけど。なんか、この狸……怪しい。
「それに、未来を視たことで、対処の方法は思い付いたんじゃない?」
「うん。どうすれば良いのかはわかったよ。確実に相手を倒せる方法がね。ありがとう、視せてくれて」
ティラは狭い座席に両足を抱えて座った。
「二人とも、手伝って?」
何するの?
「女の子になる」
(あ、あー。……ああ、ね?)
まあ、いいけど。
「なに? 何かマズいかな?」
(いや。問題ない)
いい……んじゃないかな?
「??? じゃあ、やるよ?」
ティラが膝を立てて座ったまま、両手を広げて、手のひらを上にしたまま膝の上に乗せる。右手に炎、左手に水の精霊文様が浮かび上がった。
「火と水の奇跡を僕に
人見不(ヒトミズ)の鬼蹟を僕に」
ふたつの文様を閉じるように、手を合わせたら、閉じた太ももの間に手を差し込む。そうして、身をかがめて祈るんだ。目を閉じて、息を潜めて、火と水による仮初めの陰陽秘術を行う。
ティロォスの身体の内部が、原初の粒子に戻されていく。外見は人の形を保っているけど、意味を成しているのは形だけ。今のティラは、どの生き物でもなくなってる。
(いいぞ、ティラ。後は任せてくれたらいい)
うん! 私たちが美少女に作り替えてあげるから。そのまま祈りを続けてね。
『水』
水の流れは永久に刻む光陰
滴ぼれくる遠しじむこ陽
のるばいかをくむ伝の
音滝かえな求真城奇 陰
がのりむ時め実跡 陽夏
時天ををにるを のるの
を辺詠知秋君 奇出れ熱
無にむるの 跡数いま微
垢現瞳体 をのる思込、
にるに 君瞳手れたし春
帰宿 のるうたかっ射す
す 体指操惑っ導まにこ
にむうをにばに染ら起
宿風孕お句語んりにはが
す灯熱情に節季が彩色の火
『火』
詠唱がティロォスの身体の中で巡ってる。原初の粒子に流れが生まれて、流紋の一つ一つが意味を持ち始めてるんだ。陰と陽、水と火に囚われながら、身体を構成して……。
はい! もういいよ~。お疲れ様。
お望み通りの美少女が出来上がり。
ティロォス、改め、ティラメスが目を開けた。骨張ってた身体は柔らかそうな輪郭に変わり、髪は伸びて、唇はぷるぷるのピンク色。腰が引き締まった代わりに乳房がしっかり膨らんで、あちこちが女性の身体に変わってる。
「すごーい! 性転換の秘術なんて初めて見たよ」
「どう? 体の中まで作り替えるのは少し時間が掛かるのだけれど、表面だけを誤魔化すだけならすぐにできるの」
「ちゃんと声まで女の子になってる」
「そうよ? 言葉遣いもたくさん練習したんだから。これなら口調でばれることもないでしょ? それと、女の子の時の名前はティラメスって言うのよ? 宜しくしてくださいませ、サトさま」
喉が変わったから、声音も女性らしくなってる。もう誰も、君が男の子だったなんて思わない。ここに居ないはずの正体不明の女の子。この姿なら何をやっても捕まったりしないから、思う存分暴れていい。
(問題は、暴れられるだけの力があるかしらってことよね。作ったばかりの身体は不安定だから)
余裕そうな笑顔を見せるティラメスも、内心は不安でいっぱいになってる。
「女の子としては完璧なんだけどね、この体」
「うん? 問題があるの?」
「すっごく弱いのよ」
えいえい! って腕を振ってみせるティラメス。サトはその手を取って、安心させるように言う。
「心配いらないって」
「うん。精一杯やるけど。もし、死んじゃったら……悲しんでね?」
冗談みたいに言った台詞は、真面目な視線に止められた。ぐっと近づいてきて、ティラメスの意識に彼女自身の想いを被せていく。
「貴方は死なないわ。私が視てるもの」
きらめく左目がティラの心を捉えた。
どういう意味だろ。
てか、近すぎ。今さらだけどこの子、距離感バグってない?
「私のこと、みていてくれる?」
「もちろん。最後までね」
う~ん。
深読みする? 聞き流す?
「ありがとう、サトさま」
「ふふ、なんだかこそばゆい声。そろそろ、始まると思う。君の好きにやっていいよ? 未来は真っ直ぐ進んだ先にあるから」
うん、と頷いたティラメスに言葉を重ねたサト。
頷いたティラメスは、なるべく体の中まで作り替えておこうと、体内に意識を込めていく。あたしたちも変化の手伝いをしながら、意識は暴漢がやってくるであろう隣の車両へと向けていた。
しばらくしたら、怒鳴り声と人間が倒れる大きな物音が、前の車両から聞こえてきた。複数の声だ。複数と複数の声。しばらく争うような音が続いたあとに歪な静けさが戻る。
来るよ? 次はこの車両の番。
君子危うきに近寄らず、と無視を決め込んでいた車両内の隷蛾たちも、何が起きたんだろうと身を乗り出して視線を送ってる。
ガシャンと鈍い音を立てて、隣の車両とを繋ぐ扉が開かれた。現れたのは薄汚れたシャツを着た、複数の男たち。そんなに体格が良いって感じじゃないけど、筋肉質だ。そして、目が極まっちゃってる。虚ろでギロギロと見開いてて。
未来予知で見た、襤褸を着た男は先頭に立つコイツで間違いなさそう。その後ろにも数人付いてきてるけど、一番ヤバそうなのはコイツ。
(さっき、ぼやけてわからなかった得物はクロスボウだな。刃物よりは面倒かもしれない)
戦闘の男が怒鳴った。
「なんだこりゃ。労働隷蛾の俺たちは座る場所も無いほどぎゅうぎゅうに詰め込まれてたって言うのに、ここの連中は随分と良いご身分だな。同じ隷蛾だっつーのによ。なあ」
クロスボウを天井に向けて撃つ。矢を放った弓弦が震えるビィーンという音と、電球が砕ける音が重なって響く。ガラスの破片が飛び散る中で、観賞用隷蛾たちの細い悲鳴が車内に反響した。
自分より小さい者たちが怯え、悲鳴を上げる様子に満足したように、車内を睥睨する男。
しっかし、中距離武器かぁ。距離を詰めてしまえば撃ってこなくなるだろうけど、どうやって詰めるか、だよね。
「喜べ。俺たちがこんな場所からお前達を逃がしてやる。お前達だって、こんな生活に嫌気が差してるだんだろう? どれだけ働いたって稼ぎは増えねーし、住む場所だって良くならねぇ。いつも残飯みたいなものばかり喰わされて、死ぬほどこき使われる。こんな場所から逃げ出したいよな、お前らも」
手錠を嵌められた子供たちに自由を与える、そんな大義名分を振りかざすためにルールを破ったんだと主張する大人。自尊心を満たせるシチュエーションだよね。この雰囲気だけで酔っちゃってるみたい。
一般人の中でも貧富の差があるように、隷蛾の中にも身分の違いがあるみたい。コイツらは労働用に集められた隷蛾だね。ティラメスのような観賞用隷蛾は美しさや可愛らしさが価値に繋がるから、主人から大切にされるかどうかはともかく、基本的には大事に生かしてもらえる。中には自分から進んで観賞用隷蛾になる者もいるぐらい生活は安定してることが多い。
一方、労働用隷蛾は使い捨ての道具としてしか見られないもん。体力や筋力に自信がある人は、隷蛾じゃなくてちゃんと雇われて働いてるから、労働用の隷蛾は会社に雇ってもらえなかった人達がほとんど。怪我や病気、生まれ持った資質なんかが原因で普通に働けない人たちが、生きるのに困って労働用隷蛾になったりしてるみたい。そういう背景を知れば、やけを起こしたくなる気持ちもわからなくないけどさ。
(それで他人を不幸に巻き込むのは、違う。そうだろう?)
「せっかくおんなじ汽車に乗ってるんだから、仲良くしようぜ? なあ。助けてやるんだからよ」
男たちが、座席に座る子に手を出し始めた。乱暴な手つきで手当たり次第に隷蛾達の髪を掴んだり、胸ぐらを掴んだりして、品定めみたいな事をしてる。
唇を奪ったり、胸をまさぐったり。
あ~あ。
もう、許されないね。許さないよね。
ティラメス、どうするの?
「サト、ごめんなさい。ちょっと協力してもらってもいいかしら?」
「うん、平気だよ? 好きにしてみて?」
ティラメスは立ち上がると、サトの服を掴んで強引に立たせた。そして、胸を突き飛ばし、通路に転ばせる。
サトの悲鳴で、男たちの視線がこっちに集中した。それら全部の視線を受け止めながら、ティラメスは通路に出て、床に座り込んだサトを挟み、男たちと対峙する。
「あなたたち、大層な御託を並べていても、本心は女の子たちを慰みものにしたいだけなのでしょう? だったら、この子を使ってくださらない?」
「なんだお前は」
男たちの視線はいぶかしむように、床に転がったサトとティラメスの顔を行ったり来たりしてる。
「おいおい、仲間を売るなんて、随分と育ちの良い娘じゃないか」
「誰が仲間。そんなわけがないでしょう」
「へ~。隷蛾なんて底辺層にも、お前みたいなプライドで頭の狂った――」
「易々と話しかけないでくださる? 低俗な貧民の分際で」
ティラの言葉を受けて、動きを止めるボウガン男。数秒の間を置いて、聞いた。
「なんつった? 聞き間違えか?」
「頭の他に耳まで貧相だなんて。ご愁傷様」
男が無表情にクロスボウを構えたのが見えた。
でも、ティラメス、びっくりして動けない。
うわっ!
引き金を引くタイミングで車両が揺れて、気が付いた時にはクロスボウの矢はティラのこめかみをかすめて、後ろの通路扉の窓枠に突き立った。
うわ! うわ! マジで撃ってきた!
(ティラに当たってたら、呪い殺してた所だ。何をしてくれるんだ、この男は)
いや、ティラに刺さっていたら、殺すだけじゃ済ませないってば。
(びっくりしたびっくりした……ねえ……おしっこちびりそうなんだけど)
やめて、かっこわるいから。
(やめなさい。品のない報告は)
「なまくらなのはそのオモチャ? それとも腕の方なのかしら?」
「黙れ、ガキが。今からお前に正しい口の利き方ってヤツを教えてやるよ? お嬢ちゃんよう」
こういうチンピラっぽい台詞で勝ったシーン見たこと無いんだけど、それでも言っちゃうのは何でなんだろうね。こういうのも逆張りって言うのかな?
(語彙力がなまくらなんだろう? 神様に似て)
クロスボウを放り捨てると、大股でサトを跨いで近づいてきた。今のところ、サトに手を出す気は無さそう。見向きもしてなかったね。ま、プライドが高い人ほど、格下の者が捨てた物を拾おうとは思わないから。
今のところは狙い通り。距離を詰めるためにクロスボウも投げ捨ててくれた。でも、代わりに男の手にあるのはナタみたいなナイフ。振り下ろされると厄介かも?
(震えながら怯えてみせれば、怪我をさせようとは思わないだろう。上手くやって見せてくれ、ティラ)
キッと鋭く、力を込めて睨め上げながらも、腰を引く。徐々に後ろへ下がっていく。でも、すぐに後ろの壁に当たっちゃった。視界の横に、突き刺さった矢が見える。
もう、後が無いよ?
強気なフリをしながらも、体が怯えている女の子の真似。この場におけるティラメスの役柄。
観賞用隷蛾は肉体労働用隷蛾よりも身分が高いんだ。ティラメスちゃんは、身分こそが世の支配を決める絶対的な基準なんだって疑いもしない、そんな世間知らずの女の子。身分が自分を守ってくれるんだと信じていたから強気に出られたんだもんね。
なのに身体が体格差にビビっちゃってる。一対一になったら、動物と動物との生存競争でしかないんだって、暴力による弱肉強食の理しか存在しないんだって、暴漢の手が届く時になってから、やっと気が付くことができたんだ。
下の唇を軽く噛んで、目に涙を溜めて。全身で高飛車な女の子の窮地を演出してる。電球の明かりを背にした男が落とす真っ黒な影に、身体が飲まれると、ようやく楯突いては行けない相手だったんだと気が付いたみたいに、目を伏せて。
でも、もう遅いよね。
次に何をされるのかを察して、ティラメスは細い腕でギュッと胸を抱いて、柔な身体を縮ませる。
あっは、ティラメス上手。あんな台詞で煽っておいて、この怯えようなら、きっと相手も脅した甲斐があるってものだよね。可愛いな~愛おしいな~。もう、カグラが襲っちゃおうかな~。
「なんだ? もうおっかない口は塞いじまったのか? そうかそうか、偉いぞ、お嬢さん。でもなぁ、ごめんなさいしても、もうタダじゃ済ませねーんだわ」
男はティラメスの手枷を掴むと、頭の上に持ち上げて、壁に押しつけた。ナイフでシャツを引っかけると、ゆっくりと、嫌らしい速度で持ち上げる。
あっは。
こんなの見てたらカグラが襲っちゃいたくなるよ。カグラなら、もっと優しく、ねっとりと、愛情たっぷりに襲っちゃうのにな~。ねえ、ティラメス。ティラメスも私に襲われる方が嬉しいよね。こんなクズじゃなくてさぁ。あははははははははははははははは襲ってあげるね、ティラ、ティラ、ティラ……。
(待て待て、暴走しないでくれカグラ。これから私たちは共同で魔術を掛けるんだぞ? そんなに盛ってたら私が息を合わせられなくなる。
ティラの狙いはこの男を操ることだ。
カグラ一人では殺すことしかできない。そうだろう? 操るなら二人で息を合わせて取りかからないと)
だってさ~あ? もう、生かしておく価値なくない? こんなシャツを首元までめくり上げやがってさ。女の子の肌を皆の前で晒してさ。ティラ、このダボダボしたシャツしか着てないんだよ? こいつの嫌らしい目。あれだけ煽られて馬鹿にされたのに女の子の裸を前にしたら全部忘れてるんじゃないの? バカなの? カスなの? どこ見てるのよ、見るなら顔でしょ? 目でしょ? 馬鹿にされたツケを払わせてやる! って男を見せるところでしょ? おっぱいとかそんな所にしか目が行かないなんてクッソ何考えてるの? 相手を屈服させたいんじゃないの? 傷つけられたプライドを挽回したいんじゃないの? ただただ性欲を満たしたいだけで自分のプライドを捨ててるの? あったまきた、人間の男共がどいつもこいつも
(どうどうどう。落ち着け。私たちが丹精込めて育ててる玩具を雑に扱われて怒る気持ちもわかるが、目的を忘れないでくれ)
目的?
(この男を手に入れるんだろう?)
身体だけね? コイツの穢れた心なんか要らない。
(わかった、わかったから。ほら、そろそろ出番だ。準備しよう、カグラ)
はあ。
もう、やっちゃっていいよ? ティラ。こっちの準備はできてるからさ。
「どうしたお嬢さん、さっきまでの威勢をどこへ落としちゃったのかな?」
「な、何する気……」
「何をする気だと思う?」
コイツの後ろにいるのは二人。そして、ひとつ奥の車両から出遅れて付いてきた一人が顔を覗かせている。暴漢共がコイツを入れても合計四人なら、コイツ一人を抑えれば叩きのめせるね。
ティラの首が男の手に押さえつけられた。圧迫されて呼吸が詰まる。
「ほら、捕まえた」
捕まえた? 笑わせてくれるじゃん。
捕まえさせてあげたのに。
首を押さえつけてきた腕に、手枷を乗せて、全体重を手首の下、橈骨(とうこつ)の一点に掛ける。一瞬で視線の上下関係が変わった。
驚いた顔を見せる男の顔を、両手で挟み込む。
「( ほら、捕まえた )」
もう逃がさないよ?
眼球と、眼窩の隙間に、両手の親指を埋める。体のバランスを崩せる急所のひとつ。
「ガッ!!」
ティラの反撃に対して男ができた行動は、たったこれだけ。悲鳴を上げると同時に、意識を落っことす。
一瞬で刈り取られた意識と、刈り取ったことで生まれた精神領域の隙間に、一気に魔術を流し込む。
魔術の詠唱も必要ないよ? この距離なら直接こいつの脳に送り込める。
あたしたちの火と水は、陰陽の関係。すべての命の根源にあるのが陰陽だから、火と水を操れれば命の全てを操ることに等しくなるんだ。
ミズチ! やるよ!
(いいぞ? いつでも)
魔術・言霊図式
形式・陰陽に従う火水の掛け合わせ
効果・意識の乗っ取り
***魔術式の要約***
流転しながら形を変え続ける月の光。その神秘的な景色を支えている柱は、太陽が空と大地に課した火蝕(かしょく)の業。(日光に灼かれ続ける罰が火蝕)その業を負うのは一羽の堕天使。罪穢れの冤罪で堕ちた天使の自らの潔白を祈る心は永劫に続いていく。やがて、地に伏す堕天使の身の、偽られた罪は解けていった。堕天使は、再び空への帰還を願う。月夜に黒く伸びて天地を繋ぐ帯を柱と呼ぶ。この柱は、穢れた心を捲るべく、堕天使の運命に現れた陰影であった。地上から伸びた柱は、真っ直ぐ天を貫く。月下、柱が落とす影の傍らに跪く子が居た。(今になって、祈る間もずっと共に居てくれたのだと気が付いた)未だ望み叶わぬ身でありながら、慈愛の心で子を抱いた堕天使、その姿はすでに天使そのものの姿である。堕天使の姿が揺れ、罪が灼かれる瞬間、天への悟りを開くのだ。堕天使は地上の欲に濁ってしまった目を清めるために聖水へ。(ふと顔を上げた先に思わぬ光景を見た。神の姿だ)瞳から溢れた雫は、煙雲に昇る神へと姿を変えた子の、形を暈かす一滴となった。
******
火と水による陰陽の模倣式
心を捲る運命に現る陰影
×
形を灼く天命帯びる陽光
≒
流れ続ける命を抱く水滴
×
煙り揺らぐ命を還す火柱
『縦読み用』
流転する月光を支える柱
それらは太陽が課す火蝕
永劫続く祈る心伏す身の
偽り解け再び帰還を願う
黒く伸びる帯を柱と呼び
心を捲る運命に現る陰影
柱真っ直ぐ天を貫く月下
影の傍ら跪く子抱く天使
姿は揺れ罪灼く瞬く間に
悟り開く眼を清め聖水へ
煙雲に子の形暈かす一滴
流 光 柱
れ 陽 火
続 る す
け び 還
る帯を
心を捲る運命に現る陰影
ぐ天を
ら く 抱
揺 灼 く
り を 水
煙 形 滴
命
捉えた! コイツの根幹!
ビクンと男の身体が震える。手応えもあったんだけど、はっきりと目に見える反応も起きたね。
これでコイツはもう、身震いする抵抗さえ許されない身体になったよ。私たちの許可が無ければ何も出来ない傀儡の心身、乗っ取りの魔術。相手の意識を操る魔術は、高確率で相手を殺してしまうから普段なら使わないんだけど。
コイツも、もしかしたら死ぬかもしれないけど、あたしたちは殺され掛けた身なんだから遠慮する道理なんてなくない?
アゴを落とし、目を見開いてこっちを見ている姿はパッと見ただけだと生きているのか死んでいるのか判別が付かなかった。血走った目は焦点が合っていないし、ティラメスの襟を掴んでいる手は震えて、口からは声のような何かが漏れ出ている。
「私から手を離しなさい」
ティラメスが命令すると、男は従順にめくり上げていたシャツワンピースから手を離し、アホっぽい芯の抜けた棒立ちになった。ここからは一生あたしたちのターンだね。
ティラメスは優雅な手つきで撚れた裾を張り直し、乱れた髪を整える。
「どう? 変じゃない?」
アホっぽい男の前で体を左右に振って、あろうことかコイツに身だしなみを尋ねるティラメス。そんなの、あたしたちに聞いてよ。強引に襲いかかろうとした奴じゃなくてさ~。
(心の内側にいたんじゃ私の容姿は見えないでしょ? あ、待って! まだ外には出てこないで? 騒ぎになったら困るんだから)
飛び出し掛けた体がつんのめって、ティラメスの心で二の足を踏む。
むぅ。あたしたちの攻防を知らない脳天気なアホ面が、問題ないと言うようにコクコクと頷いた。その瞳には、男らしさも情慾も、もっと根源的な命の煌めきすら存在していない。
良い傀儡だった。
「さあ、初めてのお仕事よ? 名前も知らない暴漢くん。あなたの武器で仲間を襲いなさい」
通路を見れば、床に転ばされていたサトも座席に戻っている。道はひらけていた。
くるりと反転した男は、無言で通路を戻っていく。どうしたのかと訝しむ仲間の前で、高々とナイフを振りかざす傀儡。チカチカしているライトの下で、感情を失った銀色が細く弧を描いた。
「おい、なに……」
銀が 描く
弧 を く。。。血
を弧 血 描 が
が描 が を
銀 く 弧 血が弧
を
描く
間断なく振るわれたナイフは、あっという間に血を帯びて、周囲の座席に真っ赤な飛沫を飛び散らせた。目の前で何が起ころうとも傍観者であり続けることに唯一の逃げ道を見いだしていた隷蛾たちでさえ、さすがに血を見て怯えたらしい。皆、漏れ出そうになる悲鳴を両手で押さえ込みながら、早く過ぎ去って欲しいと祈るように身を丸めて、惨状から目を背けてる。暴れ出したりしないところに、従順であろうとする隷蛾の性格が見える。
数秒の間に何カ所も切られた男は、ぐったりと近くの椅子にもたれかかるように崩れた。この時点で、傀儡の足は前に跳ねている。獲物から抵抗の意思を感じられなくなった瞬間には、すでにナイフの切っ先が次の仲間に向いていたんだ。速いね、感情が無いから襲うのに躊躇も無いんだよ。きっと。
次の被害者は、何が起きたのかを自分の目で分析しようとしてたみたい。仲間が裏切ったのか、それとも不測の事態が発生したのか、逃げるべきか助けるべきか。
結果、逃げ遅れてるから、ただの間抜け。
ナイフが目の前に迫ってるんだから、脇目も振らずに逃げ出さなきゃ。
刺突。
どこに刺したのかは見えなかったけど、ナイフはその体と一緒に床に沈む。
傀儡の仲間は、あと一人。
悲鳴を上げて逃げ出した。
ちょっと距離がある。
傀儡は投げ捨てたクロスボウを拾い上げ、矢をつがえる。慌てて次の車両へ移る扉を開けようとしている背中に目掛けて矢を放つ。まるで作られていた道筋があるかのように通路を走り、突き立つ矢羽根。
傀儡が歩く。
矢を放つ。
矢は男の足を射る。
傀儡が歩く。
矢を放つ。
矢は男の肩を射貫く。
傀儡が男にぶつかって止まる。
矢を撃ち下ろす。
矢が肉を抜く音が響く。
矢筒の矢が尽きたとき、傀儡を操る効果が切れて、操り人形の糸が切れたかのように仲間の上にぐにゃりと倒れた。
うん、遠隔で操ったわりには上出来じゃない? 乗っ取りの魔術は、操ることはできても技術を与えることはできないから、操られている本人の力量分しか力を発揮できない。そう考えれば、男のクロスボウの腕は良かったみたい。ティラに撃たれた矢が逸れたのって運が良かったのかも?
(それか、狙いがブレるほど頭にきていたか、だな。ティラ、そろそろ暴漢が伸された話が他の車両にも伝わっている頃だろう。警備員が駆けつけてくる前に容姿を戻した方が良いんじゃないか?)
隷蛾の輸送では、何かしらのトラブルがあると、逃げ出した者は居ないかの確認のために必ず点呼を取られるからね。まだ魔族であることがバレたくないなら、男の子に戻っておいた方がいいよ?
ティラが大人しく元の席に戻ると、サトは窓側に座り直していて、ティラに通路側の席を譲ってくれた。
「お疲れ様、かっこよかったよ?」
座席に座ったらすぐに体を丸めて、女体化の変化を解いていく。本来の男性の姿に戻るだけなら魔術も必要ないし、楽だよね。ちょっと時間は掛かるけど。
「ありがと。ごめんね? 突き飛ばしちゃった。痛くなかった?」
丸めた背中を温かな手が撫でてくれる。男性と女性を行き来したのと、乗っ取り魔術の行使で疲弊した体に、体温と共に注がれる精気が心地良い。サトは、背中を撫でることで精気を吸われることをわかっててやってくれてるみたい。
(どうしてここまでしてくれるんだろうな。あまりにこちらに都合が良すぎて、薄ら怖いぐらいだ)
カグラがあたしの疑問を直接的に呟いた。う~ん、怖くはないんだけど、手のひらで踊らされている感じはするよね。これが未来予知能力を持ってる人特有の雰囲気なのかな?
あたしたちの会話を知ってか知らずか、サトは笑いを含んでいるような雰囲気で言う。
「ううん、痛くなかったよ? むしろ感謝してるんだから。助けてくれたんだもん」
サトは少しだけ大きく、伸びのある声を放つ。
「この車両にいた人には誰も被害が出てないんだよ? 君はみんなを助けたんだから」
わざとらしく感じるほどの明るい声は、車内の隅にまで広がっていった。シーンと静まりかえる車内に、ガコンガコンと線路の音が響く。強いられるように作られた静寂は、どこか居心地の悪いものだったけど、サトの言葉に異を唱える者は居ない。
サトの言葉はティラよりも、車内のみんなに向かって言ったもの。みんなに向かって、ティラに感謝をしろって伝えたいわけじゃない、助けてもらったことを恩義だと感じているなら余計な事を言わないようにって釘を刺しているんだ。
誰にどんな余計な事を言うのかと言えば……。
「な、なにが!? 何があったんだ!」
『事態が収まったことを確認してから』車両に飛び込んでくる役立たずの警備員にってこと。警備する気なんて最初からないじゃん。ちゃんとアイツらが暴れてる最中に来れば良いのにさ。
(警備対象は列車だったって事なんじゃない? 機関室を守っていたのかも)
(それはありそうだな。列車の方が価値は高いんだから)
えー? 二人ともそんな考えなの?
列車は替えが効くじゃん。ティラは替えが効かないんだよ? どっちに価値があるかなんて一目瞭然なのに?
(ミズチはティラの価値を知っているからそう思うのだろうが、警備員は知らないから。列車を優先させるのも無理はないだろう)
そんな会話をしている間に、列車内の事情聴取は終わったみたい。みんな口を揃えて暴漢達が仲間割れを起こしたって言ってたみたい。ティラの事はバレてないよ?
もっとも、誰かが話したところで、襲われかけた『女の子』は居ないんだから、説明のしようがないけど。
警備員達が。転がっている暴漢たちを運んでいった。息があるって話をしてるのが聞こえたから、全員生きてるみたい。隷蛾として奴隷のように生きてきた人間だけあってタフなのかもね。
再び穏やかな時間が戻ってきた。ガコンガコンと列車が進む。血なまぐさい匂いはあるけど、身の安全が確保されただけでも全然違う。
「ねえ、ティロォス君」
「うん?」
「どうして精霊を二人も宿すことになったの? 二人って珍しいんだよね? それともティラ君の出身地では普通のこと?」
安全になった途端、質問された。ずっと気になってたみたい。
「ううん。一人だって珍しいけど、二人も宿してる人は居ないんじゃないかな。僕以外に見たことないかも」
「じゃあティロォス君は、どうして?」
「僕は吸精鬼じゃない? だから他人から精を吸い取るんだけど、吸い取るときは相手にくっつかなきゃいけないんだ。くっつくためには相手をデートに誘うのが一番自然で楽なんだよね」
「うんうん」
「それで、人間や魔族、神族、そして、精霊からも吸い取れたら楽かも? って考えたんだよ」
「吸い取れる相手は多い方がいいって考え?」
「そう。そこで、カグラとミズチに二股を掛けてデートをしてたらバレちゃって。恨みを買って、こうして嫌がらせされてるんだ。精霊って嫉妬深いみたい」
「そうなんだ~」
サトはニコニコしながら言った。
「君って、さいっっっっっっっっっってい、なんだね✨」
ティロォス、君は最低なんだよ? 自覚してるかな?
そんな最低なティロォスを、あたし達が最高のオモチャに育ててあげるって言ってるんじゃん。
ん? 別に嫌がらせじゃないんだよ?
あ い じ ょ う 🧡
第三話
稜線
あっ
と思っても
声
にならないのです
のどのあたり
山脈を越えない
わたしには山脈がない
鳩は
透明に
切り取られた
障子の
向こう側
しきりに
くるっぽ、
くるっぽ、
と
わたしに
呼びかけているのですか
歪に
縦に
丁寧に
三等分された
ドーナツは
ほのかに
あなたのかおりが
するのです
喉を鳴らすには
もう
遅いから
開け放たれた
冷凍庫の中
黒ずみ始めた
ドーナツの
穴
一等分
あなたに
差し上げます
先生は言う
先生は言う
忘れなさい、と
記憶を薄れさせ
神経をなだめ
まどろむ精神状態へ導く薬を服用し続け
やがて思い出は一点に収束される
左手首を切った時のあのひとの表情
驚愕と恐怖と声になっていない悲鳴と嗚咽
笑顔が、思い出せない
困った時の表情、ムッとした態度
寝顔や仕草、イク時のせつない声
誰よりも知っていたはずなのに
言葉だけが横たわり
記憶に関連していかない
忘れ去った過去にしろ、と強制させる薬
頭を抱え込み
あの日のあなたのように
身体を丸めて忍び声で泣く
私
どうなってしまうの
あんなにあなただけで満たされていた頭から
あなたを失ってしまったら
私の中に何が残るというの
悲鳴を上げてしまいそうで唇で噛み殺す
恐怖と不安で薬は増加し続け
服用する度に失われていく、愛しい記憶
あの日のあなたしか
驚愕と恐怖の表情だけを鮮明に焼きつけて
これからを生きろ、だなんて
どうして先生そんなこと言うの
あの日のあのひとだけを唯一の思い出にしろなんて
どうしてそんな残酷なことを言うの
先生
私、生きている意味までもが解らなくなってしまう
急速に失われていくものが解らない
解らない内にあの日のあのひとだけを残して
これからを生きなければならない意味ってなんですか
何なのですか
先生は言う
全て忘れなさい、と。
あきぞらにポップコーン
こんがり色に焼けゆく山際
バターを塗るがよろしいか
たわわな果実に誘われて
動物たちが唄って跳ねる
農夫は女房に口づけて
娘はぶどうの上でダンスした
村々で湧くハーベスト・フェスティバル
かみさまは天使らと
ポップコーンをたべながら
(塩味かな?キャラメルかな?)
そら、愉快な宴を観てみようと
ぴたぴたにくっつきあった
かたいふくろを
思いっきりひっぱった
弾けるクラッカーみたいな音と
秋空のスクリーンを
埋めつくすポップコーン
街へ売られた少年が
煙突から煤だらけの顔を伸ばして
青に浮かんだ白いそれを
たべてみようとしていた
夜の祈り
いえに かえりたい
いつもと おなじ せいかつが
したいんだ
どうか どうか
だれにも めいわく
かけないから
いえに いられたら こまるから
たのむから そこに いて
どうか どうか
なかないで
2026/09/22
僕は今、とても深い絶望を感じている。
こんなことを現実でも言えたらいいな。
幻聴。僕を嘲笑う爆笑じみた声がちょうど今も鳴り続けている。
僕が、こんなことを現実でも言えたらいいな、と書く。
すると、幻聴が爆笑しながら、「こんなことを言えたらいいな!ギャハハハハ!」と執拗に叫んでくる。
僕は別に、自分の病が原因で死にたいわけじゃない。
現実はとても残酷で、大切なものを神様になったつもりで奪う奴がいる。
信じられないかもしれないが、それが国家機関だったりもする。
つまるところ、僕は国に絶望している。
どうして、僕は、人を助けただけなのに、国は僕から大切なものを奪うのだろう。
誇大妄想ではなく、事実である。
この極めて冷たい事実が、分厚い氷の壁となって、僕を閉じ込める。
戦うことも疲れた。誰もわかってくれない。
死んだ方が、話が早い。
でも、僕は、死なない。
大切なものを取り戻すために。
僕は、純粋さに憧れていた。
純粋な人が、大好きだ。
世間は卑しい。吐き気を催させる嫌な奴ばかり。
純粋な人が、大好き。
だから、生きていきたい。
今夜はとても幻聴が激しい。
そういや、天国から帰ってきたという話を聞かないな
不幸な人をなくしたいなら
幸せな人をなくしたらよい
幸せにだって程度があろう
幸せが他人より僅かでも足りなければ
不幸になったと人は感じるものだから。
「見よ、これが幸せの国だ」
そう広めるのは天国に住む天使たちだ
かれらは自分の住んでる国を
もっとも幸せな国なのだと
言い張らなければいけないモノらだ。
幸せになりたいだろう?
不幸になんかなりたくないだろ?
幸せだけを感じて生きたいだろう?
不幸をだけを避けて生きたいだろう?
幸せだけを追い求め、人は生きるべきなんだ。
「見ろ、これが不幸の国だ」
そう囁くのは地獄に住んでる鬼たちだ
かれらは自分の住んでる国を
もっとも不幸な国なのだと
言い張らなければいけないモノらだ。
どちらの国も遙か昔から
進歩も進化も進展も無い
対して違わぬ国だけど
そこに住んでる民族たちには
互いに立場というものがある。
自分の姿も変えられない
国の姿を変えられないから
時折訪ねてくる人間たちに
変われ、変われと
言ってくるのだ。
午前0時
※ 某所にて『ダーク短歌の会』なるものを見つけ、これは! と5首詠ませて戴きました。本当にダークなのでご注意を。
貴方の目キャンディーみたいにコロコロとお口の中で溶けゆく恍惚
なぜ泣かす さすれば花を鋭利な花を突き刺しましょう追わないように
愛してる あたしの骨をボリボリと齧る貴方の背後から抱く
腕捥げたビスクドールがもう不要? 血にしてください愛しきその手で
恋煩い胸に靄と化しくすぶる夜チークを踊り皮膚結合す
https://i.postimg.cc/Fs9VQNcV/solispia-wu-qian0shi.png
最後だと思わなかった
気が付けば
牛が寝転がり
一切の動きを止めていた
呼吸
遠くからでも見ればわかる微動が止まり
異変に気付く
眠るように死んでいた
眠っているうちに多分
苦しみもなく死んでいた
今朝 元気だった牛
夕になった今 息が絶え
死んでいる
合掌
今朝お前の元気な姿を見る最後になると
思わなかった
他の牛たちが変わらず反芻する中
消えてしまった
バケットローダーに載せ
堆肥場に連れていき
産廃業者が来るのを待つ
気が付けば
思わず来たり
最後の日
早く来てくれよ
馬頭観音
牛の尻
今日また
何かと見る
牛の尻
牛の世話は何かと牛の尻を見るし、尻を押す。
手を入れて 介助し
子牛触れり 子牛出てくる
牛の尻 牛の尻
移動する 薬飲め
搾乳パーラー 下痢便落ちる
牛の尻 牛の尻
清めてく 体温を
糞付き尻尾 肛門差して
牛の尻 牛の尻
汚れてる 捕まえて
糞付き押す また押していく
牛の尻 牛の尻
果てしなく 止まってよ
走って逃げたり 遠くに小さく
牛の尻 牛の尻
でも気が付けば牛が近づいて来ている
いつの間に かわくても
気配を消して 舌でなめなめ
牛の顔 牛の顔
でも最後に
移動する 薬打つ
屠畜トラック 筋弛緩剤
牛の尻 牛の尻
お疲れ様 ありがとう
体温消えり 精肉されり
牛命 牛命
啞鳴接究子
啞とは、なにか?
割尻を眼前に晒す裸体に、パッと口開く
大きな非日常の中に、確かな現実もある
鳴とは、なにか?
裏側から肛門をつく音が、ズシズシと子宮へと響く
うねうねと大蛇が這うような、静かな振動である
接とは、なにか?
抜き差しする確かな感触が、互いの愛情となる
受精なき感動であるけれど、密やかな羞恥もある
究とは、なにか?
その飽くなき探究心冒険心が、時に身を滅ぼす
際どさは警戒されるものだけれど、勇者の必然である
子とは、なにか?
子作りなき快楽の追求は、童心の現れでもある
大人として羨望であるけれど、微かな蔑みもある
けんか中華
ついにはじけた 小籠包
なぐりあいっこ 回鍋肉
意地張りぷりぷり 鶏白湯
黙々むくむく 酸辣湯
あいつと他の子 とんで僕
あいつと別の子 またいで僕
給食は おかわりしなかった
放課後ぶらんこ 坦々麺
嫌だったこと あんなこと
伝えてみたんだ 棒棒鶏
ごめんねって 言ってみる
しょんないなって こいつ笑う
それでいいじゃん 豆板醤
またね明日ね じゃーじゃー麺
ろりこん
見境のないままに生きる少女と
青い希死念慮で抱きしめあっている
二十五歳すぎても三十すぎても
うまく泣けない僕の
この部屋には哲学と結露した窓ガラス
二人住まいの単身者向けアパートで
野良猫に餌をやれば
奴らは数を殖やしていく
少女は僕の肩で涙を拭いて眠ってしまった
響くのは猫の声だけ
さっきからキャリ子の赤ちゃんが
キャリ子を探して歩いているのだ
まだなにも見えていないあの子は
いったい親にたどりつくのか
腹が減った
ずっと前から空いていたような気もする
少女は寝息をたてている
台所のバスケットに乾麺がある
食べたい
サッポロ一番が食べたい
似た者同士
乳母 子牛
似た者同士で
反芻し
調子悪い子牛、乳母に付けて体を治す。
血は繋がっていない。
似てる顔
赤の他人で
乳与え
気が付けば
親子になって
同じ顔
乳母 子牛
似た者同士の
寝顔かな
子牛はいつの間にか、元気になる。